もし汝ら翻りて幼児の如くならずば
宇佐見英治は「天人」に、こう述べている。
人間の中には流嫡の天人のような人がまぎれこんでいることがある。たとえば、モーツァルトのように、宮澤賢治のように、また、先ごろ亡くなった辻一のように、どこからか地上にまぎれこみ、冗談を言ったり、蔑まれたり、苦しんだりしながら、あらぬところに立ち去った人たちがいる。
私にとって、画家・難波田史男は、もっとも愛する「天人」の一人である。彼の絵は、詩魂が溢れている。切なささえ感じるその優しみと感性の鋭さ。ほとばしる線のリズム。体に染みとおる色のハーモニー。時折、躍動するユーモア…。「純粋」とは難波田史男の化身である。
例えば、偽善と偽悪はもつれあう。懐疑は卑屈と結び、卑小な自己をもてあまし、尊大な構えをニヒルな衣に包む。小心翼々とした心は厚顔のもとにおさまりかえる。そのような現代。伝達不可能性を口にすれば、失笑を買いかねない。詩人は、難波田史男は舞い下りた。そうした時代に。眼前に起きる様々な事象をやりすごす器用さはなく、最も傷つき易い心で、最も誠実にすべてを受けとめた。残酷なほどに美しい魂は、その傷つき易さを保ちつつ、生き抜いた。彼の心は、ついに横を向くことを知らなかった。あくまでも正面から語り、また受け止める。すべてのものを。
例えば、心理を読もうとする者が、その移ろいやすさを知った時、うつむき、あるいは背を向けるものとなる。しかし、裏切られたくない、裏切られまいと臆する心が裏切りを呼ぶのだ。果たしてそれは詭弁か、愚者の戯れ言と笑われるだろうか。難波田史男は信じる。この不信の時代に全身で向かいつつ、何の構えもなく信じる。そして、裏切られたのなら怒る…。何のためらいもなく。
『美とは心の素直さです。美とは、心の清潔さです。モザイク式、新聞の政治欄、三面記事の他人のドラマチィックな演義らに、おどろき、あわてて、声を上げる清潔さです。…。』
鮮やかにみずからを開いてみせる姿に、我々は失笑をもってこたえるか、不器用にでも信じてみようとするか。不信の時代の状況を枚挙するのをこととするか、今一度、幼児の素直さから事をはじめてみるか。
幼児の如き素直さ…難波田史男はしたり顔の盲点を開く。
感じ易い魂の不幸をうたうロマンティシズムは、当人の知らぬ間に、根源的な自由まで圧する時代に対し、逃げ道を示している。愛の不毛とは、断絶とは何か。人は、永遠のマイナスに耐えうるほど強くない。思考はついに思考を救えない、とは誰の言葉であったろう。
確かに、最も大切な言葉の数々が擦り切れている。何かの抜け殻に失望した者が、現実の醜さを見つめつつ、醜いことこそ現実だとすることさえある。
難波田史男は、その作品によって、擦り切れた何か、地に落ちた大切なものを、もう一度取り返そうとしている。
『…人間は、いっさいのものから、わかれて死んで行かなければならない。すると、もう一度、生きてみたい。もう一度、空を見たい。もう一度、友と語りたい。日常的なささいな事柄が胸にくる。その意味において画家は孤独だ。…』
難波田史男は幼児の如き純粋さを持って、昏迷を極める現代に、静かに、生命をほとばしらせながら生きた。
宇佐見英治はこう続けている。
…もし天人が地を離れて点に帰ったとするなら、彼らはもうあの青い空にもいないのだろうか。我々の感知することのできないところへ行ってしまったのだろうか。それともこんなに空が青く晴れわたった日には、空の青みにあらわれて、いまも眼に見えるどこかにいるのだろうか…。