現代日本の作家 田淵安一
美術手帖
ヨーロッパの唯一神論に対応する、東洋人画家のひとつの態度
田淵安一が十年ぶりに日本に帰り、個展をひらいた――日本に帰ったといっても、またすぐフランスに帰るのだが――ということはそれ自体別にどうということではないのだろうが、ぼくとしては、田淵をふくめて、日本の美術界の成長(もし成長と呼べるものがあるとすれば)を感じる。というとはなはだ、トッピのようだが・・・・・・ゆっくり聞いていただきたい。
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今年の夏、パリに三週間ほど滞在中、田淵をはじめ、今井俊満、堂本尚郎、前田常作などの若い画家たちに連日のように会ったのだが(菅井汲とはかけちがって会う機会がなかったのが残念)、この人たちがパリの画壇の中で、新進として認められるだけの仕事をしていること、制作態度に、あるメドを持ち、それが一種の自信となって作品に生気を生んでいることに、ナルホドと思いあたることがあったのである。
この人たちは、いったん、日本とは絶縁状態になり、何年かのあいだ、一般にはどこへ行ったのか、どんな仕事をしているのか――うわさぐらいには聞いていても、実際にはほどんど分らなかった、そうした孤独の中で仕事をしつづけていて、今日にいたった。もう一度あらためて日本と結びついてきた、という印象が強いのである。これはなかなか意義深いことであろう。
作家の側からすれば――たとえば、田淵の場合は、ヨーロッパの合理精神(合理主義ではない)を肌あいにまで感じるようになったのちに、あるいは、なったからこそ、日本というものを、その伝統も文化も、そして貧しさをも、自分のものとしてあらためて痛感し、バクゼンとであるにせよ、日本で作品を発表したい気持になってきた、ということであろう。日本の画壇からすれば、そうした田淵を進んでうけいれようとする気になってきたということである。これが戦前であったら、いやほんの数年前であってさえ、こうはいかなかっただろうとぼくは思うのである。
田淵がひとりでヨーロッパにとびこんでいった十年前、日本の美術はほとんど知られていなかった。いまでも、ほんのカケラぐらいが知られているにすぎないことを思えば、そういってよかろう。孤独にたえて、独力で道を切り開かねばならなかった。が、しかし実は、それが独力ではなかった、ということだったのである。田淵がときに汎神論のことを口にするのも、そんな意識からであろう。日本の画壇の側からすれば、そうした田淵の努力を、孤独のままにほっておいたのではならぬ、という心がまえみたいなものができてきたと思うのである。
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田淵とフランスでどんな話をしたか、その内容はほとんどおぼえていない。 が、印象だけは、はっきり残っている。ひかえ目な中に、明瞭な考えを述べていたし、おだやかなだけに、それだけしっかり立っている、という印象である。
サン・ジェルマン・アン・レイの古代美術館で、ゴロアの小さな装飾品や器具を見ながら、呪術や呪物について話したり、シャルトルをたずねて、村の小さなレストランで食事をしながら、ここらあたりの住人の生活について聞いたり、サン・ジェルマン・デ・プレのカフェで若い作家たち数人と談笑し、ノミの市へ行って、ふと見つけたオリーヴ油の壺を買ったり、あるいは、家に招かれて、夜の二時、三時まで話しこんでは、明け方、パリのホテルまで十数マイルを送ってくれる・・・・・・と思い出すままに挙げるときりがないくらい会っていたのだが、話した内容はほとんど忘れてしまった。
が、小さな、いまではほんの片すみにしまいこまれてしまいそうな、人間の痕跡に、心をとめ、それをじっと見つめ、いつくしんで自分の養分とし、それをよりどころとさえしていることは、おのずと分るだろう。家庭を大切にし、いつくしんでいるのも、そうした性格と経歴からすれば、当然かもしれない。フランスでの、決して容易でないエトランジェの生活の中での、よりどころであろう。田淵の作品が小さな世界を守ることによって成立しているのも、そのためであろう。
小さな世界、という言葉は誤解を招くかもしれぬが、決して、「自己の小さな穴」にとじこもるということではない。自己の小さな穴から出たら、世界のどんな小さなものにも、そのままで、世界全体をモディファイするような大きな意義のあることが理解できるようになった、ということである。
誰かもいったように、それを「生々流転」の意識といってもよかろう。が、この言葉はひょっとすると、傍観者流のにおいがする。
自分から進んで流謫に身をおいたにせよ、あるいは、投げ出されたにせよ、おかれた状況を自分で解決すべき課題に転化したときに、はじめて、芸術家としての仕事がはじまる。
田淵の場合は、それが、存在感をたしかめようとする方向とは逆の方向においているといえるかもしれない。存在感をたしかめようとしたはてに、ある空しさを感じてしまったものが、演戯という、いわば自己の不在証明を行なうことによって、自己を存在させようとするかのようである。つまり、一種の逆手なのである。
自分の仕事が、あるいは、行為が、すべて自分の不在証明になるというような、そんなつみ重なりの中に、その一つ一つの事物そのもののうちに、自己が存在するかもしれない。ともかくも、自己は、そのままで存在しているというようなものではない。客観的に、あるいは傍観者流に、他者をながめているだけでは、到底自己は存在しない。少なくとも、何ものかを存在させようとし、それを他者として積極的に存在させたとき、その他者の存在のうちに、自己は存在しうるかもしれぬ可能性にすぎない。あるいは、そうした行為そのもののうちに存在しうるかもしれぬ可能性にすぎない。
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今度の個展(於東京・銀座東京画廊十月十四日―二十五日)の作品は、カンヴァスにファンデーションをせず、直接に描いたというのも、そんな意識と無縁ではあるまい。「即興」ということの持っているはずの振幅に、ある種の信頼をおいているのである。「即興」といって誤解を招くとすれば、「発想から表現まで、途中の操作なしに」まっすぐもってゆこうとする意志といってもいい。
田淵がカリグラフィではなく、サインの定着を求める、ということも、そうしたことと関係があるかもしれない。さまざまな事象から、共通の法則を意識的に抽象するのでなく、それこそ、生々流転する一回限りの事物のすがたと、潜在意識とのめぐり合いみたいなもののうちに、次第にサインが生み出されてくるのだろう。逆にいえば、意志がうちかつべき物質をそこに求めているといってもいいくらいのものである。
田淵の近作に、狩野派の波や、あるいは、宗達の「風神雷神」の雲を連想する、といった人がある。ある程度、それはあたっているとぼくは思う。 田淵がどの程度、日本画や東洋画のことを意識しているかは知らぬが、少なくとも、無意識にもせよ、どこかにそれがあらわれているにちがいない。
風神雷神の雲は、自発的、衝動的な、いわば、恣意から生ずるかのような人間の動きが、金属的な紙の抵抗にあって、わずかに残る、ある必然的なもの――そのつみ重なりによって、次第に明確な様相をとってきたものだと思うのだが、そうとすれば、どこかで田淵の作品から連想されても不自然ではない。
が、田淵がもし日本画や東洋画のことを考えているとすれば、それは、様式化される以前の問題、発生した当時の新鮮さを、あらためて回復しようとしているのだろう。東洋画の空間は、いまでは様式として完成し、うちかちがたい完璧さをもっているが、それを固定化から救おうとするとすれば、なかなか重大なことだ。それは、たぶん、非具象絵画を固定化から救う努力と相通じることかもしれない・・・・・・むろん、それは結果においてであって、いま、田淵がそれほど大上段にかまえているわけではあるまい。が、ひょっとすると、田淵の考えている、はなはだ小さな事物から、そんなことになる可能性があるかもしれないのである。
合理主義からぬけ出そうとすること、いいかえれば、ルネサンス以後近世ヨーロッパの合理主義では蔽いきれなくなった事物が現在ではあらわれていること――それを非合理といってもいいし、不条理といってもいいだろうが――それを明確に認め、それならそれで、そうした事物に積極的にはたらきかけ、そこに一つのシステムを樹立しようとする態度――合理精神とはそういう態度をいうのであろう。いまさら、合理主義で割りきれなくなった事物を、なお合理主義でおさえつけ、その枠の中にはめこもうとするのは、決して合理的な態度ではない。
田淵の作品に、あるいは、その態度に何となく汎神論的なにおいがあるといったら、いいがかりみたいにきこえるかもしれぬが、決していいがかりをつけているわけではない――それも、十九世紀の合理主義をのりこえるための一つの態度であろう。あるいは、だいぶ大げさにいえば、ヨーロッパの唯一神論から生じた合理精神に対する、東洋人としての、一つの態度かもしれないのである。
(美術評論家)
田淵安一略歴 一九二一年福岡県に生まる 一九四九年東京大学美術史学科卒一九四七一五〇年新制作展に出品、四九年に岡田賞受賞 一九五一年渡仏、以来パリ在住 一九五三 五六年レアリテ・ヌーベルに出品 一九五五年カーネギー国際展、リジェカ美術館のサロン・55>、アントワープ実験美術展に出品. 一九五五一―六一年サロン・ド・メェに招待出品 一九五六年ファーズ運動に参加 一九五八年東京国立近代美術館の<抽象絵画の展開> 出品 一九五九年イタリアのプレミオリソーネ展出品、リソーネ美術館賞受賞 一九六〇年ストックホルム国立美術館の抽象風景>、チューリッヒ、クンストハウス美術館のサロン・ド・メェ選抜展に出品 一九六一年十年ぶりに帰国、銀座、東京画廊にて個展