「美しき天然紀行 - サイコロの責任」
現在の若者は生活を楽しむのが上手である、とよく言われる。ある意味ではその通りであろう。けれども、覆い尽くせぬ飢えを抱く者も決して少なくないはずである。喪失感を近似的解決に委ねるには潔癖に過ぎる。手時かな事物は背景が見えすぎてしまう。
劇団「青い鳥」の舞台で、少なからぬ人々はついに求めていた自分の声に巡り合えたと直感する。立ちすくんでいた地点から歩き出す糸口を、そこに感じるのだ。この「青い鳥」の舞台の基調を、僕なりに言葉にすれば、そこに『生活の懐かしさ』がある、ということになるだろう。
僕たちの生活は、確かに苦しく、また寂しいものに違いない。そして僕たちはその中に生きていかざるを得ない。だからこそ、元気を出していきた
い。何故、うちひしがれているのか。この世にあまたある悲劇を承知の上で、僕たちは僕たちとしてなお生きたい。〝理想〟もない、〝概念〟も〝観念〟も、〝イデオロギー〟とも無縁に、むしろ僕たちから僕たちを奪う、それらのものを超えて、実感として、生活を生き抜く力をつかみたい。
僕たちのこの日々の「懐かしさ」をつかみたい。
『美しき天然紀行-サイコロの責任』
これは、ネオパンドラ症にかかったゆりあと、ゆりあの病を治療しようとする小石川アルファルファ研究所の四人の博士の物語である。
ネオパンドラ症とは何か。
ゆりあには〝喜び〟がない。ゆりあには〝怒り〟がない。ゆりあには〝哀しみ〟がない。ゆりあには
〝楽しみ〟がない。そして、ゆりあには〝時間〟がない。
この極度に自閉状態のゆりあは外界にまったく反応せず、ただ、自分の中の樹木の葉が落ちるのを数えている。そして、葉がすべて散ったとき、自分も死ぬと信じている。
ゆりあのために、小石川アルファルファ研究所の博士たちは新薬を発明するべく奮闘している。バーレルセル・ムーミン。冷たい暗黒物質、アクシオン・フォティノ。伝書鳩の右の脳にある、鉄分を蓄積するフェリチン。ヒマラヤの聖者の上あごの皮膚組織。ガラパゴスのぞうがめの産卵時に流す涙。始発電車の溜め息。その他八種類の成分でつくられた“いつでもどこでも健やかになる精神物質”。
このバーレルセル・ムーミンによってゆりあは救われるのか。
そもそも、ゆりあがネオパンドラ症に陥った原因は不明である。けれど、ただボンヤリと時にTVのコマーシャルを口ずさみ、時に独り言を口にする姿は凄惨ですらある。そして、それはゆりあ一人の姿ではない。ゆりあの中に絶えず葉を散らす樹木があるように、僕たちの中には凄惨なゆりあの姿があるはずである。
ゆりあは呟く。
台風が来る夜が好きだった。
母さんを見ているのが好きだった。
デパートにつれて行ってもらうのが好きだった。
エナメルの赤いクツが好きだった。
ソフトクリームが好きだった。
その夏、初めてのスイカが好きだった。
夏休み、眠れない夜が好きだった。
日曜日の朝が好きだった。
日曜日の朝、誰よりも早く起きるのが
好きだった。
あの人が好きだった。
ウンウンとうなずくその目が好きだった。
私を好きだったあの人が好きだった。
ゆりあは過去の一点で停止している。そして、なによりも恐ろしいのは、ゆりあの停止してしまった過去が、そのまま僕たちの過去と交差し、僕たちの過去を引き寄せ、停止させてしまうことだ。ゆりあの過去は幸福な日々である。にもかかわらず、その日々が停止した時、底知れぬ不幸を感じさせる。閉じてゆく現在のゆりあの下降が如実に感じられてしまう。何故、このように幸福な日々を送ったゆりあがネオパンドラ症にかかってしまったのか。何故、生きようともせず、かといって自分で死のうともせず、ただ葉の散ってゆくのを眺め、数えているのか。ここには、不気味なほどに生々しい「過去」があるだけで、どこにもゆりあの息吹は感じられない。
むしろ、ゆりあの幸福がゆりあのネオパンドラ症を招いたと言ったほうがいいのだろうか。
バーレルセル・ムーミンと博士たちの愉快で奇妙な治療も効を奏することなく、ゆりあの葉は残り少なくなってゆく。ゆりあの閉じ込められた過去に引き寄せられ、窒息しそうになるのは、もちろん僕たちばかりではない。直接、ゆりあを治療し、日夜頭を痛めてる愛すべき四人の博士たちもゆりあの真空に吸い寄せられてゆく。四人の軽妙な会話や治療の雰囲気は、おおよそここには活字で再現できない。それは「青い鳥」の醸し出す幸福な時間だ。けれども、彼女たちの軽妙さと真面目さ、明るさと真摯さと一幕隔てて蠢くもの。否応なく彼女たちにつきつけられるもの。いつもどこかで彼女たちを悩ませるものをいつしか予感させる。すでに、ネオパンドラ症はゆりあ一人の病ではあるまい。“いつでもどこでも健やかでありたい”というささいな望みは、果たしてかなえられぬものなのだろうか。
博士たちは、最後の手段としてバーレルセル・ムーミンの雨を地球に降らせることを考える。この賭けともいえる実験は科学者の思い上がりか、残された唯一の手段か。議論はいつしか四人を思わぬ真実に連れてゆく。
<狛江> イルカ、イルカが居るんです。賢いんですよ。人間の言葉が、えっらくわかるんです。アルバート博士が手話で教えるんですよ。エライでしょう。“背びれ”って言うと、こうやって背びれを見せるんです。“手”って言うと、手をあげるんです。あれはやっぱり手なんでしょうね。うまくいくと大喜びするんです。アルバートもアイザックも。こうやって手をたたいて。かわいいんですよ。
…悲しくなるんですよ。“右”“水”“かける”って言うと、こうやって右手で水をかけるんです。バシャ、バシャ、バシャって。とても仲がいいんですよ、アルバート博士とアイザック。もう、かっわいいんです。…ナンカ悲しいんですよ、ここが。
…
かっわいいんです、もうスゴク…悲しいんですよ、ナンダカ、もう。この辺が泣いちゃうんですよ。ナンダカ。…何でゾウが、あのデッカイ象が二本足で立たなきゃいけないんですかね。
ヒヨコをピンクに染めて、誰が喜ぶんでしょう。ねえ、マッタク。あれですよ、ホントに。
…
どうして…ネコが鉄棒するんでしょ。どうしてサルがイヤホンつけて湖に立ってるんですか。
何で冬にスイカがあるんでしょ。何で牛乳が三カ月も腐らないんでしょう。ブロイラーがああして餌を口に入れられるんでしょう。ねえ、どういうことなんでしょう。ナンダカもう、この辺が辛くて。えーと、もうナンダカ…わかんなぁい…!
そう、僕たちには何ひとつわかりはしない。そしてそのわからない円環は果てしなく続く。“私は…何故、冬にスイカがあるのか、何故ピンクのヒヨコがいるのかわからない。ナメクジがわからない。脳みそがわからない。未来がわからない。後退がわからない。進歩がわからない。イルカの言葉がわからない(豪徳寺)”。
軽妙で愉快な話題に揺られたままやすらっていた僕たちに突然あっさりと示される事実。あの幸福な時代から遥かに隔てられ、僕たちが立ち尽くす円環の地平。
バーレルセル・ムーミンの雨の下、ゆりあの葉は散り続ける。博士たちの呟きはついに区別もつかなくなった。すべてがわからない。僕たちの根底もせでに揺らぎ、第一歩も遠い昔に失った。どうしてこうなのか、何ひとつわからぬままに沈んでゆく。
ゆりあ わからない。わからない。
台風の夜がわからない。
風に吹かれるのが好きだったことがわからない。
わからない。
母さんがわからない。
母さんを見るのが好きだったことがわからない。
あの人がわからない。
わからない。
私を好きだったあの人が好きだったことがわからない。
私がどこに行くのかわからない。
私がどこにいるのか、いつからいるのかわからない。
わからない。わからない。わからない。
わかる。
わからない。わからない。
わかる。わかる。わかる。
木がある。
木の葉が散る。
私が死ぬ。
木の葉が散る。
木の葉が散る。
木の葉が散る。
木の葉が散る…
破局をむかえる。一人の例外もなく。ここに僕たちは十分に身をさらす必要がある。ここに身を沈めきらなければ、そこに通低の道は見出せぬに違いないはずだから。僕たちには何が必要なのか。
舞台は転調する。
ゆりあ先生をとりかこむ四人の学生たち。
学生(豪徳寺) 先生!私たちは何故地球から落っこちないんですか?
ゆりあ それは、あなたがここにいたいからです。
学生(豪徳寺) それじゃあ答えになってません。
学生(狛 江) ああ、先生わかんないんだあ。
ゆりあ そうなんです。私はあなたたちより疑問がいっぱいあるんです。だから先生なんです。
…
学生(祖師谷) ゆりあ先生。何故、場というのは引力の媒介を必要とするのでしょう
か?
ゆりあ …わかりません。私がわかっているのは、ベールマンが最後の一葉を描いたことと、そしてジョアンナがそれを見て元気になったということです。その嵐の晩、ベールマンに、ジョアンナに、何が起こったのかは美しい謎のままです。それは、太陽と惑星が何故引き合うのか、何故引力があるのかという大きな謎と同等の重みを持って、私たちの前にあるのです。引力は愛です。
学生(四 人) えー
ここには「青い鳥」の大切なモチーフが息づいている。何故、僕たちは地球から落ちないのか、その物理的理由によって、僕たちが消しこまれぬように、何故落ちないのか、という問いと同時に、この地球から落ちはしない僕たちは何かを感じとろうとする。
学生(狛 江) じゃあ、人間は何と引き合って人間になったというんですか?
ゆりあ あらゆる星の、月の、地球の引力にひかれることによって。そして空気、海の水、木の枝でさえずる鳥、夕焼け、あらゆるものにひかれてです。
今でも、その時と同じように、私たちはひかれ続けているのです。
学生(下北沢) だとしたらスゴイけど、私たちにはそんなこと、実感できません。
ゆりあ 確かに実感するのは難しいことです。たとえば今、私たちの周りにテレビの映像がいくつも送られているとします。サバンナを歩いているキリンや、地底湖に咲いているクレソンの花や、下町の和菓子職人の手さばきとか…でも、受信装置がなければ私たちには見えないのです。
学生(狛 江) 引力を感じる受信装置を持つってことですか?
ゆりあ ほんとうは、私たち自身が受信装置そのものなのかもしれません。
あなたが森を散歩した時には、あなたの体の細胞のひとつひとつは森の大気、木々と引き合っているのです。解け合っていくのです。
そして明日の朝、あなたが暖かいお茶を飲む時、その森のすべてのモミの木が暖まるのです。そう実感している物理学者がいます。
ブライアン・スウィム博士です。私にはまるで、初めて会った懐かしい友達のように思えました。彼は言っています。そうやって、森もあなたも新しくなっているのだと。
学生(豪徳寺) 森から何が伝わってくるのか、周りのいろんなものが何を語りかけてくるのか、どうやったらかんじられるのでしょう。
ゆりあ “本当のこと”に耳を傾けることです。長い時間をかけて。何年か先に、いつかきっとあなたたちが博士と呼ばれる日が来るでしょうね。
ここに僕たちは懐かしい時間を経験する。この学生たちは、あの博士たちの若き日の姿であった。これは彼女たち自身の問いへの彼女たち自身の回答である。この言葉は分析できない。あるいは、これはある平凡な道行きかもしれない。あらためて、注目するほどのものはそこに見受けられないと判断する人もいるだろう。そればかりではない。“引力は愛です”と言った時に、どのように笑われるかを身をもって知っているのは彼女たちに違いない。その言葉が冷たく拒否されないのなら、どうして芝居を続けよう。例えば、この一言、たった一言を口にすることがどれほど困難か。けれども、これは「青い鳥」の五人が、まさしく自分たちの足取りで、時間をかけて、耳を傾けた“本当のこと”であるに違いない。
僕は“生活の懐かしさ”といった。“初めて会った懐かしい友達”という不思議な言葉、そして本当の言葉にならって言い換えるならば、“今、この瞬間の生活の懐かしさ”といいたい。この懐かしさは、僕たちを過去に閉じ込めるものではない。今日という日々を生き抜く支えになってくれる。“今、この瞬間の生活の懐かしさ”をもって、彼女たちは人間を、日々を、お互いを、彼女たちを取り囲む世界を抱きとめる。
いつでもどこでも健やかに、自分を追い求めてゆく「青い鳥」。そして彼女たちが彼女たちであることを妨げようとするこの世にあって、彼女たちでしかいられない「青い鳥」は、自分たちの生きる場を作り続けていくほかはない。停滞することも許されない。自分たちの問いを執拗に問い続ける人々がここにもいる。