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芸術の社会的責任 (二)

美術批評

3芸術の幸福

 ところで、こういう意見がある。―虐げられた階級にとっては、生活は祭日どころではなく、牢獄だ。そこで、これらの階級は、当然、世界を鮮明な色彩のシンフォニーの形や、降りそゝぐ光の瀑布の形で考えることができないだろう。こうした階級の芸術家たちは屈辱と絶望の心理状態を示す陰惨な暗い画をえらぶだろう(フリーチェ) ……
 正当な意見だ。おそらく、現代という悲劇的な時代にまじめに生きているひとびとは何度か、いや、いつでも、みずから問いかける問題にちがいない。戦争、飢餓、悲惨……いや、さらに進んで問いかけるだろう―こんな悲惨に対してなんら直接に役に立たぬ芸術の存在理由はどこにあるか?こんな悲惨を体験し、いかに生くべきかという素朴な、しかも根本的な問題に逢着しながら、遊び戯れるとはどういうことか?
 遊戯という言葉が堕落し、「個性主義がのぼせ上って色彩上での思いもよらぬ抒情の中を面白おかしく野蛮にはねまわっている」ようなとき、この芸術と人生との関係に関する素朴な問題は、おそらく、誠実に生きようとする芸術家の最初の、そしてまた最後の試煉だろう。結論だけいってしまえば、この試煉を克服して幸福な律動を明示的型態に造型し、それによって自我と他我とを結びつけようとし、また、それをなしえたもののみが芸術家の名にあたいする、と僕は思うのだが、しかし、はじめから終りまでたえずこの問いを自分にかけていない作家を僕は信用しない。
 現代は、どんな大作家も、あふれんばかりに思想と感情とが流れて作品が生れるような時代ではない。どんな小さな花でも、その根は地下でバシュンサクセッしている……。
 だが・ たとえば……レンブラントが立派なのは、虐げられた階級の悲惨な灰色の日常生活を描いたからではない。その日常生活から「奇蹟的に高い次元に飛翔して」幸福を表現しているから立派なのだ。こゝで断言していゝことは苦痛や悲哀は表現をもたない。表現されたものはつねに幸福―生命の充実感―である。空虚なもの、悲惨なもの、不気味なもの、生を否定するもの、そうしたものは決して究極の解決にはなりえない。「快癒の泉は恐怖の生ずる地層よりももっと深いところに湧きでるのだ」(カロッサ)こういう楽天主義が僕はすきだ。
 「人を厳粛に憂鬱に不満足にし怒らせるのは、驚くほど容易に成功する。だが、精神的な手段に訴えて、人間を心から明るい笑いに誘うのは、たしかに、功すくなからざる得がたい天賦にまたねばならない」(カロッサ)自分をも他人をも心から明るい笑いに誘うものこそユーモアであり、その天賦とは第一にユーモアの力を信ずる勇気ある決断力だ。
 この決断は芸術家が政治的抵抗におもむくことよりもさらに勇気を必要とするのだ。まして、破防法ごときに一言の反対を示すなどというナマやさしいことではない。

 破防法はむろん僕も反対だ。だが、反対を表明するだけのことなら、やさしすぎてどうにも仕方のないことなのだ。やさしすぎる、というのは、一言だけ反対を表明することで芸術家が社会的責任をはたしたつもりになり、これを芸術作品自体で解決しなくなる危険を、僕は警戒するからだ。破防法をそのまゝ否定しようとするならば、大切なことは、景気よく反対ののろしをあげたり、陰にこもってブツクサいうことではない。実際に否定する政治力なのだ。が、これは政治の問題であって決して芸術の問題ではない。叫んだり、泣き声を出したりせずに、現実に抵抗する作品を着実に造ることが芸術家の責任だろう。極論すれば、芸術家が自分の芸術に責任をもてば、政治家もまた政治に責任をもつ、と信用できないものか?しかし、なるほど、今の政治家は実際信用がおけない。が、それは、同時に、芸術家が芸術に責任をもっていないからなのだ。僕はなにも芸術家のみに責任を負わすつもりは毛頭ない。たゞ、文化というものはつねにそうした相関関係にあるというまでのことだ。……むろん、僕も例外ではない。だから、こんなことを書いているのだ。
 とはいえ、芸術作品は人間相互の信頼感の上にうちたてられるものではないか?いたずらな猜疑心や、それから生れる防禦姿勢を克服することで、他の社会活動に抵抗するものではないか?僕は破防法などに反対して一言いうひとの誠意と善意を疑わぬし、また、ヨリよき社会をつくるために一言でも発言するものが多くなることを望むというひとびとの誠意と善意を認めぬわけではない。が、芸術作品とは、未来にではなく、この一瞬に、現実に幸福をつくり出すものなのだ。プラトン以来、芸術家はユートピアにはむかぬものらしい。

 現在に幸福をつくり出すということについて、僕はカロッサが会ったときのリルケの態度を思い出す、
 「リルケこそ誠実に自己の軌道を他人に示し、自己の労苦について語りうる人間だということを理解するには、ものゝ十五分も彼と席をともにすればよい。彼と一緒にいて、少しも束縛感を覚えぬということも、これと関係がある。彼は教えもしない、要求もしない、強制もしない。あらゆるたゝかいはすでに夙く寂寥の時間に彼によって行われていた。招かれて、その卓に坐る客は、獲得された諸々の地域の光輝と充溢とのみを見ればよかったのである。」とカロッサはいいながら、二人でリルケの部屋に坐っていたときの挿話をものがたる、―
カロッサがなにか読んでいたゞときたいとたのむと、リルケは即坐に自分の作品を読みはじめた。すみずみまで手のゆきとゞいた文章を、落ついて、明晰な抑揚に富んだ調子で読みすゝいんでいった。そのとき、茶を運んできた女中が床にすべり、盆や茶器を落した。ものすごい喧しい昔がしたにちがいないのだが、不思議なことに、そのが聞えはしたものゝ、耳に入らぬというような具合だった。朗読の落ちついた流れは一瞬たりとも中断されなかった。騒音はこの魔力圏の外部にとまってゐた。詩人の声はさほど大きくなかった。けれども、その声は、非常に深部にある特別の聴覚神経、あの日常の騒音をてんで受けつけない魂のアンテナに達するかのように思われた。リルケが読みおわったとき、朗読された文章の一語さえも失われたものはなかった、女中もこれに気づいているようだった。彼女は、まるで自分一人がこの部屋の中にいるかのように、さり気なくあたりを整頓し直して、何事もなかったような様子で新しい茶器をもってきた……
 芸術の幸福とはこういうものだ。無限の制空力をもつ持続的な一単位存在への還元だといってもいゝ。仮構を現実に存在させる力だといってもいい。日常生活から分離し独立した芸術のリズムが日常生活を包含する。このエーテルのように透明な制空力の中で、苦痛も悲哀もすきとおり、空虚感は克服されて、充溢した幸福だけがあらわれる。
 人間をどこで信頼し、人間はどこで結びつくべきか、また、どこで結びついてはならぬか、ということを、これほど強い覚悟をもって明確に知り、かつ、それを人間の礼節として実行したこの二人の人物の挿話に、僕もまた幸福を感じる。悲痛や苦悩などで結びついてはいけないのだ。結びつく唯一の交点はこの幸福である。よろこぶことによって、よろこぶものを救う――自分の苦痛をあらわさずに、いや、さらにいえば、苦痛を自分自身に対してさえ隠す礼節によって―これが芸術にたずさわるもの心意気だ。
 中世時代のフライベルヒの踊りにしても、古代インドのシヴァの舞踏にしても、無知なむかしの人間の勝手な空想が生んだタワゴトではない。民衆の叡知である。たしかに、こゝに現実に存在しているのだ。
 「リルケの詩は非常に軽快に遊戯的にはじまるのだが、リルケなどよりもずっと大仰で喧しく情熱的にはじまる他の人々の作品よりも漸次その力の強さを明かにしてくる、ということは、賢明な友人たちすら理解できないでいる」という。この遊戯性の力強い健康に注意していたゞきたい。日常生活の暗澹たる苦悩を誰よりも深く身
に感じつゝ、それを克服して明るい遊戯的開放感で自他を包含することは、なによりも雄々しいことだ。
こうしたことを念頭におけば、有名な言葉「人に花を贈るときに、根株やそれについた土くれなどは差し出したくなかった。 それでは多すぎていて、しかも、すくなすぎるだろう」―(先頃今泉篤男氏もひいていた)―という意味も明確になるだろう。花は根なしには咲かない。立派な花ほど地下でバンコンサクセッしているにちがいない。が、この根は、人目につかぬ土壌の奥深くあってこそ、花に養分を与えるように、人間の生きる苦しみは、自分の身体のうちに保存しているかぎり健康だが、いったん、それを外に出したら、賤しいものになってしまうのだ。
 ユーモアということはそうザラにあるというシロモノではない。

 この挿話にはいま一つ重要なことが含まれている。相互の信頼ということだ。作品は作家だけが作るものではなく、その信頼によって見るもの、聞くものも、また、その創造に参加するということだ。
 リルケの制空圏は、朗読するリルケに聞き、リルケを見るカロッサの協力をえて、はじめて存在するのだ。そして、もっといえば、すべって茶器を落した女中も、この雰囲気の創造に参加しているのである。もし、カロッサや女中の積極的な参加がなかったならば、この雰囲気は日常の騒音のためにかきみだされ、リルケの制空力は地におちるだらう。
 観衆や聴衆の参加ということは、曲芸から音楽、舞踊、演劇などについては、ちょっと考えれば誰でもすぐ考えつくだろう。造型芸術も例外ではない。たゞ造型芸術の場合は、そうした雰囲気をつくる劇場をもたぬためにー少くとも近代ではもたぬためにー少少、その関係が複雑で分りにくくなっただけだ。アメリカの林立する高層建築の中では抽象派や超現実派がいゝとか、近代画を飾る展覧会場の壁は何色がいゝとかいう論議は、近代画にあらためて劇場を与えようとすることなのだろうが、しかし、現代では、そうした制空力をもつ雰囲気をつくる空間は、劇場の会場効果ということではいえなくなっている、と僕には思われる。問題は、額縁に限定された絵画自体にかゝっているのだ。どんなところに出されても、絵画自体が周囲を透明にして無限の制空力をもちうるかどうか、ということだ。そして、それは見るものにも責任があるのだ。いいかえれば、見るものに責任をもって参加させる力が作家の力だ。
 しかし、むろん、このことは自分たちだけの、外部から閉された秘密なサークルをつくって、その中で洗煉された微妙なヤリトリをするというようなことでは毛頭ない。見るものゝ創造への参加ということが閉鎖的ななれあいにすりかえられたら―そして、実際、すりかえられている場合が実に多いから―芸術は単なる装飾になったり、根ばかり見せる甘えになったりするのだ。この挿話に、女中が登場していることは、この問題をとくキイポイントだといおうか?それとも、女中を登場させたのは、カロッサの周到な作意だといおうか?ともあれ、女中の登場は芸術の制空圏が秘密なサークルの閉鎖的ななれあいにすりかえられる危険をはっきり拒否している。遊戯の開放感がすべてのものを、そのあるべきところに設定するとはこういうことだ。

4存在するということ

 さて、しかし、それ自体の自律的なリズムで聞くもの見るものをして、その間、日常の苦痛を安んじて忘れさせてくれる、この存在―充実した光で空虚のおそろしさを克服して幸福につれこんでくれる、この存在―について、いま少し書いてみよう。

 空虚の恐怖ということがある。この恐怖にとりつかれると、ある面を空白にのこすことができず、なんでもかんでも空白を埋めつくしてしまおうとする。不可知な深淵がおそろしくて、手あたり次第その中になげこんでしまうやり方である。例はどこにでもある。現在の与えられた瞬間を充実して楽しみ生きることを知らぬものが、空虚を恐怖してさわぎまわるのだ。だが、むろん、こんなやり方では空虚を克服することなどおぼつかない。せいぜい、装飾的効果はあがっても、実体がない。埋めつくしたのちに残るものは、やはり空虚感である。なぜといえば、実は、空虚とか深淵とかいうものは、どこかに存在していて、そこになにかなげこんで、それで埋めつくせるなどというシロモノではないからだ。簡単にいえば、空虚とは意識の問題なのだ。
 たとえば、昼と交代にくる夜の闇ではなく、白昼の中に感じられた闇なのだ。夜の闇ならば、走りまわっているうちに朝が来るかもしれない。いくら苦しくとも時の方がたってくれるというものだ。だが、 白風の中に感じられた闇は、普通の手段ではどうにもならない。 こゝでは、どうしても、積極的に現実を再構成することが必要だ。そして、人間が積極的に働きかけて、再構成された新しい現実、それが作品の創造である。こゝに、存在するために存在するという意味―生を、なにかの目的に役立つ手段としてゞなく、それ自体において愛するということの意味があらわれる。
 逆に、空虚の恐怖にとりつかれたら最期、ものは存在しなくなる。個々のものがそれ自体の生と力とをもたず、たゞ次の瞬間、消されるためにのみ、そこにもってこられるというわけだ。

 すこし妙ないい方かもしれないが、外界がそれ自体として、そのまゝで、存在するということはない。外界という客体と、これを見、聞き、手さぐり、経験する主体との両方のかね合いに、ものは存在するといえるのだ。そうでなければ、外界は僕たちに対して不安定な刺戟を与えるだけにすぎない。受け入れてばかりいては不毛だ。この不安定な刺戟を与えるものに対して、見るもの方が、こんどはその刺戟を通して、積極的に抵抗して、逆に働きかけなければ、存在ということはありえない。
 「堅き石に刻め」というのは、この不安定な刺戟に負けたり、また半身になって流さずに、真正面からこれをとりとめるために堅固な材料の抵抗を媒体としようとすることにほかならぬ。材料の抵抗がなくなると同時に、対象の抵抗もなくなるからだ。抵抗がなくなると意志はうちかつべき対象を失い、意志そのものが失われる。これでは、装飾や大げさな身ぶりだけは生れるが、芸術作品という決定的なものがうちだせない。
 だが、現代では、材料の抵抗というものがなくなっている……いや、実は、なくなってなどいないのだ。むしろ、より難解なかたちで潜在しているのだが、その潜在的抵抗に気づかずにノンキにかまえていることもできそうだし、また、たとえ気づいたとしても、これに眼をつぶって、従来の抵抗のなくなったけやすさに安住しようとすれば、できそうな状態ではある。どんなに堅い石にしても、対象としての抵抗を度外視して、単に材料としての抵抗ということなら、全く抵抗をなくすことも簡単にできる。無人格的な市場に送り出すために、手練や工業力が大理石さえ柔軟な材料にできるのだ。
 しかし、こゝでいっておけば、無人格的市場や記憶された手練や工業力などという抽象的なものを、逆に全人格的に―現実に―感じとるところに現代の抵抗があるのだ。これを存在として感じなければ、現代に生きているとはいいがたい。さきに、現代ではどんなに才能ある芸術家でも、泉のように思想や感情があふれてあらわれることがない、といったのは、この潜在的抵抗のために、屈曲し、わずかにこれを克服して、その頂点だけが表現されるからなのだ。また、現代では絵画の空間が劇場という一定のかぎられた場を超えたといったのも、この意味である。
 現実に抵抗を感じないかぎり、どんな装飾でもできるし、情念は情念を生んで、とゞまるところを知らない。抵抗を感じなければ、人間はどこにでもゆけると思いこむ。丁度、鳥が空気がなければもっと自由に飛べるだろうと思うようなものだ。こうして、足は日本に、頭はフランスとかアメリカとかソヴェトとかにあるというようなバケモノじみたものが生れる。いたずらに先もの買いする空虚の恐怖の一変形にちがいない。いそがしくはせめぐったすえは、自家中毒をおこしかけている。
 色彩が化粧になり、絵画が装飾になる。それもいゝが、芸術の社会的責任が、こんな簡単なところで果しうると思いこんでしまうから、美と美的なものとの区別がつかなくなり、模倣を独創と思いちがいする。他人が思いちがいするだけではない。それならまだ話は分るが、誰よりもさきに御本人が思いちがいするのだ。こういう点では、画家というのはなかなか信用のおけない種族なのだ。

 現実に抵抗を感じる力を失い、単に画面の中だけの精緻な組合せの操作ばかりするようになると、当然のことながら、これに反対して、絵画の「思想性」(妙ナ言葉ダ)などということがとりあげられる。
「芸術が、もしそんな下らないことに労する価値があろうかという問いに対して、思想の重要性をもって答えることができないならば、芸術的形式は侮蔑と憐憫の微笑から芸術作品を救い出せない。」
「思索家に適当なる内容のみが芸術を空虚な娯楽(実際しばしばそんな芸術もある)であるという非難から救い出すことができる……」
 これは百年ほど前にロシアでいわれた言葉だが、いまもちだされても、さして不自然ではないようだ。だが、いまでは、いさゝか頑迷なビューリタン的な禁欲主義のにおいがするのはやむをえない。思想とか内容とかが形式をはなれて成立すると思いちがいしているからだ。
 芸術と、いわゆる思想や内容とをあまり簡単に結びつけようとすると野合になる。たとえば……性の開放がたちに性の野合を意味しないように――いや、性の開放とは、野合や野合から生れるワイセツを否定して、性の重要性を恢復するものであるように、開放された芸術においても、思想、内容、実生活などがこれと野合してはならないのだ。ギリシア彫刻が日常的な秘密を思い切って捨てゝ裸体を呈示し、逆に、そのことによって、ヨリ神秘的なかたちで人間を結びつけたことを思いおこしていたゞきたい。思想や内容は、本来、形式ともっとも美しいかたちで結ぶべきものだからこそ、かえって安易になれあってしまってはならぬのである。「空虚な娯楽たる芸術」は無人格的市場や工業力や記憶された手練とのなれあいから生ずるが、だからといって、これを否定するために、いきなり「思想性」をもってくるピューリタニズムは、野合の単なる裏がえしにすぎない。こゝでは、装飾のかわりに、主題や様式だけが問題にされる危険がある。形式のない思想性というヤツは、やはり、実体のまわりに幽霊をかぶせてしまうものだ。そして、実体の存在が幽霊にくわれてしまう。

 可視的なものであろうと、また、抽象的なものであろうと、いったん、ものが存在していることを意識したら、見るものはこれとたえずぶつからねばならぬが、しし、僕たちの思想も感情も、そのことを通してしか訓練されない。僕たちの想像力はいつも転回しているのだが、ものにぶつからずに転回しているだけでは不毛な自慰にすぎない。ものがそこに存在するということは、でき上った思想や情念に決定的な打撃を与える。あらゆる解釈をはねつける。存在しているものは、どうやったところで変えようもない強さをもつ。が、それがないかぎり、夢想のとりとめのない無政府状態か、それとも、夢想をとりとめるための幾何学的設計図みたいなものが、主人づらして暴威をふるうのだ。
 画家にとって、写実ということは最初のトッツキではなく、つねに最後の試煉だという意味もお分りのことゝ思う。
 ついでにこゝでいっておけば、僕たちは哲学的にしろ、文学的にしろ、芸術的にしろ、いわゆる「思想性」などというシロモノには、もうどんなものにも、おどろかぬようになっている。おどろくものがあるとすれば、なんらかのかたちに具象された人間の生命力であり、そのかたちの中に救われ定着されて生きている人間の思想や感情である。人間の思想の発達のためには、芸術作品は、哲学的思考よりも、はるかに多くのことをなしてきた、というのは、なにも芸術至上主義者のネゴトではないのである。(完)

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