フェルメール「ターバンの少女」
美の美
比類ない完成度
フェルメールは危険な画家だ、あまりに完結された完璧(かんぺき)性の中に自足していて……以前ぼくはそんな風に書いたことがある。いまでも、そんな気持ちに変わりはない。この画家のすべての絵がそうだとはいわぬが、極めてすぐれた作品の色彩には、見るものをまるごと吸いこむような力がある。透明な、美しい色に、見るものは、ある戦慄(せんりつ)的なおそろしさを覚えつつ、呪縛(じゆばく)にかかったかのように、身動きできなくなることがある。
この作品もその一つだ。
少女がなかばうしろをむいた、そのまなざしに、すべての動きが集中される。まなざしの方向に画家がいるにちがいないし、見られるともなく見られている画家は、じっと息をころして、かくれている。ちょっとでも動いて姿をあらわしたら、あたりの空気がみだされ、よごされるかのように。
これだけのことなら、何ということもない。日常的な少女の動作とそれをとりまくものとのある瞬間だが、作品になった以上、もうそこには、日常の時間はない。日常の時間、外界の出来事は、すべて、この一人の少女の心からも、外姿からも、切り離され、いつの間にか、ひそかに、永遠の時間があたりをとりかこんでしまっている。
あるいは、少女の動き、まなざし、そのふん囲気などと普通呼ばれている名称が、すべて剥奪(はくだつ)され て、まだ名を得ていない別の空間が―あるいは、存在以前の存在が画面の奥からしみ出てくる。
日常の現実とのどんな対応をも拒否している、この空間を、画面の背後に存在する、もう一つの空間と呼んでいいのかもしれないのだが……。
この別の空間が、ある瞬間、見るものの奥底にひそむものを揺り動かす、といえば、すぐれた作品はすべて、そうした性格をもっていて、不気味なものではあるが……
この絵にかかれているものの、どこかほんの一部分をちょっと変えさえすれば、現実との通路が身いだせるかもしれぬ、というような、奇妙な錯覚を覚えることがある。むろん、そんなことのできるわけはない。あまりに個々のものが緊密に結びついていて、どうにもなすすべがないのはわかり切ったことな
のだ。
危険なのはその完結だ……ぼくを引きつける、この美しい絵にぼくは絶えず、そういいながら、遠ざかる努力をしなければならなくなる。
(美術評論家)