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美術思潮周辺 イギリスの現代美術

美術手帖

―伝統とその思想的背景―

   イギリスの伝統と二〇世紀の問題
 「今度『美術手帖』で、美術思潮周辺〉というヤッカイなシリーズをはじめ、おはちが廻ってきてしまった。現代のイギリス美術とその周辺の思潮を書けというんだ。ところで、美術思潮なんてシロモノがあるものやらないものやら、いっこう分らぬし、あったところで、思潮となると、さて、さっぱり見当がかない。
 編集者というものは執筆者のこまるような題ばかりもってくるもんだナ。まるで、おもしろがって、こまらせてやろうとするかのようだ。
 なんとも、こまってね、お見込みどおりだ……そこで、何となく、英文学者の君のところへ話をききにきたというわけだ。ひとつ、現代イギリスの文芸思潮とでもいうところを一席拝聴したいんだ」
 「よせやい。ぼくは英文学者ではないよ。君も先刻ご承知のように、語学の教師であって、英文学者ではない。文学なんて知らなくたって語学教師はつとまるからね。英文学のことだの、文学思潮みたいなことをききたければ、だれか、英文学者を紹介しよう。 ぼくはごめんだ」
 「そう、そっけなくいうもんじゃない。知っている範囲でいいんだ。そんなにむつかしいことじゃあるまい」
 「ごあいさつだけ。どういう意味だね。ほんとは非常にむつかしいという意味かな」
 「むつかしいからききにきたんだ。きいているうちに、何とかうまく話ができればいいという下心。だが、そう切り口上になってはいけない。シカツメらしく話すと肩がこる話だから、まあ、そこを肩のこらぬように何となく話そうというわけさ」
 「ふんふん……では、知っている範囲で一席うかがうとするか。美術思潮周辺か・・・・・・そうそう、そうなると、丁度いいのがいるじゃないか。 ハーバート・リードなんかどうだろうね。これなら、君も読んでいるだろうし、君の方が関心が深いかもしれないな・・・・・・それに、もう少し古いところで、ロジャー・フライ(註1)。もっと古くなると、ラスキン(注2)、ペーター(注3)……」
 「まあ、一九世紀はいいとしておこう。リードだがね……あれはどうも気にいらんところがあるね。少くとも美術論に関しては」
 「どんなところが気にいらんのかね」
 「簡単にいえば、こうだな……あれはヴォリンガーとT・E・ヒュームの影響が強いんだろう。自分でもそういっているがね。……しかし、影響が強いというより、この二人のやった成果というか、結果というか、とにかく組み立てたものをうまく利用して、自分の整理にあてはめた観があるね、美術論に関しては。ヒュームのことは、あとで君にきくとして、ヴォリンガーは……例の本、君もってないか?」
 「『抽象と感情移入』かね……うん、どこか戸棚のすみに入っているはずだ、さがして見よう……あった、あった、ほこりまみれだ。ちょっと待てよ、はたいてみるから」
 「どれ、かしてくれたまへ、どこだったっけな、うまいことをいっていたのは……ふん、ここだ−―『感情移入衝動が入間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係を条件としているのに反して、抽象衝動は外界の現象に惹起される人間の大きな内的不安から生れた結果である……」
 ここのところをリードはうまいこと利用しているんだよ。人間の能力−―態度−―の一方の極に、感情移入衝動から生れる生命的有機的芸術と彼のよぶものをおき、もう一方の極に、抽象衝動から生れる抽象芸術をおいて、この二つの極の間に、いろいろな芸術様式を整理づける。歴史的に見て、ある時代は生命的有機的芸術を生む衝動がつよく、ある時代は抽象芸術を生む衝動がつよく、ある時代には七分三分だの、五分五分だの……それに、個人差もそこにつけられるし……というわけで、うまく料理している。
 だがねえ、こううまく整理のつくわけはないじゃあないか?現代美術でいえばだね、ヘンリ・ムア、ニコルソン、サザランドなど、みんなうまく整理されて、認められちまうという次第さ。」
 「まるで、カトリックだね。すべてのものをあるべき位置に設定して、すべてを認めるとなると……」
 「それを個人でやってしまおうというんだからすさまじい。アナーキズム(無政府主義)にならざるをえないわけさ。そこまでの責任は個人はとてもひきうけられないからな」
 「整理づけることが悪いというわけではないのだね」
 「整理づける情熱が感じられないのだよ。どうしても、そう整理づけなければ、自分の存在があやうくなるからやるのだという必然性が感じられない。リードのいっていることは、一応、まちがってはいないのだ。正しいといえば正しいのだ。が、書いていることとりード自身との関係に正しさが見出せない。いってみれば、リードという実体が感じられないのさ」
 「批評を効果だと考えているんだろう。現代美術を一般に認承させるための効果……その効果はなかなかのものではないのかね」
 「解説者とすれば、それでいいんだろうね。しかし、批評は効果かね?自分でその効果を実証しようとするところに、個人的な責任というものがなくなってしまっている」
 「なるほど、それはそうだ。実はぼくもそんな不満を感じている。リードだけではなく、歴史家や社会学者の多くの人に対して……というのは、歴史家はいわゆる歴史的事実をならべ、そのとびとびにぬけたところを穴うめするアナウメクイズといっては少々ひどいが、まあ、いってみれば、自分の質料を失うことで、どんな時代にもとんでゆけるんだ。それに、社会学者の多くは、責任を社会のシクミにあずけて、個人の責任をとわないからね……。
 ところで、どうかな、ぼくはヴォリンガーに対しても不満はあるよ。一例をあげると、そう、君がいま読んだところだがね、――「感情移入衝動が人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係を条件としている」というんだが、いったい、そんな時代があったためしがあるかね。進化論的にいったって、こいつはムリだ。外界に適応してしまうと進化はとまるという説を認めてもいいだろう。人間というものは、いつだって、適応しなかったんではないかね、それが進化であったかどうかは分らないが。そうでなければ芸術なんて成立しないだろうよ」
 「一般論からいえばそうだ。が、ヴォリンガー個人の問題になると、危機の意識があったわけだろう。自分の立っているヨーロッパの地盤があぶない、という危機の意識、そいつが、ヴォリンガーをもたせているのだと思うね」
 「たしかに、ヴォリンガーの情熱は感じるね。それだから、その危機意識が「西欧の没落」に通じるような危機意識が――ナチスあたりに利用されたし、ロマンティシズムとまちがえられたんだな……その点、きわめてあぶないもんだが、ナチスなんてやつは利用できるものは何でも利用するからね。ニーチェだって利用されたし……しかし、そんなことまで、ヴォリンガー自身は責任は負えまい」
 「そこまで個人の責任を追求すると、個人の責任ということがアイマイになるからね。それでは、個人の責任がないのと同じことになる。シュペングラー(註4)の「西欧の没落』はだいぶいい加減なものだな?文明の周期率みたいなものをつくって.……あれは遊びだろうよ。それに、没落するなら一緒に没落するより仕方がない、というような覚悟がないね」
 「宿命論じみるね」
 「宿命論といえば宿命論だがね。しかし、宿命論が豊かになるためには、過去を現在でうけとめて、それを未来には及ぼさぬと決意する必要がある、と誰やらもいっていたではないか……アラン(註5)かな?」
 「そういう宿命論だと、オルテガ(註6)にも似ているな、与えられた運命を課せられたもの、自分の解決すべきものとしてうけとる、あるいは、そういう具合に変様してうけとる」
 「だいたい、イギリスの現代美術家は、そんなところから出発しているのではないかね、ムアにしても、サザランドにしても、ニコルソンにしても……
 ところで、話をもとにかえして、T・E・ヒュームというのはどういう人物なのかね、最近名前は高いが、実際にはあまりよく分らないのでききたいのだが」
 「実は、ぼくもそんなによくは知らないのだ。しかし、こんなことらしい。
 ヒュームも二〇世紀の恐怖感をもっているし、そこから出発しているらしいが、どうも、古い価値を葬り去ることで、新しい価値が芽ばえるなどという楽天的な見通しはつけてないようだね。見透しに希望をもちたいとは思うのだろうが、そうは問屋がおろさないと覚悟をきめてしまったようなところがある。もっとも、希望をもちたいということと、希望をもつこととは、区別できないかもしれないが」
 「たとえば、どんなことをいっている?」
 「そうだな、……たとえばこんな言葉があったっけ――『世界の美しさは滓渣から成っている。人間は塵にかえる。世界の顔は原始の燃えがらにかえる』―― 外界と自我とのどうしようもない亀裂というやつさ。絶対の孤独――歌にもならぬ孤独さ。だからね、ヴォリンガーのいう「人間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な親和関係』なんてものは認めない。ルネサンス以来の、いわゆるヒューマニズムの生命的有機的芸術を目の敵にするね。神とは断絶していても、やはり神を考えぬわけにはいかぬ、というより、むしろ、断絶しているからこそ、神を考えねばいられぬという態度だろう。だから、有機的生命的芸術といわれるものは『非人間的なものに属する完全性を人間関係に導入し、人間関係の明晰な輪廓をぼやかし、こうして、パーソナリティなどという私生児的概念を生みおとし、ロマシティシズムなんてシロモノをみちびきだしたのだ」という具合」
 「ロマンティシズムには絶対反対というわけか」
 「それはそうだろう。ロマンティシストは孤独をうたうことで、孤独と和解するからね。歌にもならぬ孤独というやつはいリアリズムの底をみきわめてしまったもののとる態度だろう」
 「そういえば、ルネサンス以来の芸術やユマニスムも、実はそんなところから生れてくるように思うんだが、しかし、それはあとまわしにして、ヒュームの提唱したイマジズムというのは?」
 「写象派とでもいうのかね。ロマンティシズムの末期的現象、感情の方がイメージや言葉をうわまわってしまっているような状況に対して、イメージをもっとも直截な言葉で具体的に表現しようとするんだろう。個性なんてものをものほしげに探さずに、言葉を、そして、自分を、事物の秩序にまかせてしまい、正確なイメージの中に自我を捨象しようというのだろうね」
 「なるほど、リードもこんなことをいっていたな――詩は詩人から独立するもので、詩はそれ自体の世界をかたちづくるべく解放されてきた、ヒュームはこういう世界が粘土のように彫塑的なイメージで構築されていることを明証した云々……」
 「そうそう。このイマジズムはかなり大きな影響を与えたらしいね。D・H・ロレンスやT・S・エリオット(註7)、それにアメリカのエズラ・パウンド(註8)なども共鳴したらしい。外界と自我との亀裂といえば、ロレンスほどこれを猛烈に感じた男はあまりないのだろうし、神と断絶しているからこそ、神を考えるといえば、エリオットの言葉とそっくりだね」
 「もう忘れてしまったが、どこかで、ロレンスがこんなことをいってなかったか――世界にヒビが入り、破裂してしまった。しかし、それは外部的な、混沌の中にある別の問題だ。われわれの魂の中に、ある犯すべからざる整然とした秩序がある……」
 「それと、ほんのわずかばかりニュアンスがちがうかもしれないが、エリオットの、例の「静かなる点』、『非連続の連続』が共通するんだろうね。……そこで一つ、問題があるのだ。いいかい、いまの抽象絵画と普通いわれるもの、これがいったい抽象衝動から生れたものかどうかということなのだ。というのは、ロレンスのいう、静かなる点、それを外部から解放するのが抽象衝動ではあるまいか、ということなのだ」
 「もう少し説明したまえ」
 「つまり、イギリス人のもつ克明な写実、この場合、イマジズムといってもいいが、自分の存在を事物の秩序にしたがわせ、分散させ、そのことを通して、逆に、精神の場を明確に存在させようとする態度――この方が抽象衝動にちかいものではないのかな。
 つまり、リードのいう言葉を逆用すれば、詩が詩人から独立すると同時に、まさに、そのことによって、詩人の精神は詩からも事物からも独立し、抽象的な場に存在する、といえないか。
むろん、対象を、あるいはイメージを明確に描くなんてことは、厳密にいってできはしないさ。見える通りに描くなどということは絶対にできないからね。まあ、見えるように描く、といえばいいが、それとも、見えると思っているように描くしかないのだ。相手は生きものだからね。
 だが、そこに求められるのが正確さと精密さなのだ。ヒュームの言葉をかりれば、「からからにかわいた』『かたいイメージ』というやつさ。そいつにつきあおうという態度といったらいいかナ?こういうイメージは自我と他我とを、内部と外部とを結びつける唯一の接合点だろう。かたいイメージをつくらずに、外部と和解し、自分の感情と和解してしまうのがロマン主義末期の症状だとすれば、これに相反するものだし、その方が抽象的ではないかということなんだ。少くとも様式上では知らぬこと、精神の上では、……つまり、自分の存在ということに関しては……
 リードの整理の仕方には反対だと君もいったが、ぼくの不満なのは、リードが、こういう意味での抽象衝動と、様式上の抽象形態とをあんまりうまい具合に結びつけて図式をつくってしまったことなんだ」

   サザランド=絶対の孤独
 「リードのことはそのくらいでいいだろう。ところで、英文学者の見たところ、サザランドはどう思うかね。いまの話と関連して」
 「もう、その名が出てくるころだと思っていたよ。だが、まず君の方から話したまえ」
 「克明にイメージをかく、という点からいえば、手芸的ともいえるくらい克明だし、中世のミニアチュア (細密画)やタペストリー (綴織)にも通じるものかもしれない。もっとも、手工業にちかいといえば、モリス(註9)の唱導した運動や、それより前のブレイク(註10)あたりの版画に直接結びつき、その系譜に尾ひいているのだろう。手法だけでなく、精神の系譜においても……
 一説に、こういう考えがあるçヨーロッパ大陸の絵画は、壁画などの建築に附属した大画面から発展し、その系統をひいているのに対して、イギリスの絵画はミニアチュアやマニュスクリブト(手写本)の伝統をひいている――と。しかし、実際は、というのは、現在の作家の主体の問題からすれば、そんな絵画史上の問題よりも、君のいう、正確さと精密さとを求める心があんな絵をかかせる衝動になるといった方がただしそうだね」
 「それについて、こういう文章がある。 読んで見るからききたまえ――
 『サザランドは田舎の風景や田園の道ばたにある生物や石ころに親しい感情をもって――というより、ほとんどアニミズム(精霊崇拝)にちかい感情をもって接し、その形態に魅惑される。自然の細部は画家の魂によって受けとめられるのではなく、いわば、画家は事物の中にもぐりこんで、絵画的ヴィジョンで蔽われていた外形から、事物の「魂」をほりおこす。無限に延長する空間の中で、こうして、事物のかたちを提示することが、そのまま空間の諸関係をとりとめることだった。』
 『〈心はその感情のすべてを直接に表現しうるものではない。人は自分のなしうるかぎりのことを、絵具とイメージを通して、語る。どうあったところで、画家は一種の吸取紙みたいなものだ。世界の一部分だ。だから、画家は、二〇世紀文明の外部のカオスの意義を吸いあげざるをえない〉とサザランドはいう……』(藝術新潮31年8月号)」
 「ちょっと待ってくれ、どこかで読んだ文章だぞ」
 「しっかりしろよ、二年ほど前に、君のかいた文章だ」
 「いや、人が悪い。 それにしてもあきれたね。それを長々と読んできかせようというのかね」
 「いや、君の引用しているサザランドの言葉だけを、 それでは、ちょっと読んでみよう。
 〈精神は貯蔵所だ。記憶は現在の視覚上の印象と融和する。〉
 〈われわれは、自分の性向に従って、自然に平行して仕事をすることが必要だ。あらゆる人間の努力は神の法にはとどかない。 神の法は無条件の崇敬を強要するのだ。が、われわれは、もっと細心な探求と観察を通して、 不可視の秩序に平行して仕事をなしうるだろうし、たぶん、その秩序の反映をとらえることもできよう。〉
 ロレンスが「魂の中に、ある整然たる秩序」といったところを、サザランドは「秩序の反映」といっている。この辺がもっと現代的になっているのかもしれない。そこで、こういう言葉も出てくるんだな、――〈未知のものは既知のものと全く同じように真であり、未知の状態において提出されなければならぬ。〉 それから、これだ――〈エスキロスが『塵は泥の渇した妹だ』というとき、われわれは塵というものについて、何か非常に直截で正確なものを知る。塵と泥とを擬人化することで、われわれは両方のエッセンスを理解する。〉たしかに、君のいうサザランドの『おきかえ』はこの辺からはじまるのだろうし、この言葉など、さっきのヒュームの言葉の発展のようにも思えるじゃないか。
 それに、「神の法」というやつ。君の文章を引用すると、こうなる――『神の法を認めるかぎり、個々の存在は横だけのつながりだけをもつのではなく、すべて、神の法に、いわばたてにつながるという状態で、全体が構成される。たとえば、政治という相対的機構よりも、神あるいは神の法に信従しようとするとき 〈宇宙に対する創造的コンミュニオン(霊交)〉ということがはじまるらしい。少くともサザランドは、そんな空間関係と、そして時間を、設定しようと希求しているようだ』
 ところで、君はエリオットを読んだことがあるか?」
 「いや、いっこうに、不勉強をはじるね」
 「サザランドのこんな考え方――君のいうことがまちがっていなかったらの話だが――その考えは、ちょっとエリオットに似ている。
 君のつねづねいう通り、現在では、客体が不動であることも、主体が不動であることも、ありえなくなったし、人間にしても、事物にしても、そのままでは存在しえなくなったんだろう。オルテガのいう通り、人間は存在しようとすれば、別の存在者のなかに存在することを余儀なくされている……人間はさしあたって、一つの可能性――他の存在者のなかに存在しうるかもしれぬ可能性にすぎない。〉ということは、逆にいえば、人間は四周の状況の中に、受動的におかれているのではないし、同時に、別の存在者を受動的におかれたままにしてはおかないということだろうね。つまり、そこから先に、人間の意志のはたらく場があるということだろう。
 ここで、個性なんて、ものほしげなものをなくしてしまおうとするんだろう。
 エリオットは、それをこんな風にいっている、――〈詩人は現在の自己を自分よりも価値あるものに、たえずゆだねてゆく……芸術家の進歩は不断の自己犠牲であり、たえず個性を滅却してゆくことだ……〉」
 「ふん、ふん、やっと話が『美術思潮周辺』の題にちかくなってきたよ。……それに、ふだん、君のいう抽象絵画への不満も、だんだん分りかけてきたよ。つまり、簡単にいえばこうなんだろう――最近の非具象派の連中のやっていることは、自分の存在を自分でたしかめようとして、いじけてるというわけだな。自分の存在なんかは、自分より価値あるもの――自分より大きなものにまかせるがいいのだ。自分で自分を規制する、その証拠がほしいと、ものほしげだから、作家が作品から独立しない。あるいは、作品が作者から独立しない。作者の精神が抽象できない、というわけだな」
 「まあ、そうだな、逆にいえば、もっと外界の事物につきあわなければダメだということさ」
 「そこで、さっきの話だが、ルネサンス以後ユマニスムが外界とつきあうのは、なにも、自分と他の存在者との間に『親和関係』があったからではないと思うね。そいつを見まちがえたところに、そもそものはじめから、ヨーロッパ合理主義のゆきづまりがあったんだな。ルネサンスの芸術だって、権謀術数の中をたえてきたのだからね。ユマニストのあの顔は、絶対の孤独を知った顔だね。親和関係どころか、和解もしない。それがセザンスにいたってはっきり出てくるのだろう。あの、死とすら和解しないものすごさ」

   ムア=下腹部の激痛からものへの執着
 「それが二〇世紀の問題だろうね。ロレンスの妻のフリーダのいうには、ロレンスはいつも死をみつめていた詩人だった。というのは、死と和解しなかったことさ。死というヤツは変に和解の感情をなぐさめるもんだからね。生きるということは、きっと、どこかにムリがあるんだろうけれど、そのムリをおしきって、死と和解しないということは大変なことだな」
 ロレンスといえば、どこかでピカソのことをいってなかったかな」
 「うん……しかし……、 この小説(「恋する女たち」、これはどうしても死と和解しまいという情熱が書かせたような小説だが、この中に、うん、こんなところがある――
 「あの彫刻をどう思うね?君の意見が知りたいんだ』と
ジェラルドがいう。
   バーキンは、まるで白い幽霊のように、木彫りの土人
  の女の前に歩みを移した。腹をつき出した裸像は、胸の
  前で帯の両端をつかみ、奇妙な、しがみつくような
  恰好でうずくまっている。
   『芸術品だね』とバーキン。
   『とても美しい、じつに美しい』 ロシア人がつぶ
  やいた。
   みんな彫像の傍へよってきた。 ジェラルドは見物
  の方を眺める。金色の肌をした火草のようなロシア人、
  背が高くて憂欝そうで頽廃的な美しさをもっている
  ハリディ、そして、バーキンはぼんやりした、あい
  まいな、捉えどころのない顔つきで、近々と木彫り
  の女を見つめている。ジェラルドは妙なしたり顔で、
  彫像の方を見あげた。心臓が絞めつけられるような
  気がした。
   ジェラルドは魂をゆりうごかされるようななまなま
  しい想いで、この彫像を眺めている。土人の女の前に
  突きだした灰色の顔、それは肉体的な緊張のため、暗い、
  緊張した、うつろな表情を浮べている。恐しい顔だ、
  空虚で、とげとげしく、宙に浮いてしまって、もはや完
  全な無意味に帰している。下腹部の激痛をじっとたえて
  いるのだ……
   『どうして芸術品だい?』問いかえしたジェラルドの
  心は一種の衝撃をうけ、いらだっていた。
   『完璧な真実を伝えているからさ』とバーキンはいった。
   『きみがどういう感じをうけとろうと、こいつはこの
  状態における完全な真実を伝えているよ」
   『それにしても、高級な芸術品とはいえないだろう」
  ジェラルドはさらに追求した。
   『高級!この彫刻の背後には、何世紀もの、何百世紀
  もの発展のあとがまっすぐ尾をひいているんだ。これは
  文化の恐るべき最高段階に位する、じつに必然的な産物
  なんだよ』
   『どんな文化の?』
   『官能に基く純粋な文化さ。肉体の意識から、究極の
  肉体的自覚から生れる、知性とは無縁の、完全に
  官能的な文化だよ。 こいつはあくまで官能的なる
  がゆえに、決定的な、至高のものなのだ」
 ピカソより、この話の方がおもしろいと思うが、どうかな。これでロレンスはメキシコのプリミティヴ芸術が好きになって、移住してしまう」
 「いや、いまの文章をきいていて、ヘンリ・ムアを思い出したよ。ムアは、プリミティヴ芸術という言葉は、未開芸術ということを連想させていけないといっている。これはこれで完璧な文化の所産だというわけだな。
ムアがメキシコのプリミティヴ芸術、エジプト古王朝期の遺品、ロマネスク芸術などにひかれるのも、まちがえられた合理主義に対する挑戦でもある」
 「しかし、ぼくは、この辺になると、一応なるほどと思うのだが、どうもよく分らなくなる。ちょっとミスティシズム(神秘主義)だな」
 「それは仕方がない。そもそも、ルネサンスのはじめにまちがいあったんだからな。いやね、むしろ、生きることに、どだいムリがあるんだからね。冗談はさておき、それより 「美術思潮周辺』にもどって、ムアは?」
 「おもしろいね」
 「どこが?」
 「いまの文脈に関係していえば、自分とは別の事物の存在するおそろしさを知っているところから、あの彫刻がはじまっているということかな?こういったらどうかな、――人間は対象となる事物との距離を測定し、かたちを変え、名をつけると、やっと安心するものらしいんだが、事物はそう簡単に人間の手におえるものではない、という自覚みたいなものがあるね、ムアには。距離がアイマイになれば、かたちは既成の概念をこえてしまうし、事物の生命は名称をこえてしまう。つまり、対象そのものに生命を見るより仕方がなくなるんだろう。事物に即して精神を開放するんだろう。『世界の関節がはずれてしまった』以上、そうする以外に手はないのかな、少くとも芸術家というヤツは」
 「事物に即する、といへばニコルソンもそうだね、あんな抽象的な絵をかいているが。職人的といえるくらい即物的なところがある」
 「それがイギリス一般の体質かもしれないね、大きなことをいうようだが」
 「たぶん、抽象衝動というやつは、何か物をみつけると、それが日常の道具であれ、石ころであれ、それにしがみつくところがあるのだな。それが、人間の無意識の叡知のあらわれかもしれない」
 「イギリス人がものからはなれるのをきらうのもそのためだろう。しっこいくらいものに執着するね。われわれからみると怪奇なくらいだ。あの、写実の克明さはグロテスクで、ときにはブルータル(獣的)でさえある。
ものに執着するといえば、たとえば、こんな具合だ、――いまのロレンスの同じ小説で、主人公がガラクタ市で、ジェン・オーステインの時代の、こわれかかった椅子をみつけて感慨にふけるところがあったな。あのころは、何でもない椅子一つ作るにも、人間の肉体の知っている無意識の領域がちゃんとはたらいて、完璧なものにしている。 いまでは、ものをつくるという根本的な動きを失って、みんなヴィジョンになっているというのだ。
 たしかに、ぼくたちは、あたえられたヴィジョンでしか、ものを見ていないというところがあるな、いや、それが大部分だ。ものとして存在するものをつくらずに、ただ次の瞬間には消えてゆくだけの役割しかない道具をつくったり、ものを記号で、万人共通みたいな記号で見てしまったり……
そんなときに、あらためて、もう一度、ものをもってくる、記号でないものを。物そのものに生命力を見ようとする……」
「話がいささか悲劇じみてきたな。だが、ムアもこんなことをいっているね――自分は石からかたちをつくりだすのではない、石の中にすでに存在していたかたちをほりおこすだけだ、と。もっとも、こういう言葉は立派な彫刻家はほとんど例外なくいっているがね。が、まあ、石の中にすでにかたちが存在していると見ること、つまり、石そのものの生命を見ることと、それを存在させようとする人

   ニコルソンの空間
 「図式的にいえば、そういうわけあいか。ところで、ニコルソンの即物性か具象性だが、いつか君が「みづゑ』(六〇〇号)に訳していたのがあったな……そう、これ、ここのところ……
 『ベン・ニコルソンの細い、波動する線は、現象的な世界には全然関係ないものであるが、こういう作品の場合ですら、石の上を水が流れるような滑らかさを感じとれるようだし、冷静な透明な色彩は、如何なる再現芸術にも見られないほど雄弁に、 コンウォールの空と水と、灰色の岩と、そして色さびた家を思い出させる。彼のこの精緻な芸術は、線と色との相関関係による神秘的な効果のみをつくっているのだが、実際、この芸術からウィリー・バーンズグレイアムは、海岸の浸蝕の凹状の精密な研究図を描く方法を学んだのである……』(ロバート・メルヴィル)
おもしろい逸話だな。」
 「うん、うん、しかし、ニコルソンの場合は、いままで話してきたような意味での具象性――物そのものにもぐりこむくらいの意志で、もう一度あらためて物の生命を見出した具象性――そんなすごさはないね。清潔だろう、いや、清潔すぎるだろう。サザランドの、あの肉感的な無気味な妖気――あの緑など、俗といえばはなはだ俗な、ドロドロしたものなのだろうが、そいつをとにかくおさえつけて画面を成立させてしまう、そこから生れるかのような、あんな妖気はない、……しかし、忍従といえば忍従な、あの清潔さの生れた、空間についての考え方は、やはり一つのものだろうな」
 「どういう考え方?」
 「たとえば、ニコルソンが若いころ、街のショーウィンドウを見たときに、ウィンドウの中にあるもの、つまり、目の前に見える対象と、自分の背後にあって自分では見えぬ対象と、その中間にある自分のすがたが、一枚のガラスを媒体として、二次元の平面に同時的にうつされ、どれが前、どれが後か分らなくなったのに気づいたというんだ。むろん、これだけのことなら、別段どうということはない。ガラスの面に画面を再現描写したというだけのことだからね。が、このことから、絵画空間が生活空間にまでひろげられるようになったようだね。
 むろん、いまでは、こんな空間の諸関係は常識化されてしまったと思えるし、それだから、あらためて、物にしがみつこうとするんだろうがね。」

   ふたたびイギリスの伝統=物の怪奇性と克明さ
 「なるほど……ところで、あらためて発明された、物の怪奇性と克明さということだがね、……さっき、一九世紀の美術思潮は、はしょってしまったが、ちょっと気になることがあるんだ。
ペーターが著書『ルネッサンス』の『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドが怪奇と美とを物に即して追求すると同時に、魔術師のように抽象的な理論を追求したといっているんだが、その中でミニアチュアにふれて、こう書いている、
 「フランドルの織工に織らせるタペストリの下絵に「楽園」を描いた。いまでは失われてしまったが、それは、フィレンツェ風の古いミニアチュアの完成されたものであり、人類最初の男と女とが立っている周囲には、樹々には一枚一枚の葉が、草には一つ一つの花が丹念にかかれてあった……』
 こういったときに、ベーターはレオナルドをだしにして、イギリスのミニアチュアのことをいっていると思えないか?」
 「あるいは、そうかもしれない。ベーターの影響は案外根強いようだからね。サザランドの細密画に近い様式やスタンリー・スペンサーの魔術的リアリズムも、そんな伝統と無縁ではなさそうだね」
 「が、イギリスの伝統なんてことになると、話がかたくるしくなるね。それに、こんがらがってきて、めんどうだな。それでなくても、もう、ずいぶん、しちめんどうなことをしゃべってきたから、もうやめようや」
 「それもそうだ。しかし、話が「美術思潮周辺」にやっと近づいたところで、時間がなくなってしまったな。これでは、周辺の、また周辺みたいだ。だが、いまのところ仕方がないな。この次の機会があれば、またもっと考えるとして、これはこれでかんべんしてもらおう。」
 「ぼくのところへ、ききにきたのがまちがいのもとさ。今度は英文学者のところへききにゆきたまえ」
(美術評論家)

註1 ロジャー・エリオット・フライ(一八六六一九三四)=イギリスの美術評論家、画家。立体派の理論を展開した
註2 ジョン・ラスキン(一八一九一一九〇〇)イギリスの批評家。 ターナーの水彩画を支持し、「近代画家論」を著す。
註3 ウォルター・ペーター(一八三九十九四)=イギリスの批評家。 唯美的哲学を展開。主著ー「ルネサンス」「享楽主義者メアリアス」等
註4 オスワルト・シュペングラー(一八八〇一九三六)=ドイツの思想家。主著「西欧の没落」で、人類の諸文化はやがて死滅するものであり、キリスト教文明は既に終末に近いと予言して当時反響をよんだ
註5 エミール・オーギュスト・アラン(一八六八一一九五一) フランスの哲学者、評論家。主著「精神と情熱に関する八十一章」 「芸術論集」「幸福論」等
註6 オルテガ・イ・ガセト(一八八三一九五五)=スペインの文化哲学者。マドリード大学形而上学教授。主著「脊髄なきスペイン」「現代の課題」等
註7 トーマス・スターン・エリオット(一八八八ー)=イギリスの詩人、批評家。評論集 「ランスロット・アンドルーズのために」の序文で、文学的には古典主義者、政治的には王政主義者、宗教的には英国教徒であることを宣言した。 主著―「荒地」「聖灰水曜日」「カクテルパーティー」等。一九四八年ノーベル賞を受けた
註8 エズラ・パウンド(一八八五)=アメリカの詩人、批評家、 イマジスム、渦巻派の主導者として活躍、T・S・エリオット、オーデンなどを刺激した
註9 ウイリアム・モリス(一八三四一九六) =イギリスの詩人、工芸美術家
註10 ウイリアム・ブレイク(一七五七一八二七)=イギリスの詩人、画家
註11 エスキロス(或いはアイスキュロス)=ギリシアの三大悲劇詩人の最初の人

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