近代ー現代
世界美術体系 第20巻
近代ー现代
近代がいつからはじまるか、その区切りは明確にはつかぬが・・・・・・
19世紀も終りに近づくと、印象派の影響をうけた人々がアカデミーに反撥してあらわれる。スティーア(Philip Wilson Steer, 1860〜1942)、シッカート(Water R. Sickert, 1860〜1942)、クローゼン (George Clausen, 1852〜1944)などフランスの印象派やウィッスラーの影響をうけ、ロイアル・アカデミーで認められぬ人々が自由な表現を求めて、1886年新イギリス美術クラブ(The New English Art Club) を結成する。この時期は、むろん、世紀末の唯美主義などと重なりあうが、この頃からを近代と呼んでおこう。
20世紀のはじめは新イギリス美術クラブの人々が印象派を普及し、ロイアル・アカデミーに入ることになるが、一方、1910年と12年とにロジャー・フライ(Roger Fry, 1886〜1934)がオーガナイザーとなって後期印象派展をロンドンで催し、この辺からイギリス画壇は直接大陸の近代美術運動のさまざまな揺れとともに動くことになり、キュビスム、シュールレアリスム、未来派などが同時に、あるいは並列的に入ることになった。
シッカート、ダンカン・グラント(Dancan Grant, 1885〜)、彫刻家エリック・ギル(Eric Gill, 1882〜1940)、スタンリー・スペンサー (Stanley Spencer, 1892〜)、ウィンダム・ルイス(Wyndam Lewis, 1884〜1957)などの集ったロンドングループは後期印象派以後の諸問題を摂取し、やがてルイスは未来派からヴォーティシズムと称する作風をつくり出し、いわゆる抽象絵画に近づく。彫刻家エプスタイン(Jacob Epstein, 1880〜)のさまざまな遍歴、ジプシーを好んで描くオーガスタス・ジョーン(Augustus John, 1879〜1961)などもこんな揺れの中にでてきた。
なお、ロンドン・グループはその後つぎつぎと有望な新人を加え、研究所となって、いまでもつづいている。
第一次大戦を契機として、20世紀の問題がつぎつぎと特徴的にあらわれるとすれば、イギリスにおける19世紀末から1920年代にわたる一世代あまりは、さまざまな矛盾をふくみつつ、現代へとつながってゆく契機をはらむ一つの重要な時期かもしれない。が、ここには、あまり立ちいらずに、むしろ現代美術に焦点をあわすことにしよう。そうすることによって、近世と現代との間にはさまれた時期はいっそう明確に位置づけられると思われる。
1933年,、イギリスで前衛的な現代芸術の実験に興味をもつ彫刻家、画家が集って、ユニット・ワン(Unit One)というグループをつくった。この会は間もなく解散したが、時期からいっても、構成員からみても、現代イギリス美術界に大きな位置をしめると思われる。このばあい「現代」とは「同時代」ないし「同世代」ととり、いまを起点として、ほぼ三十年間と考えることにしよう。
第二次大戦以前には、ヨーロッパ各地にいろいろな流派が起り、それが美術運動というかたちをとって、つぎつぎとヨーロッパにひろがり、何重にも重なりあって交流するという傾向をとっている。この複雑な交流と揺れの中で、色彩や形態に、そして方法にも、また、美術の根本理念についてさえ、革命的な変革がおこることになる。が、第二次大戦後は、特定の芸術運動というかたちでなく、各民族が、あるいは各個人が、それぞれの立場で、世界美術にはたらきかけるという傾向をとってくる。それぞれの地方色というと誤解されるおそれもあるが、世界全体の文化の中にしっかり根をおろした地方色あるいは、そういう方向を志向する地方色をもち、政治的国境意識にわずらわされぬ生活感情と直接、しかも暗々裡に、結びついた肌合いをもち、異なる伝統と異なる発想をもちつつ、たがいに対決し、ただしあい、結びあおうとする仮空の「場」 を現実に設定しようとするかのようである。
政治的国境意識にわずらわされぬ、といっても、ひとむかし前によくいわれた、芸術に国境はない、という意味とは次元がちがう。ひとむかし前のコズモポリタンの考え方は、さまざまな美術運動の交流と揺れの中で、ほとんど無条件で、その重なりあいとひろがりとを認めてしまった楽天観から出ているが、現代では、そうした結びつきの「場」が、現実にはあくまでも仮説であることを、無意識にせよ、承知しているはずである。仮説であればこそ、それを人間が努力して創り出さねばならないのである。
これは、19世紀までのヨーロッパの世界に対する主導権の喪失という意識と結びついているのではあるまいかとぼくはひそかに思う。近世ヨーロッパは、大ざっぱにいって、全世界に対して優位に立つという意識の上に成り立っていたが、現代は、そんな優位性や主導権は、すくなくとも、芸術の世界に関するかぎり、ありえなくなった。むろん、政治や文明の表面にあらわれた部分では、先進国、 後進国という意識あるいは概念が一般的に通用しているかぎりにおいて 現代社会にも、ヨーロッパ文明(それから派生したアメリカ文明、ソヴィエート文明その他)が優位性を保っているにしても、──あるいは、一般的な傾向がそうであるからこそ──芸術の分野では、それに対して批判的な力がおきている。そして、いままで、19世紀的ヨーロッパ合理主義の進歩の観念や基準の観念──あるいは、それに附随し、それから派生する観念──のかげにおいやられていたものが、表面にあらわれてくる。同時に、近世ヨーロッパの光のとどかぬところにあった世界──古代、中世、さらに東洋、いわゆる未開民族圏などが大きな力をもってあらわれ、対等の権利を主張し、世界の文化に参加しようとする。
これは、ヨーロッパの進歩主義的合理主義の否定とみるべきか、あるいは、進歩主義がその発展のはてに、何らかの飛躍を求めた結果とみるべきか、軽々に判断しがたい。が、ともかくも、合理主義によって、地理的にも歴史的にも、視野がひらけ、それまでの基準では律せられぬものが出てきたことだけはたしかであろう。支配=被支配という関係が、いままでの基準では、成立しえなくなったと同時に、孤立ということがありえなくなったのだが、それが、美術においては、端的にあらわれてくる。色彩、形態、方法、そして、芸術の理念において、これまで無条件に、あるいは、ほとんど無条件とおもわれるほど楽天的に、うけいれられていたシステムに根本的な変革がおとろうとしている。それは、第二次大戦前のはなばなしい動きがないだけに、それだけ内攻的に各個人や各民族に根をおろしているように思われる。のみならず、芸術の、 どんな様式でも許容されている現代では、表現されたものを、底のところで支える、そうした根が、無意識にせよ、求められているもののようである。
こんな国際関係の中で、それまで長いこと孤立していたイギリス画壇が強い発言力をもつようになったのは、当然といえば当然である。むろん、いままででも、たとえば、ターナーやカンスタブルなど19世紀前半の風景画が大陸にかなりの影響を与えたことはよく知られているが、しかし、それは個別的だったし、また、近世的観念のうちにとらえられたものだった。(ターナーやカンスタブルの晩年の未完成におわった作品は、近世的観念をこえた地点で、はじめてとらえうることは前に書いた。)理念に根本的な変革をえたのちでは事情は一変する。たぶん、最近三十年間ほど、イギリスの美術が全体として活潑になり、イギリス独自の幻想性と写実性、抽象的要素と表現主義的要求とをおしすすめて、世界画壇に確固たる位置をしめたことはあるまい。
ユニット・ワンはそのさきがけであり、ポール・ナッシュ (Paul Nash, 1889〜1946)、ヘンリ・ムア(Henry Moore, 1898〜)、ベン・ニコルソン(Ben Nicholson, 1894〜)、バーバラ・ヘップワース(Barbara Hepworth 1903〜)など、現代世界的水準に立つ作家たちが参加した。以後、イギリス美術は、幻想的なもの、具象的なもの、抽象的なもの、表現主義的なものなど、近代から現代にわたる芸術のさまざまな問題を、その風土の中で統合しつつ、着実な歩みをしめしている。
ユニット・ワンのリーダーだったナッシュは、性格的には、おだやかなイギリス風景画の伝統と幻想的なものとをうけついでいるが、画家としての生活は両大戦にはさまれ、現代芸術のさまざまな揺れに遭遇せざるをえなかった。抽象主義的な構成と超現実派的な夢幻性とを追求して、イギリス絵画に一つの新生面をひらいている。一般的な概念では、抽象主義と超現実主義とは相反するものとされている。(はたして、そうであるかどうか、ぼくには疑わしいし、また、ここでいっておけば、ぼくの芸術観には、写実=抽象、具象=非具象というような、通念的な対応的分類法はない。)が、すくなくとも、ナッシュのばあい、抽象的な要素と超現実的な要素とが無理なく同居している。
第一次大戦中、二度にわたって従軍し──はじめは兵士として、つぎに従軍画家として──前線でうけた毒ガス傷害のため、後年、大作はほとんどかけなくなったが、水彩、油彩、版画、挿絵など、かなり多方面な活動を示した。第一次大戦の西部戦線で、完膚なきまでに爆撃された惨澹たる土地に太陽の光がさしている風景をかいて「われわれは新しい世界をつくっているのだ」と題しているが、人間の営為をあくまでも信じようとするイギリス人らしい信念であるし、また、個人よりももっと大きなものを信じる宗教的心情に通じるかもしれない。その後、海を抽象化しつつ、郷愁的な静けさをもつ絵を連作しているが、その最後に「冬の海」と題する厳粛な絵がつくられた。冬の海、平行線が浪の重畳たるさまをかたちづくり、荒寥とした空間と時間の中で、孤独な感情と無限感とが象徴的な力に統合されている。死の前年「ひまわりの蝕」などの連作をつくっている。太陽に関する幻想であろう。神秘的、象徴的な画面で、悲劇的な様相を呈している。
ニコルソンは現在イギリス画壇で抽象的な傾向の代表的な画家とされている。確固たる位置をしめているわけだが、そのことは同時に、古い再現的描写派から攻撃されるのみでなく、より新しい年代層からも、すでに批判の対象にされていることを意味する。幾何学的とか静的とかいわれる画風は清潔だが、若い年代層にとっては端正すぎるのだろう。現代の激しい社会意識の中では、いわゆる純粋抽象にとどまりえず、そこに生きるあかしとして激しさをふきこもうとする人々があり、それが若い年代の世界的な現象として、力強い勢いを示しているからである。
が、ニコルソンの絵がどれほど幾何学的になっても、背後に風土を感じさせるのが特徴であろう。実際に、ときどき具象的なイメージにかえることもあるが、そうした主題よりも、むしろ、再現的なものと直接には関係のない絵の肌に、おのずとコンオール地方の風景を思いおこすという人もある。
ベンの父ウィリアム・ニコルソン(William Nicholson, 1872〜19491)はウィッスラーの系譜をひく画家だが、ベンの抽象的な画風は父の具象的な風景画と、いわばムードにおいて、おどろくほどよく似ている。もっとも、ウィッスラーが構成や色のハーモニーやトーンで抽象的方向にむから可能性をもっていたことは、いまでは周知のことだし、ウィリアムがこの系統をひいている以上、似るのは当然かもしれぬ。が、父子に共通したものは様式ではなく、むしろ、様式を支える心的状態であり、そこから生ずる絵肌の変化である。
1932年に「オ・シャットボット」("Au Chat Botte”)と題した作品があるが、ニコルソン自身の言葉によれば、これは彼の画歴で記念すべきものだという。あるとき街を歩いていて、ふとみたウィンドー。店内にあるもの、つまりガラスのむこう側にあるものと、じぶんの背後にある町の風物と、その中間にいるじぶんとが、一枚のガラスの面に同時に映っていて、どれが現実のものであり、どれが影であるのか、区別できぬ夢のような心持ちになった。そのときのイメージにもとづいて制作したのがこの作品だという。これだけのことなら、たいした問題ではない──そうしたいろいろの事物の諸関係を一枚のガラスという平面に翻訳したにすぎないとすれば。が、目の前に実際にひろがる空間とその中にばらまかれた事物、目に見えぬ背後の空間、じぶんではけっして客体化することのできぬ主体──そうした問題が、こののち現代の造型上の空間関係としてしだいに明確になり、その追求がきびしく、しかも清潔に行われることになった。
ヘンリ・ムアは現在イギリスのみならず、20世紀中頃の世界の彫刻界を代表する作家であろう。のみならず・・・・・・彼より前に、スティーヴンズ、エプスタイン、ギル等の彫刻家がいるにしても、イギリス彫刻はムアからはじまるといってもいいすぎになるまい。
彫刻は鑑賞のむずかしい芸術だ、とムアはいっている。むろん、第一番に鑑賞するのは作者だと承知の上でいっているわけだが、このばあい、むずかしさとは、事物の存在するおそろしさといいかえてもよかろう。人間は対象となる事物との距離を測定し、かたちを与え、輪廓をつけ、名称をつけると、やっと安心する。つまり、人間の手のとどくもの、手に負えるものにする。が、事物はそう簡単に人間の手に負えるものではない、という自覚からムアの彫刻は出発する。ムアの彫刻が劃期的なのも、そこからはじまることになる。
日常の距離があいまいになれば、かたちは既成の概念をこえ、事物の生命は名称をこえる。石や木という材料そのものの中に生命を見ようとする態度をとらざるをえない。「生命力」という言葉をムアはよくつかうが、これはプリミティヴな民衆の生きる強さを認める態度と結びつく。また、「プリミティヴ」という言葉は「未開」を連想させて、使いにくい言葉だが、「プリミティヴ芸術」はそれなりにひとつの完璧な文明の所産とみるべきだ、とも彼はいっている。
彫刻はそこにあるだけで、まず、ぼくたちの視界を妨害する、ということをムアはよく承知している。気のきいたものならば、見通しをつけようとするぼくたちの心情を妨害せず、うまくつかまえ、なだめ、和解し、たくみに誘導してゆくが、彫刻の美しさは、そんなたくみさを拒絶することからはじまる。ムアは対象をじぶんの見通しの中にくみいれず、逆に、対象はじぶんでは、このままではどうしようもないものとして、自己を事物の中に分散させ、事物それ自体の諸関係をたたみこんでゆくようなやり方をとっている。
いわば、基礎のところからすこしずつつみ重ねてゆく──あるいは、分りきったようなはじめのものから順々につみ重ねてゆく。が、こうしてつみ重ねられ、事物の諸関係が明確になればなるほど、はじめ分りきったように思えたものが、じつは、そう単純なものではなく、ひじょうに重要なものだとあらためてわかるようなやり方である。
手に負えぬ事物の生命をあらためてみようとする態度は、原始芸術のアニミズムと一見よく似たものとなる。が、重要な相違をみおとすわけにはいかぬ。 人間と世界とを、作品によって、ふたたび堅固に結びつけようとする強い意志の有無である。
つまり、このばあい作品は、ある「現実」の再構成なのだ。可能性の現実といってもいいが、いずれにせよ、日常の現実で間にあえば作品は不必要である。間にあわぬからこそ、作品という「仮象」を手間暇かけて創造することによって、現実を再構成する以外に手がなくなるのだ。
ムアが「じか彫り」を強調するのも、対象自体に生命をみるためであろう。 「じか彫り」という点では、ヘップワースはムアの主張に従いながら、もっとそれに固執しているように思われる。が彫刻については最後にまわそう。
ムアとともにアニミズムによく似た態度をとっているのは、もう一年代若いサザランド(Graham Sutherland,1903〜)である。彼は画歴のはじめから、 現代絵画の二つの大きな課題にぶつかっている。一つは、いわゆる深い奥底の幻覚、あるいは、無意識の領域と結びついた不安の探求。いま一つは、絵画という二次元のワクの中に、そうした不安をふくんだ無限定の空間を構成するシステムの追求である。
いままで名称と位置を与えることによって、人間が限定していた事物が、名称をこえ、位置をはずして、人間の規制しえぬものとしてあらわれたのか、それとも、人間は事物から名称をはぎとり、その位置から「追放」したのか、たぶん両方だろう。サザランドは、いままで名をつけられず受動的におかれたままになっていた石ころ、木々、虫などを、あえて、不安定な状態にもちこみ、無意識の状態をゆさぶりおこす。受動的に安定した状態で埋もれ、沈み、眠っていた他の存在者を、あえてゆりうごかして、それを存在者たらしめたとき、はじめて人間は存在者たりうるのかもしれない。残酷なことだが、現代では、そうしないかぎり、世界と人間とが結びつかぬのかもしれない。たしかにオルテガのいう通り、人間はそのままで存在しているとはいいがたい。さしあたって、人間は、他の存在者を存在たらしめたとき、その中に、はじめて存在しうるかもしれぬ可能性にすぎぬ。逆にいえば、その可能性を現実のものとしたとき、はじめて、世界と人間とが結びつくのかもしれない。
こんな経歴をへたのち、第二次大戦を通り、イタリアで、ボルゴ・サンセポルクロにあるピエロ・デラ・フランチェスカの「復活」に感動し、ついで、グリューネワルトの「磔刑」に傾倒した。このふたりのルネサンス期の画家との出会いは、以後のサザランドに、ほとんど決定的ともいえる影響を与えているように思われる。
サザランドも「磔刑」をかいているが、これは現代の動向のうちで一つの大きな意味をもつ作品であろう。現代芸術とカトリシズムその他の宗教とのからみ合いは、普通考えられやすいよりも、はるかに重要な問題をもっている。いいかえれば、現代芸術は、ふたたび──あるいは、再三、再四──一見異様と思えるほどの執着力をもって、宗教とからみあう。
その後「いばら」の連作をし、全体に落ちつきと明るさをもってきている。彼自身の言葉によれば、「『いばら』は『磔刑』をかいているときの残酷の観念から生じたものだ。やさしみのある四周の状況の中にいばらを示すことで、その観念に二重のひねりを与えようとした」。
この「二重のひねり」をもつ落ちつきと明るさ──つまり、サザランドの色彩と、ピエロ・デラ・フランチェスカ、グリューネワルトの色彩との関連を書くとすれば、それだけでかなり大部なものになってしまう。ここでは簡単にこういっておこう、──ピエロにせよ、グリューネワルトにせよ、彼らの色彩が最近までほとんど認められなかったのは、度重なる色彩の革命を経なければ、その色彩の正しさが認められなかったからだ。逆にいえば、色彩の革命を何度も重ねることによって打破される運命をもった、それまでの画壇によっては、受けいれられなかったのも当然だった。おそらく、彼らとは直接関係のないところから出発した革命によっても、けっして打破されなかった色彩をもっていたこと、いや、その革命を通ることによって、はじめてその真価が認められる色彩をもっていたということである。
フランシス・ベイコン(Francis Bacon, 1910〜)の怪奇な作品もかなり大きな影響力をもっている。一時、ベラスケスの「インノセント10世」にとりつかれたかのように、そのヴァリエーションをいくつもつくっている。といえば、ピカソが最近ベラスケスの作品のヴァリエーションを連作していることをすぐ思いおこさせるようだが、しかし、ピカソの陽にかがやく地中海的明るさをもつヒューマニズムとはまったく正反対に、北欧の陰欝な夜の世界にとじともった、残忍なセンセーショナリズムをもっているかのようだ。近作の無気味なシチュエーションと色彩と形態とは、不可知の世界の扉を無理を承知でおしあけようとしているかのようだ。
ヴィクター・パスモア(Victor Pasmore, 1908〜)は戦争中ナッシュの若い頃に似た風景画を、繊細な神経で、あるいはときには過敏な神経で、かいていたが、戦後は抽象的な実験をし、「内海」などのように、ヴィジョンと様式が過不足なくあって、いい作品もある。ごく最近の数年間はリリーフをこころみている。
その他、さきに挙げたスタンリー・スペンサーや L. S.ロウリ(L.S. Lowry, 1997〜)など、かなり年長の画家
で、地道にじぶんの仕事をしつづけている人々や、ウィリアム・スコット (William Scott, 1913〜)、ウィリアム・ギア(William Gear, 1913〜)、テリ・フロスト(Terry Frost, 1915〜)、ピーター・ラニヨン(Peter Lanyon,1918〜)、アラン・ディヴィ(Alan Davie, 1920〜)などの、若い実験的な作家たちまで、挙げればきりがないのでやめておくが、ともかくも、それぞれが、みなイギリス的なものを強く出していることはおもしろい。イギリス本来の身近な風物に密着する態度を積極的にとっているからかもしれない。なお、いわゆるネオ・ダダやポップアートなどもあるが、すくなくともいまのところ、イギリスでは、そう大きな比重をもっていない。
さて、現代イギリス彫刻だが・・・・・・20世紀なかばには、すでにヘンリ・ムアが世界美術界に大きな位置を確立したことは前に述べた。たぶん、ミケランジェロが大理石を刻む方法によって一つの大芸術を生み、ロダンがモデリングすることによって、ミケランジェロとはちがう大芸術を創造したとすれば、ムアは石の量塊の重層によって、彫刻に、もう一つの新しい生命をもたらした。
現在の世界美術界で、彫刻をリードしているグループはイギリスとイタリアとであろう。(もっとも、それをグループと呼んでいいかどうかは分らない。 国民性とか民族性とか、その他さまざまな契機をもって、意識的にグループを形成しているわけではないからだ。各人が各様にじぶんの好み(‘‘)にしたがって目的を遂行し、実行しているのだが、何となく、ある共通の文化に支えられて、おのずと──すくなくとも外見上、おのずとみえるほど自然に──そうなっている。それに、文化とは、誰かもいったように、ぼくたちが目標としてそれに向って進むようなものではなく、ぼくたちの進む方向を、目に見えぬ背後から支え、推進するものだ。いいかえれば、目の前に見えるような文化はタカのしれたものだ。また、うしろをふりかえって、ぼくたちの進む方向を推進する文化を見ようとしたら、そのとたんに、オルフェのように、文化はぼくたちを罰する。それが文化というものだろう。)
そこで、かりに、 そうした二つのグループがあると仮定して、そのおのおのの特性を、言葉で、明確に、あるいは端的にいうことはむずかしい。本郷新氏のように「イタリア彫刻の野性と優美の融合に対して、ここ (イギリスの彫刻)には、理性と清楚の抱合がある」ということもできよう。ぼく流にいえば、 イタリア彫刻は「現実の可能性」を追求しているのに対して、イギリス彫刻は「可能性の現実」を追求しているということになる。
「現実の可能性」、「可能性の現実」と、一見同じようなことを、おぼろな言葉のアヤで区別していったものの、作品に即して見れば、そういい加減なことでもなく、おぼろなことでもない。ごく簡単にいえば、「現実の可能性の追求」とは、現実の世界から、あらゆる可能性をひき出し、それを定着しようとする態度であり、「可能性の現実の追求」とは、日常の現実を感じる能力あるいは感覚では導き出されぬものの可能性を現実に感知しうることあるいは、それへの努力を前提条件とする。
大ざっぱにいって、この二つの動向のいずれをとるかは個人の好み、あるいは、人生とか芸術に対する個人の態度にかかろう。イタリア彫刻には「野性と優美の融合」という「ユマニテの血脈」につながるロマンがあり、イギリス彫刻には、そうしたロマンを拒否する一種非情な理性あるいは主知主義的なものがある。 (前に、南欧と北欧とを比較して、「南欧の知的造型力に対して北欧の情的想像力」といった言葉と矛盾しているようだが、しかし、それは、近世合理主義を基盤としていったのであって、別の次元に立てば、この関係は、むしろ、逆転する。)
可能性の現実とは、「現実」という言葉をつかったにせよ、可能性はあくまで可能性であり、そこに到達すること、それを実現することは、結局ありえないことなのかもしれぬ。その辺におそらくシュールレアリスムなどとの本質的な相違がある。シュールレアリスムが、ふだんはそれと気づかぬ、意識下の世界、深層心理を、ある思いがけぬ組み合せによって、現実に表現したにせよ、 あるいは、見るものにそれを喚起したにせよ、 それは意識下の世界に存在する現実の可能性の追求である。言語撞著するようだが、可能性の現実を追求することは、永久に未完成のままにおわることかもしれない。到達不能な、実現不能な問題をあくまで追求することによって、未完成のまま課題に終止符をうたざるをえない、というところに、大芸術になりうる可能性がある、とあえていってしまいたい気になる。
ムアがはじめは分りきったようなものから順々につみ重ねてゆくが、しだいに事物の諸関係が明確になるにつれ、最初に分りきったように思えていたものが、じつは、そう簡単に分るものではなく、思いがけぬ重要なものだと理解される、というやりかたをとっていることは前にいったが、「可能性の現実」を求めるとすれば、さしあたって、こうした方法をとるほかないのかもしれぬ。
作者はまるで不在であるかのように、遠くにいて、すぐには結論を出さない。というより、結論は、はるかかなたに、まるで到達できないような遠距離におく。結論は永久に出せないかもしれぬというほど遠い。ムアの作品が、ふつうならば感覚的にとらえられるような頂点のところを出してこないのも、そのためだろう。が、それゆえに、一つ一つの判断に、つねに、その結論がなんらかのかたちで予想される、というのが、こうしたばあいの芸術作品の秘密の一つだろう。結論は鑑賞家にまかせる、というよりも、もうはじめから事物の諸関係そのものにまかせてしまっている、といえようか。「ロマンを拒否する一種の非情な理性あるいは主知主義」といったのは、こうした意味である。いいかえれば、現代文明の危機感は、「ユマニテの血脈」のある「野性と優美の融合」というようなロマンでは克服しえぬとする立場である。
最近のムアの大作の多くは、大きく切断された二個の部分から構成されている。いいかえれば、重厚な量塊の連続とも持続ともいえる無限の延長を、ある一瞬間に思いきった決断力で、たち切ることによって成立しているとも思える。言葉の連鎖をつづけてゆくと、いわゆる「非連続の連続」などということにもなりそうだが、ともかくも、切断された二個の部分はそれぞれ独立した物自体であり、それが、ある必然的な契機によって相逢うのだともいえる。その出会いは、出会った瞬間、永遠の必然性をもって、もはや分離することができないかのようだ。彼の作品に、宗教的な深みがあるのも、その辺にあるのかもしれない。
ムア以後、イギリス彫刻界はめざましい進展を示すが、いまのところ、いずれもムアを契機としてあらわれたように思われる。ムアとほとんど同時代人であるヘップワースも例外ではない。彼女の心にくいほどたくみな量と形態との処理は、ムアの拒否した「和解」を、あえて行なうことによって成立していると思われる。自然の型態、外界の事物、そして、じぶん自身との和解のうちに、そのリズムが生まれている。
もう一年代若いバトラー(Rey Butler, 1913〜)、チャドウィック(Lynn Chadwick, 1914〜)、アーミテージ(Kenneth Armitage, 1916〜)、メドゥズ(Bernard Meadows, 1915〜)たちは、それぞれ独立しながらも、いまのところ、 アの残した部分を追求している印象をうける。
たとえば、バトラーは、1953年「無名政治囚」という課題の国際コンクールで大賞をえたが、そのときの時代相──平和と秩序の恢復、と同時に新しい不安の芽ばえ──を反映している。チャドウィックは1955年頃から、最近のような堅固なフォームをつくるようになった。ある作品は方形にもとづき、ある作品は三角形をもとにして構成する。それは切っても切っても三角形なら三角形に、方形なら方形になるというような、一種とりつかれたような感じをうける。それに出っぱった突起物が生えているかのようで、それが人体の足や手や首に見えたりする。マチエールは部分がたがいにせめあって、全体として鉱物的な強さがある。アーミテージも、ちょっと見ると、チャドウィックとよく似ているが、自然の物体のひろがりや外部への動きが強調されていて、 マチエールからすると、チャドウィックとは対照的に植物的である。部分がたがいに助けあうやさしみがあり、有機物の自然発生のようなニュアンスがある。そして・・・・・・いずれにせよ、そうしたものはムアの作品に潜在している部分にちがいない。ことわるまでもあるまいが、これは、彼らが群小作家だという意味ではない。
さらにもう一年代若いダルウッド(Hubert Dalwood, 1914〜)やパオロッチ(Eduardo Paolozzi, 1924〜)には、次代を形成する契機がひそんでいるかもしれない。「可能性の現実の追求」という点では、パオロッチがもっとも適しているように思われる。1960年代に入ってからの最近作は、一見、 まるでぶっきらぼうな、大胆な構想のうちに緻密な構築性がある。「可能性の現実」を求める以上、なしうるかぎり大胆な構想と堅固で緻密な構築性が必要条件となるのは当然であろう。
こういうロマンのない構築性と主知主義については、かつてトーマス・マンがムシルの「特性のない男」について語った言葉がある「エッセイと叙事的喜劇の中間で、敢然と、 かも、すばらしい飛翔をこころみているこの輝やかしい作品は、もはやロマンではない・・・・・・この『主知主義』とは・・・・・・われわれの住む荒涼とした無秩序と無意味とにみちた時代において、詩人としての、生活するために必要な、詩人としての夢想的努力である・・・・・・」。