芸術について 7
中延学園デザイン科ニュース スプリングス
遠近法について 1
遠近法というと、普通、絵画の場合、二次元の平面に、三次元もしくはそれ以上の次元をどうとりとめて描くか、というその方法のことを指すのは、誰でも知っていることでしょう。三次元というのは、私たちの眼の前にひろがる奥行きや、時には背後の空間まで入っての空間といってもいいでしょうし、それ以上の次元とは、時の流れや幻視的なものまでとりとめようとするとき、すでに、それが必要になります。宗教的信念とはいわぬにしても、私たちにとって、最も重要なもの、または、ことをとりとめようとすれば、何次元になるのか分からないくらいなことになります。
大まかに強いて分けていえば、線によってそれをあらわす方法(線・遠近法)と、色によってあらわす方法(色・遠近法)とがあることはご承知でしょう。
ヨーロッパでは、透視図的遠近法がルネサンス期に、多くの画家や建築家たちの懸命な努力によって追求され、十九世紀半ばくらいまで、これが支配的になります。「科学的遠近法」などと呼ばれることもあって(ご存知かもしれませんが、ルネサンスのころいわれた「科学」という言葉は、いま普通に使われている意味とは1、かなり違うのですが)、いまでも、ただ「遠近法」といえば、透視図的遠近法のことを指すことが多いようです。
(透視図的遠近法が発見もしくは発明されたことの意義は、これはこれで、実に多くの重要な問題、考えようによってはいまの私たちにとって、思いがけぬほど重要な問題を呈示しているのですが、このことは次の機会にお話しすることにしましょう。ルネサンス期のすぐれた作家たちが、これを追求せざるをえなかったその状況と必然性、現在の私たちがいわば、それをのりこえざるをえなくなった状況と必然性──この関係は、少々飛躍していえば、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との関係に似ています。非ユークリッドはユークリッドの否定をして出てきたというより、ユークリッドの発展の果てに、これ以上はこのままでは行きづまるという、まさにそのとき、一つの飛躍をして、大きな世界の諸関係を切り開いたものでしょう)
しかし、遠近法というものは、もっと、はるかに広範なもので、かいつまんでいえば、人間が何らかの四周の関係で、協力して生きている以上、ほとんど、いつでも何らかの遠近の感覚と、それに基づく行為をしているものです。人間は、多少にかかわらず、何らかの集団生活、何らかの意味で集団的意識をもって生活している以上、遠近法はいわば自然発生的に生まれてくる、一種の自然法みたいなものといっていいのでしょう。
古代エジプトの絵や浮き彫りの人物像については、おおよそのことはもうご存知でしょう。エーゲ文明やギリシア、ローマ時代の絵のフォーショトニング(前方縮小法と大変かたくるしい直訳的言葉があります)、いわゆる逆・遠近法(逆・遠近法という言い方はおかしな言い方で、透視図的遠近法が生まれたのち、それとは逆なところがあるので、そう呼ばれているまでのことで、正確には、非・透視図的遠近法とでもいうべきものでしょう)、また群像を描く場合、作者にとって、また見るものにとって(これは発生の時においては同じことだといえるのですが)、最も大切と思われる人物を大きく、他は小さく描く方法、中国でいう三遠の法、日本のふきぬき屋台や浮世絵の平塗り・・・・・・等々、数えあげたら切りがないくらいです。
いわば、遠近法は、文化とか文明のメドみたいなもので、文明の数だけ遠近法があるといってもいいのでしょう。
物にしても、事にしても、見るという行為は眼で見るだけでなく、聴覚、触覚その他あらゆる感覚を動員して、つまり、身体全体の働きをもとにして感じるものです。もともと、絵画を見る場合は、視覚を通しているにちがいないが、私の経験では、視覚を媒体として、あらゆる感覚を総動員して身体全体の動きでとらえているように思われます。
別の、ごく身近な例をとりましょう──たとえば、私の居間で、四、五人と話をしているとき、私は話をテーブルにのせて、それなりの声の大きさで話をしているはずです。教室や講堂で、五十人の聴衆を前にして話をしているときには、たぶん、声の大きさがちがうように思われます。つまり、居間で少人数で話しているときより、多少、声が大きくなる、無意識に大きくなる。この場合、最後列の席に座っている人にもきこえるだけの声を出しているはずだからです。
ふと、気がついて、途中に、私はときに、最後列の席にいる人に、私の声がきこえるかどうか、たずねることがあります。とっさに、「聞こえます」と返事がかえってくると、いくぶん安心して、そのまま話をつづけることになります。
ただし、こういうときは、居間とちがって、具体的にテーブルがないので、どこに声を落とすか、たぶん、長年の経験で、教室の中間のあたりに間合いをおいて、声を落としているようです。それが丁度よければ、五十人の聴衆の一人一人はそこに呼応するはずです。もっとも、そうなれば理想的だけれど、なかなか、そううまくはいかないものです。 「長年の経験」といま言いましたが、いくら長年やっていたからといって、うまくはいかぬもので、多くの場合、話が終わったあとでは、意気消沈してしまうのですが・・・・・・間合いがあうには、話の中味や内容、私の体調や聴衆の呼応と密接に関係があるわけです。雄弁とは全く別のことがらです。
ところで、五十人の聴衆にしても、私にしても、この場合、私の話は七〇分なり九〇分なり、だいたいの見当は一応ついています。つまり、時の流れの遠近を一応了解しあっているわけです。いつ終わるのか分からなかったら、とても、安心してお互いに落ちついてはいられない。
それに、終わったあと、私にしても、五十人の一人一人にしても、それぞれが、何をするのか、だいたいこころえています。まっすぐ家に帰るのか、家に帰るにしても、どのくらいの時間がかかるのか(ちかごろでは、バスや電車、自動車などで距離の遠近を、時計の針の動きではかる)、次の講義に出るのか、遊びに行くのか、買物に出かけるのか、友人とランデブーするのか、アルバイトするのか、ぶらぶらするのか・・・・・・だいたいこころえているのでしょう。そうでなかったら、不安で、私の話などおちおち聞いてはいられない。それが通常のことでしょう。また、聴衆の一人一人が、私の話をどううけとめて呼応するか、いちいち違っているでしょう。身近にひきつけてうけとめるか、遠くで何か言っていると聞きながしているか。
遠い、近いということは、空間の距離に関してのみのことではないのはいうまでもありません。人間同士の交わりについてもいえるし、時間の長さについてもいえる。
遠い過去、近い過去、遠い未来、近い未来などともいうし、長い日とか、夢のうちにたつ短い月日とか、さまざまです。
それに、歴史を思えば、事実上の遠近の過去は、どちらが遠いか近いか、分からぬくらいなものです。現在に生きている人間の関心の持ち方によって、事実上、遠い過去の時代の方が、ずっと身近になります。
歴史とは、私たちにとって、極めて大切なものだけに、それだけに厄介なものなのです。
歴史とは何か?という問いは、いつも私たちにとって、解答のむずかしい問題ですが、一応、こういっておきましょう。歴史とは過去に起こった事象そのものではなく、何らかのデータ、できるかぎり多くの、しかも、可能なかぎり正確なデータにもとづいて、現在の状況の必然性に従って、私たちが仮設したものでしょう。それが歴史の第一の意味と考えてよさそうです。が、もう一つ重要な意味は、現在の状況の必要性に従って、普遍的なひろがりをもちたい私たちの欲求によって、そのように仮設せざるをえなくなるその衝動を起こさせるもの、それが歴史というものだともいえます。つまり、ここでも、人間は二重の存在なのです。私たちは、過去何千年か何百年か、ずっと続いて滔々と流れてきた歴史の最尖端にいて、今日、未来にむかって歩もうとしている。と同時に、私たちは、まだ歴史時代に入っていない時に生きているので、これから創世紀に入ろうとしているのです。が、ここまで話がくると、生と死との問題に立ちいらざるをえなくなって、いよいよ厄介になるので、 一応ここまでにしますが、これだけいっておきます。生と死とは無限に遠いと観るか、隣りあわせにあると見るか、その人の、その時、その場の状況によってそれぞれちがうのでしょう。中世末期からルネサンスのころ、よく描かれた「死の舞踏」の絵や物語など、ペストの流行と戦乱にあけくれた人々にとっては、死は生と隣りあっていた。現在でも、地球上には、これと類似した場が決して少ないとはいえないでしょう。といって、私は決して悲観論者ではありません。むしろ、楽観的な方です。念のためお断りしておきます。
遠近法の数は、文明の数だけある、といいました。遠近の方則が生まれるのは、丁度、言語の方則が生まれるのと同じようなものだといってもいいようです。
人間は何らかのかたちで多少とも有機的に結びついた集合体、つまり集団として生活しています。 そこには、共通した意識の構造がある。その構造と言語の方則とは密接に結びついているもののようです。どちらが先かということはいまのところ私(たち)にはどうでもいいことです。 言語の方則を文法といってもいいのですが、いわゆる文法というのは、つまり、学校で学ぶ文法は、古文にせよ、現代文にせよ、使われている言語から逆に整理し、体系づけたものでしょう。そうしなければ、言語は大変複雑になるので。が、実は、この言語の方則は、はるかに深い──ほとんど探りえぬほど深い──ところから出ているので、とても完全に整理し大系づけるわけにはいきません。それでも、できるかぎり、表層から深層に向かって整理し、大系づけようとするところに意義があります。
私たちは、ふだんは無意識のうちに、つまり、何げなくこの言語の方則に従って、言葉を使っています。時々、私はこんな
言葉を聞くことがあります──「文法があって、言語があるのではない。言語があるのを整理したのが文法なのだから、文法が成立しなくてもいいのだ」。ずいぶん乱暴ないい方だと私は思います。 言語にはそれなりの深い構造があって、現れた言葉の一つ一つにはまるで関係がないように見えても、深層では、その深い構造と結びついているはずです。すぐさまそれをさぐりえないのは、むしろ、当然ですが、 そして、どれだけとっぴな例外があるにしても、その基本においては、その構造からはなれていない。少なくとも、そうひどくは、はなれていないのです。
ここで、私はラングという語を使わざるをえなくなってきました。言語といったのでは、広範な意味を持ってしまって、かえって分かりにくくなるので、いまのところ、ちょっと使いにくいのですが、いまあえて使うことにしますが、これについては次回にお話しすることにしましょう。
(この項つづく)
岡本謙次郎
明治大学教授 美術評論家
一九一九年 東京に生まれる
東京大学文学部英文科卒
著書 運慶論 ブレイク 英国の美術 現代美術─一つのアンソロジー