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18世紀イギリス美術

世界美術体系 第20巻

18世紀イギリス美術

 18世紀の擬古典主義はロンドンを中心とする社交界と結びつき、また、後進性という意識は当然その目標として、その頂点を首都に集中する。画家はほとんどみなロンドンに集った。ヴァン・ダイクの追随者でクロムウェル時代に活躍したクーバー(Samuel Cooper、1609〜72)、そのライヴァルのヘイルズ(John Hales あるいは Hayls、?〜1679)、イギリスのヴァン・ダイクと称されたドブソン(William Dobson,、1611〜46)、さらに、リーリ (Peter Lely,、1618〜80)、ネラー(Gotfrey Kneller,、1646〜1723)などをへて、この系統から、レノルズ(Joshua Reynolds,、1723〜92)以下のアカデミズムが生じ、南欧ことにイタリアにあこがれ、「壮重体」の歴史画や肖像画が流行することになる。
 が、その前にホガース(William Hogarth、1697〜1764)を挙げねばなるまい。
 アカデミックな肖像画が上流社交界と結びついたとすれば、逆に、庶民的なアングロ・サクソンの血統を代表するものはホガースであろう。イギリス人らしい絵をかいた最初の画家だが、当時の主流からみれば特異な存在で、ひじょうに俗世的な力強さで諷刺画をかいている。このばあい、俗世的な力とは、事物を神にあずけず、あくまでも人間に属する問題として、じぶんで解決しようとする態度である。デモクラティックな自由な精神が、庶民への愛情と結びつき、痛烈な諷刺を倫理観とユーモアとがたがいに強く支えあう。
 「ある娼婦の生涯」六場を1731年頃描いて以来、多くの「物語絵」をつくり、大きな成功をおさめた。1735年以後「ある蕩児の生涯」その他がつくられ、45年には「当世結婚ばなし」が描かれている。こうした作品のうちには、バラッド・オペラにされたものもあり、また彼自身、これを銅版画にして、民衆に絵をしたしませることにもなった。版画ならば容易に手に入りやすい、という外的条件もあり、同時に、この時代に、ダニエル・ディフォー、ジョナサン・スウィフト、ヘンリフィルディング、さらにジョセフ・アディソン、リチャード・スティールなどによる散文芸術とジャーナリズムの発達という時代風潮に不可分に結びつくものだろう。また、彼自身の性格が、当時イギリスの対外政策の成功とともにようやく勢力をもちはじめた富裕階級や、それに結びついた貴族階級の醜悪をえぐり出すと同時に、当時の貴顕から無視されていた庶民に惻々たる愛情を示したからである。
 肖像画をかかなかったわけではないが、彼は依頼された貴顕の肖像画をかき上げたのち、それがあまりに性格の実体に迫っていたために、依頼主を怒らせ、支払いを断られたことが何度もあったといわれる。依頼主の虚栄心や感傷をあやすことができなかったということになる。もっとも、家族集団の肖像などには、ちょっとした物語的要素をいれてみたりして、じぶんでたのしんでいるものもある。アカデミックな肖像画やそれに類した絵もあるが、これは彼の才能に反するものだ。
 また実際は、人気をえた諷刺画や物語絵よりも、「えび売りの娘」や「召使いたち」などの、当時としてはスケッチといえる、さりげない作品に、彼の愛情のきびしさがいっそう強くうかがえる。こうした作品は売るためのものでなかったから、よけいそうである。「えび売りの娘」は芸術と社会意識との問題を考えるばあいにも重要な問題を暗示しているし、手法の上では近代絵画を予想させるほどである。彼の他の作品には、いまからみると手法上かなり生硬なところがあるが、すくなくとも、この作品だけは不思議な天分と生命力とを感じさせる。
彼のユーモアや諷刺的な要素はローランドソン(Thomas Rowlandson、1756〜1827)その他の戯画やさまざまな諷刺画へと、かなり変形されながら、つながってゆく。なお、第一次大戦、第二次大戦の後に、人気を呼んだ 「乞食オペラ」(日本訳で「三文オペラ」)もこの時代につくられ、ホガースはそれを「物語絵」にしていることをつけ加えておこう。

 1768年ロイヤル・アカデミーが設立されたとき、設立委員のほとんど全部が一致してその会長に推したのはレノルズだった。その後二十数年間、彼は初代会長として画壇の最高権威となり、アカデミックなイギリス絵画の樹立者として、その影響は大きかった。ヴェニス派から豊かな色調や壮重華麗な雰囲気のある形態を学んだが、どちらかといえば、とりすました衒学的な技術家で、中枢的なエネルギーに欠けている。彼の描く肖像画では、男は全部英雄的な高貴さや哲学的な深みをもち、女はすべて心も姿も優雅になり、子供はみな純真無垢、天真爛慢にみえる。すくなくとも、描かれた肖像は現実のモデルよりも一見魅力的である。その辺もヴェニス派の影響であろう。また、当時の肖像主の一般的要求でもあった。それをじゅうぶん承知の上で、レノルズはそうしているのである。
 以後、この派はたえずヨーロッパ大陸の画壇に学んだが、ヨーロッパ全体の主流からみれば、付属的な一支流にすぎず、わずかな例外をのぞいては、ほとんどみるべきものがない。アンドレ・マルロウのいうように、この「イギリス派」は「絢爛たる華やかさがあるにもかかわらず、われわれの関心の対象にはならない」例外の方が、本格的なのだ。
 ところで、レノルズを頂点とするアカデミズムを打ち破った最初の画家はホガースだった、といえば、年代的には逆になっていささか奇妙にきこえるかもしれないが、しかし、ホガースはヴァン・ダイク以来レノルズに通じる傾向のあることを感じていたからこそ、この動向に否定的な態度をとったともいえるのである。
 レノルズと同時代で最大のライヴァルであったゲインズボロ(Thomas Gainsborough、1727〜88)は、レノルズとは逆に、さわやかな野花のような軽みがある。当時の多くの野心的な画家たちとちがって、彼は中年になるまでロンドンには出なかった。生れ故郷のサフォーク州で画家として生計が立てば、それでじゅうぶんだと思っていた。彼が肖像画家として、また風景画家としても名声を得て、社交界の寵児になったのは1760年にバースに移住してからである。当時のバースはロンドンの社交界の人々がみな行った流行の中心地だった。1770年にロンドンに出ると、たちまち、肖像画家としてレノルズとならび称されることになる。風景画家としても名声だけはえたが、その風景画の方はまったく売れなかった。が、売れぬ風景画の方を好んでかき、イギリス風景画の創始者としての意義の方がいっそう重要かもしれない。
 彼自身の言葉によれば「肖像画は金のため、風景画は好きなため」といい、社交界をはなれて孤独にひきこもる時間をつとめてとっておいた。また、肖像画の依頼に忙殺され、「肖像画にはうんざりした、ヴィオラ・ダ・ガンバをもって、どこか美しい村に行ってしまい、そこで風景画を描いて、静かに落ちついて余生を送りたい」ともにっている。伝記によると、彼はヴァイオリンの名手だったという。彼が当時流行のイタリア風から脱却して、国土的、国民的な感情をもって、自国の風景を描き、後世ウィルソン(Richard Wilson、1714〜82)とともに、風景画の樹立者と目されるようになったのも当然である。
 彼の肖像画にはヴァン・ダイクにもとづく流麗な作品もあるが、かなり多くの肖像画では人物と風景とをいっしょにかき、人物と風景とがとけこんだ田園生活の魅力を示している。それが、風景画そのものになると、多くは、空は曇り、情景は荒涼として、どこか北欧的な暗さと哀愁が感じられる。依頼された肖像画よりも、こうした風景画の方がはるかに筆にのびがある。孤独な情感や光と色の処理はカンスタブル (John Constable、1776〜1837)の先駆者といえるかもしれない。が、彼には生来の気品があり、素直に対象を見てたのしみ、また、それによって、他人をもたのしませる。どんな暗澹とした情景をかいても、そこには彼の心がとらえた軽みと新鮮さがある。カニンガムのいうとおり、「荒涼たる森の空地にも生きた住人がおり、林間と谷間には人の子らと娘らがいる」彼は人の声のとどかぬところ、人の姿の見えぬところにはけっして住まないのである。

 レノルズ、ゲインズボロ以後、イギリスはわずか半世紀の間に肖像画の黄金時代をつくりあげたといえる。増大する国の富と、宮廷や社交界の後援のもとに、画家たちは各国に旅行できたし、また、外国作家でロンドンに移住してきたものもすくなくない。歴史画家コップリ(John Singleton Copley、1737〜1815)や、同じく歴史画家でレノルズの後をついでロイヤル・アカデミー会長になったウェスト(Benjamin West,、1737〜1820)などはアメリカ人である。なお、ここでいっておけば、いわゆる歴史画は当時肖像画とならんで、あるいは、それにもましてもてはやされたが、いまからみれば、ここでとりあげるに足るものではない。
 こういう急激な多産性がどんなところから起ったのか、その因果関係を探ればきりがないし、社会学ないし社会考現学の対象かもしれないが、一つには、いままでイギリス人の中に長い間眠ったように隠されていた──あるいは、実用芸術や工芸の中に潜在していた──造型芸術への関心が急速に開花したといえようし、また、その開花のあらわれが啓蒙思想にのって、社交界にもてはやされて流行したともいえよう。画家としての社会的地位も確立された。レノルズはアカデミー会長になった翌年、ナイトに叙せられたが、それ以後、会長はかならずナイトに叙せられるしきたりになったのみならず、おもだった会員はナイトに叙せられている。
 が、この擬古典的な通俗さをもつ形式主義と、楽天的な進歩主義的合理主義と、啓蒙的明快さの時代に、都会的あるいは社交的な風潮と結びついた肖像画に対して、この頃から、イギリス独得の風景画が目だたぬところからすこしずつ生れてくるのだが、風景画に移る前に、もうすこし肖像画その他にふれておこう。
 肖像画家ロムニー(George Romney、1734〜1802)は徹底的にレノルズをきらい、終生アカデミーに出品せず、また、その会員にもならなかった。 若い頃にはレノルズのライヴァルとしてさわがれたこともあるが、(ゲインズボロが中年までロンドンに出なかったことは前に述べた。)のちには、当時の画家たちとほとんど交際しなくなり、孤独の状態で、繊細な感受性をもって肖像画をかいている。ととのって破綻のない作品が求められている時代に、彼は速い筆で、ときにはスケッチのようにかく。1782年頃エムマリヨン(のちのハミルトン夫人?1765〜1815)と知り、彼女をいろいろの姿でかいているが、彼のかくエムマは、甘美な官能の美しさをもちながら、プラトニックといいたいほどの純粋性さをもち、人間の悲しみと弱さとをひめているかのようだ。
 当時の風潮に反撥して社会から閉め出され、流謫の人たらざるをえなくなった芸術家はすくなくない。楽天的合理主義の時代には、その合理の間隙に、人間の根本的な存在を求めようとする動きが、無意識のうちに多種多様にあらわれる。が、その多くは非運に倒れる。ロムニーもそういう中のひとりに数えられる。ゲインズボロの感受性はみずからその対象とたわむれ遊ぶという素直だが強い方向にすすむ術を心得ていたし、また、風景画による孤独な時間を知っていた。が、ロムニーの誘う官能的な美しさの奥にはいたましいものがある。
 これと対照的なのはレーバーン(Henry Raeburn、1756〜1823)である。ほとんど故郷のエディンバラにひきこもり、剛直な絵をかき、この地方の画壇にかなりの影響を与えた。彼の肖像画のモデルはいかにもスコットランド人らしいが、それ以上に彼の絵の性格がテコでも動かぬスコットランド人らしい。故郷にひきこもったとはいえ、ロイヤルアカデミーには出品しつづけ、会員になっている。
 その他アカデミックな人物画家としては、その後ヴィクトリア時代までに、ロレンス(Thomas Lawrence、1769〜18301769)ホップナー (John Hoppner、1758〜1810)、ウィルキー(David Wilkie、1785〜1841)、エティ(William Etty、1787〜1849)、レズリー(Charles R. Leslie,、1794〜1857)、レートン(Frederick Leighton、1830〜96)、アルマタデマ(Lawrence Alma – Tadema、1836〜1912)などがいるが、この派は当時の世俗的な人気はともかくとして芸術としては、急激に下降線をたどる。
これに代って風景画が上昇線をたどることになるが、そのパイオニアとして、時代をかなりさかのぼり、一言ウィルソンにふれておこう。イギリス人に自国の自然の美しさを示した最初の画家である。わかい頃イタリアに遊学し、当時の風景画の好材料だった古代の遺跡や廃墟に、神話伝説の人物などを配して風景画をかいている。ロンドンに帰ってから、はじめのうちは、そのイタリア風景画で一応の名声を得たが、やがて、母国の自然に心ひかれ、いろいろの付加物を排して、それを表現するようになると、その名声はとみに衰えてしまった。が、彼の本領は色彩のすくない、筆の簡略な、そうした風景画にある。
 自国の風土に根ざした庶民的な心情といえば、田園の質朴な人物、風物を愛して放浪した画家モーランド (George Morland、1763〜1804)も忘れがたい。同じく田園画家として動物の生態をテーマに風景をかいたワード (James Ward、1769〜1859)も挙げたい。彼はモーランドの影響下から出発したが、のちには直接オランダの絵の影響をうけた。ウィリアム・ブレイクとも親交があって、その影響もうかがえる。なお、動物をテーマにした画家としてはスタップス(George Stubbs、1724〜1806)も、近年は以前より評価が高くなっている。

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