芸術の社会的責任 (一)
美術批評
1 芸術の社会的機能
はじめに断っておきます。題が大げさすぎて羊頭狗肉……どころか、まるで竜頭をかゝげて鼠肉を売るようなものだ。もともと芸術の社会的責任などということはあるような、ないような、はっきりしているような、つかみどころのないもので、それこそ、画そらごとの竜みたいなものだ。 泰山鳴動してひとさわがせな……どうせ、ねずみ一匹でてくればそれでもいゝ方だと思っていたゞきたい。
芸術活動というものは由来、政治、経済、科学その他百般の社会的機能の一つであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。それなのに、あるときはバカに高尚なもの―つまり社会的責任を免除された「ショウチョウ」的存在―と思われたり、あるときは逆に、宗教とか政治とかに隷属して社会的権利をもたぬ賤業にされたりする。バカな話だ。むかしむかしのことではない。いまでもそうだ。 そんなところから、「芸術の社会的責任」などという問題がことあらためて臆病そうに顔をもたげる。他の社会活動を指導すると思い上るまちがいが一つ、他の社会活動に一方的に規定されると卑下するまちがいが一つ。だが、二つとも、もとは同じまちがい、つまり社会活動と芸術活動とが別のものだと考えるところから出てくる。
社会的発達のいろいろな段階で、芸術は「社会的要求」と「社会的発達の水準に適応した世界観の形式」とに応じて、いくらかずつことなった機能を遂行してきた、……というのは当然なことだが、しかし、「社会的要求」や「世界観の形式」を芸術活動と別のものと考えて、それらの「要求」や「形式」にあらかじめ決定された心理とイディオロギーが芸術を決定すると考えるひとびとは案外多い。つまり、芸術を、なにかある社会的要求の結果や世界観の形式を伝達する手段と考えるわけだ。冗談もほどほどにしてもらいたい。芸術活動はその「社会的要求」や「世界観の形成」をかたちづくる一要素として社会に働きかけ、文化に参加しているにすぎない。社会的要求の結果としてではなく、社会的要求を推進する一つの担い手として生きていなければ、芸術は生きてはこないし、むろん、後世に影響を与えるなどは思いもよらない。
だから、政治的自由のないところに芸術は生存し生長することができない、と考えるにせよ、また、芸術の隆盛と衰頽との動因が経組織のうちにふくまれている、と見るにせよ、いずれも、ある程度までは本当だが、「ある程度まで本当」などということは、まるで本当でないことなのだ。こゝまで来ると、むしろもっとも素朴に、芸術の繁栄と装飾とは気候風土による、と考えた方がつかみどころがないだけサッパリしている。
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芸術がある階級の勃興期にもっとも立派な生気をもってあらわれる、ということにはまちがいない。が、しかし、その原因は政治形体や経済組織などに一方的に指導されたためではない。むしろ、新時代の形成にあたって、人間の生成力の一発現とて、他の営為と結びつきつゝ、その一環をなしていたのである。だいたい、なんらかの人間の営為をそれ自体において生命のあるものと見ず、他の営為の手段や結果と見ることは、人間の営為ということに対する不誠実である。他人の営為がそれ自体として生きていると認めないで、どうして、自分の営為の生きていることを認めることができるのか?また、自分の営為を認めないで、どうして、他人の営為が認められるか?他の営為を手段として利用しようとする策士はかならずその策に倒れる、と考えていい。政治、経済、その他百般の社会的機能のどれか一つを基礎と見たり、優位に立たせたりすることは、文化ということに関する決定的な誤解にもとづく。社会は、これらの諸機能の力がたがいに連関する綜合的な「場」のようなもので、これを目標としたり、ひとごとのように否定したりできるものではない。
そう考えないところに、いろいろな部門のセクショナリズムや、ある部門の優越意識や劣等意識が生れる。職業や部門の分化した現在、この分化をくやむのあまり、性急に各部門を結びつけようとするとどれかがかならず優位に立ってなれあいになる。結びつくためには、分化した各部門がそれ自体の限界を知ること―政治家が政治の、法律家が法律の、芸術家が芸術の限界を知り、自分の行為を責任をもって遂行すること、そして、そのことによって、これらの諸機能を支える綜合的文化の場を通してのみ、各部門が結びつくということ、こういう手だてが現在では必要だ。純粋芸術というものは、本来、無意識ながら、そうした点を志向していた。くりかえしていえば、この無意識の志向を支えているものが文化である。
この関係はたゞ日本の社会活動にかぎられたわけではない。世界全体にまで拡げて考えられる。エコール・ド・パリ以来芸術に国境はなくなったとは、そうした文化の場が政治的国境をこえたという意味であり、一人一流派というのは、国籍不明者にならず、民族とか国土とかに根をおいた発想に従って、たがいに対決し張りあう「場」をつくるという意味だ。
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だから芸術活動には明瞭に意識された目標などない、といってしまいたい。 芸術活動を、なんらかの意味で目先きに見える既製の枠―それが外国のものであろうと、日本のものであろうと―につれこもうとすることは、どう考えてもおかしなことだ。政治活動や経済組織をなにか外的な例―たとえば先進国の例(先進国!後進国!!オカシナ言葉ダ)にならって、そのまゝ踏襲するわけにはゆかぬように、芸術活動も目先きのお手本などはないのである。 活動を推進するものは生命力が肉体にあたえる「暗夜の命令」だ、といってしまおうか?芸術は模倣からはじまるともいうが、発生の状態がかならずしも本質とはかぎらない。チラチラ見えるお手本や標語からまず自由になることが創造的行為のはじめだといいたい。
芸術は個人的好尚によるとはいえ、その個人はつねにその時代の文化に支えられているものだ、とはっきりした自信と覚悟の強い謙虚とをもつべきだろう。 そこで、政治家の社会的責任はよい政治を行うことによって果されるように、芸術家の社会的責任もまた立派な作品を造ることによって果される……といってしまってはアッサりしすぎて答えにならぬが、しかし、実際のところ、芸術の社会的責任を述べることは、迂遠のようだが、僕なりの芸術論を書くのが一番はやい道らしい。が、それはあまり広範囲にすぎよう。
……それに、いま僕はまったく困っている。誰に問い、誰に答えるのか、皆目見当がつかない。いたしかたない。素朴なことをまったく素朴に、常識的なことを全く常識的に、すこしずつ書いて見よう。
2 芸術のリズムと労働のリズム
通説にしたがえば、芸術のリズムは労働のリズムから生れ、のちに労働から分離して諸々の芸術の基礎となった、という。まず、その通りだろう。原始的狩猟者以来、人間は生産用具を次々と発見し発明しそれによって生存競争における勝利の歓喜感をもった。その歓喜の開放感が舞踏となり、また、労働のリズムを継続しつゝ無目的に律動的装飾を用具の上に描きつけ彫りつけて造型芸術が発生する。「そして、生存競争に直接必要のない心理的活動及び心理的精力の剰余が生じ、この剰余が実用的には無目的に労働過程を反復しようとする傾向に表現された」(フリーチェ)つまり、芸術はその原始に於いて、実用的には無目的な労働の反復―実用的意義のない遊戯に変化された労働―ということになる。
たしかに、僕たちの周囲には、芸術のリズムの原型たる労働のリズムがどこにでもある。田植歌、木びき歌、線路工夫の拍子などから日常の道具や建物の線のリズムまで。「シャモジでも実用にかなったものなら美しい」こういう、実用的目的をもつ労働から生れたリズムがやがて労働から分離し独立して、自律的な芸術のリズムが生れた、という考え方は、一応もっともだ。
一応もっともだというのは丁度、ニワトリがタマゴから生ずるという意味で、僕は反対しようがないということだ。しかし、ニワトリとタマゴといずれが光にあったのか分らぬように、はたして、芸術のリズムが労働のリズムから生れたのか、それとも実用的目的から分離し独立した遊戯の自律的リズムが労働に逆に働きかけたのか―つまり、開放された遊戯のリズムが労働にリズムを与えたのかーこれは、そう単純にかたづかぬ問題なのだ。そして、こゝでいっておけば、芸術の社会的機能は、どんな場合でも、この遊戯の内的な暗示的なリズムの働きかけにあると僕はいいたい。すぐさま分るような主題や様式による働きかけは、むしろ、野合にちかい。
たとえば、労働のリズムの中に遊戯的な開放感が内在しない場合を考えていたゞきたい。古い話だが、チャップリンの「モダン・タイムズ」の中で、チャップリンのふんする労働者が機械的流れ作業の一つをくりかえしているうちに、機械が故障で止まっても、その動作を自動的にくりかえすところがあった。こうなると、生存競争における勝利の歓喜感どころか、機械に隷属し束縛された運動にすぎない。機械的くりかえしは決してリズムにはならないのだ。
工業資本主義あるいは社会主義といういまだかつて史上に現れなかった現代の経済組織や政治機構の中のリズムと、前時代のリズムとを混同していると、とがめだてられるだろうか?だが、僕は思うのだが、いったい人間というものはいつの時代でも、前代未聞の時代に生れあわせていたのだし、そのたびに、その時代なりの機械的なくりかえしに抵抗する創造的なリズムーいわば、心臓の鼓動から生れるリズムーを生みだしたのだ。つまり、人間はいつの時代にも生きていたのである。
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リズムの強制力については、もうずいぶんいわれている。たとえば「リズムは強制だ」とニーチェはいう、「リズムは譲与したり、受け入れたり、同じことを行ったりする強烈な欲求をおこさせる。足ばかりでなく、霊さえも拍節につれて動く。おそらく神々の霊もそうだろうと人間は判断した。そこでリズムによって、神々を征服し、かくして神々を支配しようと努力した。」
リズムは労働にはたらきかけるばかりでなく、むしろ、はじめはそこから生れた心臓の鼓動にまで逆にはたらきかけ、ある意味では、たしかに神々をも支配するのである。
そこで僕は、古代人や野蛮人の踊りに最初に呪術、妖術、魔術を見、そこから芸術が発生したとする通説は根本的な勘ちがいではないかと思う。遊戯的開放的リズムの強制力の強さを知っていたからこそ、そのリズムが儀式を通して、次第に呪術的要素をもつにいたったのではないだろうか?遊戯から儀式、儀式から呪術という関係は決して逆ではあるまい。もし呪術に遊戯性が全く失われたら陰惨なもので、決してものをつくるということをしない。むしろ、陰惨な末期的呪術を克服するものが芸術のリズムであろう。
アルタミラ洞穴をはじめ、石器時代の動物の壁画は、狩猟種族が動物を征服するために、その生態を微細に見て、これを写実的に描いたと同時に、それによって、動物を支配する呪術とした、という考えにも、たゞちには賛同しかねる。むしろ、描くということにある楽しみの方が先ではなかったろうか?いや、実は、普通の時間的な継起の順序などはどうでもいゝのだが、少くとも、その楽しみがあの驚くべき写実の正確さを導きだしたのではなかろうか?といえば、はげしい動物との困難な生存競争をしていた古代人をあまり近代的視野で見すぎるといわれるだろうか?だが、こんな点に関するかぎり、古代人も近代人もそうちがつたものでないことは、少し注意して見れば、すぐ分るはずだ。
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いや、この遊戯的リズムが労働や心臓の鼓動に働きかけるという点では、近代人の方が劣っているかもしれない。楽しみその中にあり、というような遊戯性がだんだん少くなっているようだ。たとえば……例はいくらでもあるが、たとえば、レヴューというヤツ、あれはそれ自体として楽しむよりも、むしろ、なるべくはやく終ってしまおうとする。運動のリズムによって見るものを誘い、演じられている時間を十全に楽しむことをせずに、その時間をなるべくはやく通りぬけてしまおうとするかのようだ。与えられた一瞬一瞬を全的に生きることが人間の誠実だとすれば、これはまことに不誠実なことだ。僕は見ていてどうにも恥かしくなってしまう。こういう不誠実はリズムをころす。なるほど、これでは遊戲性ということー本来、もっとも健康たるべき遊戯性ということーが、不健康な意味をもってしまうのはいたしかたない。
むかしの踊りは決してこんなものではなかったろう。
中世時代、ある一人の領主が農婦と踊っていたところが、新しい組が次々と思わず知らず加わってゆき、ついには、踊りがスイスのフライベルヒ一円におよんだという話がある。おとぎばなしにしても美しい人間の祈念と知恵とをあらわしている。ギリシア劇が演者と観客との協同によって行われたことはいまさらいうまでもあるまい。芸術の社会的効用とは、第一に、リズムの高揚した戯れによって、ふだんは個人を区別している殻をぶちゃぶって、たがいに結びつき、協同作業によって、すべてが理念的な一単位存在に包含されることだろう。
この辺の事情をもっともよく示しているのは、古代インドのシヴァ神の舞踏だが、これについては、以前別のところに書いたことがあるので、自分の文章で恐縮だが、引用しておく。
古代インドにシヴァという神がある。もとは狂暴なおそるべき
破壊神だったが、いつの間にか創造神に変貌した。正確にいえば、
ブラーフマー、ヴィシス、シヴァの三神が中心的な神で、だいたい
ギリシア神話のゼウス、アポロ、ディオニソスにくらべられるが、
次第にこの三神が一体化されるようになったのである。そして、
この一体化がおこなわれるときはーつまり、シヴァという激動
的な狂暴な破壊神が明知の神ヴィシスおよび創造神ブラーフマー
と合体するときはー実に、シヴァが宇宙を舞台として舞躇する
ときなのである。
シヴァの舞踏 これは壮大な歓喜の舞階だ。創造神が宇宙を
舞台としておどる。つまり宇宙が舞踏そのものになって流動する。
こゝでは、すでに、踊り手と見物人との区別はない。自分と他人、
見る自己と見られる自己などという個々に区分されていたもの
が、まったく境界を失い、すべてが舞踏の躍動のうちで一単位存
在にまで還元される。宇宙そのもの舞踏という最大の形式にま
きこまれて、人間がそれまで営々としてきずき上げてきた諸々の
形式は一瞬にしてふきとんでしまうが、同時に、この舞踏そのも
のようちに、あらためてすべてのものが生成してくる。
この舞踏は宇宙そのものが踊るのだから、それ自体の動きのほ
かに外部的になんの支えもないが、かえって、それゆえに、そこ
に無軌道な混乱はない。丁度、天体が宇宙それ自体の相対的な場
以外になんの支えもなくて、決して軌道をあやまらぬように……。
無心におどる歓喜と戯れとによって創造すること―これ以上
に強いものはない。分割されて孤立していたものが、この躍動の
うちにおのおの境界を失うと同時に、その居るべき場所を設定
される。激動によって個々に孤立していたものは粉砕されるにし
ても、この舞踏には整然たる秩序がある。そして、生成の原動力
を破壊あるいは闘争と見ることから、いわば格闘的な戯れと見る
にいたったことはおどろくべき人知の転換である……。
さて、こうして転換された地点から、このリズムの遊戯性を見ると、それが生存競争の勝利感から来る剰余であるか、それとも、人間の生命力の本源的なあらわれであるか、どうにも区別がつかなくなる。
このリズムの自律性と機械的な自動性とは往々混同されがちだし、リズムの陶酔はダダのパラノイアなどに翻訳されがちだが、これは、よほど厳格に区別しなければなるまい。
(次号完結)