植木屋の老棟梁
交遊抄
気のあった人と遊ぶことなら、ぼくはたいてい好きである。もっとも、すべて下手の横好きだから、かえって相手がたくさんできてちょうどいい具合いというもの。絵を見るのも、書を読むのも、原稿をかくのも、遊び、楽しみの要素がなかったら、ものぐさのぼくは何もしないだろう。
もっとも、何もしないで、ぼんやり庭の木々を見て時をすごすのも、この忙しい世の中ではたのしみの一つである。
こんなことをいうとジジムサイ誤解をうけるかもしれぬが、……庭といえば、出入りの植木職にも感服する。棟梁(とうりょう)は老齢で、むかしかたぎの職人である。狭い庭なのに四季おりおりに二、三人の下職をつれて、手入れをしていってくれる。朝のおそいぼくは、そんなとき、庭に出るのは昼すぎになり、この人たちの仕事もかなり進んでいて、昼食の休みごろである。
「ごくろうさん」
ぼくの方ではこれだけ声をかけるだけだが、棟梁は、いろいろ、ぼくの意見をきく。
たずねられれば、そのままにもできず、一緒に庭のそこここに立ち、見まわしてみる。相手はぼくの気ごころを知っているし、年期のはいった植木職だから、何もいうことはない。
「これで結構、この調子で、あんたのいいようにやってもらえばいいでしょう」
これで万事きまってしまう。
手入れが終わったすぐのちにはぼくは庭に出ない。 二、三日か一週間かして、出てみると、よくできている。月夜なども美しい。
もともと乱雑に樹木を植えて、それが大きくなりすぎた気配がないでもないが、それなり職人の手がはいると全体に調和がとれてくる。早朝、棟梁が一人やってきて、二、三時間見たところへ、下職が道具をもってやって来るのだから、この二、三時間が 最初のキメ手になるのだろう。こういう職人はだんだんいなくなってくる。
あるとき、こんなことがあった。もう来るころだと心待ちしていたところ、ついに来なかった。老齢だから、病気にでもなったか、それとも何か別の理由で忙しいのか、この次来なかったら、見舞いしなければいけないな、と思っていたが、次の季節にはやってきた。リューマチで寝ていたという。それはいけない、もう大丈夫なおったのかときいたら、こう答えた―「リューマチの痛さも、あまりひどくないと、結構、痛さをたのしむこともできるもんで」
(美術評論家)