斎藤義重-現代を擔う人-Ⅱ-
浦安に斎藤義重さんをたづねることになつた。
斎藤義重の繪も経歴もぼくはよく知らない。
知らないのにたづねることになつたのは、昨年の毎日新聞の第四回国際展でK氏賞になつた「鬼」をみて、前々からぼんやりと名だけはきいてゐたこの作家が、ちよつと、たゞものでないと思つたのと、年末の朝日新聞主催の「今日の新人57年展」で新人賞を小野忠弘と一緒に受賞した、そのときの「作品」がきはだつてゐたからである。
「鬼」にしても「作品」にしても、その非具象繪画には、なにか實體みたいなものがある。それが何であるか明確にはいへなかつたのだが、まず第一に、繪具がしっかりついてゐてはがれないやうなのだ‥‥ナドといつたからといつて笑つてはいけない。具象、非具象をとはず、繪具がパラパラにはがれ、繪がこはれさうな、あぶない気をおこさせる仕事が多いのだ。繪はやはり實質的にものとして存在してゐなければいけない。たとへば、陶磁器が手に待つただけでこはれさうなのは困るやうに、また、彫刻は、誰かもいつたやうに、山の頂上から落しても一ケ所もくだけぬやうでなければ、困るのだ。
そんな堅固なものゝ背後に、作者の精神が抽出され、存在してゐる‥‥少くとも、そんな可能性をぼくは感じたのである。
いまの非具象繒画の多くに對するぼくの疑問―といふより、不滿の一つは―作者が自分自身の身體の動きをそのまゝ画面にぶつけ、自分の存在をそこに示さうとしてゐることなのだ。
心理的な内部的な衝撃にせよ、外部からうけた衝撃にせよ、そこから生ずる身體の動きを、うけとめるといふ手だてをふまずに表出してしまふために、作者が作中人物になつてしまつてゐるのだ。もつといへば、作者が自分の存在を自分で證明し、安心しょうとする、材料として画面をつかふ、その態度に、甘えを感じて仕方がいのである。生命力の動きと画面との摩擦によつて火花をちらさうとするにしても、自分の存在を、なぜ、ものほしげに、自分でたしかめようなどとするのか? 自分の限定しえぬもの、證明しえぬもの―むしろ、逆に、自分を限定し、證明してくるもの―に自分の存在をまかすことができないものだらうか?
こゝで、ぼくはクリスト教の神などを考へてゐるのではない。(日本にはヨーロッパのバックボーンたる神はない、などといふナゲキを何度きかされたことか? だが、ナゲいたつてはじまりはしない。それに、クリスト教の紳だつて自然發生したものではない。それを、日本には神はないなどとナゲくのは、据膳を食はうといふ根性とかはりがないのである。)
非具象藝術は、いはゞ、一人稱藝術なのである。「深層知覚の流動的微細構造」にかゝはる一人稱藝術の場合、作者として作中人物とは不可分の関係にあるのだが、しかし、作品が作品として成立するためには、どこかで、作者と作中人物とはへソの緒が切れてゐなければなるまい。それが、作家のエネルギーといふものだらうし、自分の存在を自分で證明しようなどとはしない男なのだとぼくは思ふのだが‥‥
エネルギーが作品の中に完結したとき、はじめて、作者の精神は画面からふつきれ、抽象され、次元のちがふところに存在しうるのではないだらうか? さうでなければ、作者は作品から獨立しない、あるひは、作品は作者から獨立しえない。作者が作中人物に見えてきてしまふ。
斎藤義重の作品を見たとき、ぼくが感じたのは、作品から、いや、作中人物からふつきられた作者の精神みたいなものであつた。
「鬼」について、作者はかういつてゐる、―〈 題名の「鬼」ということは、この繪のテーマではなく、むしろモチーフであります。それはこの繪の出来上る原因となつていますが、その結果については豫測していません。
まず順序として最初に「鬼」があつて、そこから形と色がうまれ、方向が作り出されます。―それから鬼は煮つめられ、乾燥され、悪魔祓いをして抜殻になつた骸がならべられ、そして下部の方は裏返しにしておきました。だから、鬼はもういないかもしれません。―というようなことになります。ごく簡単に作者自身が説明すれば。
鬼という意味は、「鬼と遊ぶ」という想念なので、この繪の根底に動機としてそれはありますが、私は自分の想念をもう一度遠くつき離して眺めますので、くり返していえば、そういう意味のテーマを表現する意図はなく、必要なことは、フォルムを客體化してその中に、もう一つの言葉をうみたいと思つています。〉 (美術手帖一九五七・七)
繪ときにはならない画家の文章だが、かなり多くのことを語つてゐるやうだ。
ところで、斎藤義重はこゝ数年作品が非常に少いので、ぼくは「鬼」以前のものをほとんど知らなかつた。それに會つたのは一度だけ、それも、「今日の新人」の授賞式のとき、ちよつとアイサツをかはしたにすぎない。「美術文化」の中での理論家だつたといふうはさくらゐはきいてゐたが、授賞式でははしの方にぼそつと(といふ感じで)すわり、あまり口をきかない。短躯でしぶごのみらしい。「作品」のもつてゐる力強さは外には見せない静かな人だといふ印象をうけた。
その程度しか知らないぼくに、斎藤さんと會つて、なにか書けといふ註文。「一度ゆつくりお目にかかつてお話したい」と挨拶した言葉を實現するのにいゝチャンスだ。
もう一つ、ぼくに行く気にさせたのは、浦安といふ場所なのである。實ははじめ「ウラヤス」ときいたとき、どういふ字をかくのか、どこにあるのか知らなかつた。千葉縣で、電車やバスで行くと大變にメンドウなところだけれど、自動車だと一時間餘り、行徳の近くで、おもしろい土地ださうだ、といはれ、やつと思ひ出した。思ひ出したといふのは…浦安も行徳も行つたことはないが、むかし、里見八大傳を讀んだとき、奇妙に名の記憶にとゞまつたところである。たぶん、その音からであらう。里見八犬傳の世界なら、それだけでも行きがひがあるといふものだ。
浦安に数年とぢこもつてゐる、といへば、多少へンクツなところがあらうし、…と思つたトタンに、馬琴のへンクツを思ひ出したのはまだいゝ。「鬼の画面と、たとへぼ、イヌヅカシノ、イヌガヒゲンパチの何とか閣上のたゝかひのニシキ繪とが、ぼくの頭の中で變にダブッた。(いかに、ぼくの繪を見る力のたよりないことよ。)
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さて、寫眞の大辻さん、編輯部のYさんと澁谷のコーヒー店でおちあひ、いよいよ出發…大辻さんの車を見ておどろいた。古代ものである。あとできくと、サンビーム・タルポ三八年型といふのださうで、この程度になると、競馬馬や猟犬のやうに血統書みたいなものがついてまはり、どういふ径路で、誰がいつ誰からいくらで買つた、ナドといふことが、愛好家仲間には知れわたつてゐるのださうだ。
クラシックといふはおろか、自動車の發明される以前の自動車といつたら、もつとも印象が正確につたへられるかもしれない。紀元前みたいな型はなかなかよろしい。塗料がだいぶはげ落ちてゐるし、ドアがうまくあかない。中の枠は木製である。動くとこれがギシギシなる。といふと、ボロ車みたいだが、どうして乗りどこちは、キャデラックよりもいゝくらゐである。この事で八犬傳の世界にのりこみ、妙チキリンな画家をたづねる、まことにオソではないか。
運轉は免許をとつてから一年餘りといふ大辻さん、それに、この人は斎藤さんが浦安に住みつくまへ数年間、同じカマのメシをくつた仲だといふ。
さて、道中なんのお話もなく-と本来ならばいくところだが、この道中を少々書いておかないと浦安といふところが分りにくい。浦安が分りにくいと、そこに住んで、その場の生活に多くの影響をうけてゐる斎藤義重が分りにくゝなる。
銀座から築地、勝鬨をわたつて深川をすぎ、しばらく行くと工場地帯に入る。道がポカッと廣くなる。燒ビルがあつた。いつ燒けたのか知
らない。が、まるで、戦災で燒けて、まだそのまゝになつてゐるかんじ。ロをあけた暗い窓の外に色とりどりのほしいものがかけてある。開拓地のやうに、…といふより、目下開拓中のまゝ時間がとまつて、開店休業のやうだ。
もつとも、この程度のことは驚かない。戦後間もなくから、つい半年前までの、およそ十年間、ぼくは芝浦の埋立て地の、殺風景な、いまにもこはれさうな陋屋に住みついてゐたのだから。工場があり、屠殺場があり、掘割にそつて寒々と倉庫がならぴ、パカげてひろいコンクリートの道の、その間にバラック建てに毛のはえたやうな住居が點々と存在し、人間のいとなみがある-そんな、妙にしらじらとして廣い、といふより、空白感をもよほさせるところだつた。東京のおもて側のスピードに、人間のいとなみがおひつかず、投げてしまつたやうなところである。
そんな工場地帯を車で數十分、浦安橋を渡ると、がらりと様子がかはる。
橋の右手は、すぐもう東京灣。ビョウビョウとひろがる海である。東京灣がビョウビョウもないもんだ、などとまぜつかへしてはいけない。冬の晴れた日にかすんでゐたためか、水平線までは見通せないのだ。
この水の廣さのためか、それとも、數十分の工場の時間の停止に隔絶されたためか、東京の日々の生活のスピードが失はれる。スピードの記憶さへ失はれるかのやうだ。
浦安橋を渡つたところで、ヤケにだゝつぴろい道がまつすぐのびてゐる。どこまでつゞくのか分らぬくらゐ長さうだ。それに、こゝまでは、大辻さんのもつてゐる東京の地圖で分るが、これから先は皆目見當がつかぬ。里見八犬傳で読んだだけの未知のくにである。
橋のたもとの交番で、念のために斎藤さんの住所をたづねたが、まるで分らない。診療所のとなりだときいてゐたが、巡査のいふには、浦安に診療所なんてしやれたものはないといふ話。そんなバカげたことがあるものか、たしかに、さうきいてきたのだが、ノレンに腕おし。(あとで、斎藤さんにきいたら、浦安に交番はそこだけしかないのださうだ。よそ者がはいらないので、ほとんど完全に自治が守られてゐる。さういへば、これから先、人家の密集してゐるところには、夜間道路禁煙といふ立札があつた。)
仕方がない、この道をまつすぐ行つてみようといふことになつたが、これがまたすごい道になる。
その道がいきなり、ドカンとぶつかつた、といふ気がしたのがT字路で、あたりの店でどうきいたところで道が分らぬ。複雑怪奇である。
斎藤さんに電話して、少し行つたところにある小學校の門前で待ちあはせることになる。
小學校の建物の古さにもおどろいた。これも紀元前の古代ものだ。むかし、ぼくの通つた小學校は當時東京で七番目に古いといはれた木造二階建だつたが、それがさらに三〇年をへれば、かくなつたかと思はれた。この建物をとりまくあたりの空気は、外の空気とは隔絶された、それ自體の異様なフンイキをただよはせ、外の空気の侵入を頑強に拒絶し、まじりあはないのかもしれない。外界の空気にあたつたら、この木造はポコボコとはげおち、くづれてしまふかもしれない‥‥
こんな校舎を見ると、文化にとりのこされた云々といふ歎息じみた聲をときをりきくが、ぼくは、かならずしもさうは思はぬ。文化といふものほ、そんな簡単なものではあるまい。進歩か? 進歩などといふお題目はもうたくさんだ。この建物は、人間のいとなみの中で、毅然としてたつてゐるではないか…それに、明治時代の手まはしオルゴールか、オルガンか、それとも朝顔がたのラッパのついた蓄音機の音がきこえさうだ…と、ぼくは多少センティメンタルになつた。いまではもうなくなつた、かういふものがぼくの心をひく。つい、中に入つてみたくなつたが、その暇はなかつた。
斎藤さんが、小がらで、柔和な顔で、うしろに立つてゐた。
これから先は、よそ者には分らぬといふわけでむかへにきてくれたのだが、同乗して、その道を折れると、道はゞが急にせまくなる。斎藤さんのいふまゝに、車のやつと通れる道を右に左に、車はかたつむりのやうにのろのろと歩く。小さな掘割がたくせんあつ
て、どこも小舟がぎつしりつまつてゐる。ぎしぎしいふやうな旺盛な活気がある。貝をとるべカ舟といふのださうで、貝をとる道具についた長い太い棒が林立してゐる。「プレダの開城」の右手の槍の林立を思ひおこしてもらへばいゝ。掘割にかゝつた橋は、道と思ひ切つた落差がある。道はキラキラ輝いてゐる。貝殻を捨てるためだといふ。浮世絵のきらら刷り。
密集した家々は軒の低い、草ぶきで、海風に色さびて、いかにも漁師まちの風情。他の文明をうけいれず、江戸時代からそのまゝつづいてゐるのかもしれない。東京と隣りあはせなのに、妙に隔絶したフンイキである。北斎のかいた屈曲した道、廣重のかいた暗いやうな明るいやうな家々、八犬傳の迷路である。そのかはり、空はヤクにひろい。
一時間半あまり車にのつてきて、いまゝで通つてきたところ、ぽくが何となく知つてゐたところとは、まつたく別の土地へ入つてしまつた。どうちがふのか、うまくいへさうもないが、たとへば、道と家々と掘割とがちやんと結合して存在してゐるのだ。東京でのぼくの日々の生活といへば、美術館や画廊や、その他行きつけの場所と、ぼくの家のまはり、といふより、ぼくの仕事部屋とが直接結びついてゐて、途中の道はないも同様なのだ。途中の道は假空のものであり、いはゞ、妙な時間におきかへられて、道といふ實體がないのである。
車はいきなり、よどんだ掘割につゝこんだ。と、思つたのは、とまつたのである。
妙な家の前である。小さなキザハシがついてゐて、ヤシロとも寺ともつかぬ。
「日蓮宗の祈祷所ですよ。」 と斎藤さん。
イヌヤマドウセツが火トンの術をもちひるにはカツコウなところだ。
子供が集つてきて、ものめづらしげに車をとりまく。別に自動車がめづらしいわけではあるまい。古代ものゝ車にのつて、變なヨソ者がきたといふので、なかば、好奇心、なかば、ためらひをもつて集つてきたらしい。八犬傳からぬけ出たやうな老爺や老婆は遠くから、こちらをジロジロ見てゐる。
車をおりて、妙なニオイに気がついた。まるで、カツオのしはからを口一杯ほゝばつたやうな、ヤケに肉感的な、歯ぐきがすつぱく痛くなるやうなかんじだ。日々の生活の記憶がどこかへいつてしまつた。
この祈祷所の裏が診療所であつた。そして、その診療所の裏が斎藤さんの家であつた。
(以下続く)