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確証の旅─レオナルド・ダ・ヴィンチを巡って(2)

芸術新潮

 一九七〇年夏、ヴェネツィアからミラノに飛んだ。猛暑もいいところだった。暑さだけならとにかく、湿気と空気のよごれは、人にもきき、自分でも予想していたものの、その予想をはるかに上まわった。それでもドゥオモのあたりは雀落の炎天下に群衆の多いこと、ぼくは自分のことをたなにあげて、あきれかえった。東京のむし暑さから、直接ここに来ても、その不快指数は相当なものだろうと思った。
 この年の夏、ぼくの滞欧中、異常な気候だった。それも、ぼくが、どこかに滞在しているときに、まるで、待ちかまえているかのように異常になる、と、会う人の多くがいう。たとえば、寒いバリから、ローマについたとき、わざわざ空港に迎えに来てくれた日本文化会館の井関氏は、「昨日からローマが急に暑くなりましてね、ちょっと困りました。」という。宮崎同館館長の夫人や井関夫人は、つい先だって、カラカラ浴場の「アイーダ」をききにいって、寒くて、ふるえましたと口をそろえていう。(御承知のように、カラカラ浴場は夏の間午後九時頃からオペラを公演する。) ぼくが六一年夏ローマに滞在した折にも夜は涼しかった。
 そのときその場に居あわせないと、気候のことはなんともいえぬ、と知っていたが、ミラノだけは、猛暑にちがいないと分っていたので、ぼくとしては、めずらしく、一泊だけですませることにした。ミラノで見るものは多いにしても、その年は、ミラノ城内の博物館にあるミケランジェロの最晩年のピエタだけ見ればいいし、時間があれば、サンタ・マリア・デレ・グラツィエのレオナルドの「最後の晩餐」の補修がなったというので、そちらにまわれれば、それ以上はのぞまないことにした。
 一泊というのも、ぼくにとっては、少なくともいままでのところ、トランジェット以外、唯一の例外である。旅行する場合、小さな都市でも滞在するとなれば、ぼくは最低四泊、やむをえぬときは三泊ということにしている。

   最後の晩餐
 ミラノのホテルについたのは午後を少しまわったころなので、二時間ほど室で休み、軽い昼食をとってから地図をたよりに、ミラノ城にまず出かけた。なま半可な時間冷房のきいた部屋にいたせいか、城の入口を真正面に見る大きな円形のピアッツァに出たときは、汗びっしょりになっていた。このピアッツァにそって半円をまわり、大きな城の奥にあるはずの博物館にまで行くのか、と思うと、耳までつーんとしてくる気になった。が、いくら作品を見るにはタイミングがいるといったところで、ミケランジェロのこの作品だけは見ようと思ってやってきた以上、とにもかくにも、そこまでは行きたい。
 やっとの思いで博物館にたどりつき、できるかぎりのはや足で、他のものはまったく見ないで、最も奥のビエタのところまでいった。ピエタのすばらしさか、建物の構造のせいか、ここでは暑さを忘れた。人もあまり来ない。・・・・・・が、これは、ミケランジェロをやがて書くつもりだから、これ以上は、いまはいうまい。
 城を出てから、
「どうだい、レオナルドの『最後の晩餐』まで歩いて行くか?」とぼくは姪にいった。姪にいったのは口実で、実はぼく自身に問うたのである。
「ええ、見たいわ」間髪をいれず、姪は答える。
 ピアッツァをよくよく見ても、空のタクシーがいない。やむをえず、また地図をたよりに、サンタ・マリア・デレ・グラツィエまで歩いていった。
 ここは、ミケランジェロのピエタの前とちがって、観光バスまでつらなり、相当の人ごみである。もちろん、建て物自体が第二次大戦の戦禍でさんざん破壊され、ほとんど応急にといっていいくらい、新しくたてなおされたかのように、なんとなくそぐわない建物である。正面の壁一杯に「最後の晩餐」がある。この作品が修理されたために、新築された建物みたいに思えた。
「方々いたんでいるし、コナッポイですよ。」と前々から聞いていたせいか、むしろ、逆に、ぼくには色のおいてある場所は少し明快すぎるように見えた。ひょっとするとカンカン照りのためかもしれない。フレスコのミーディアムに油彩を用いているためかもしれない。
 第二次大戦の砲火で、メチャメチャといっていいくらこわれ、残った部分をできるだけ原型のところにおき、修理のできない多くの部分はタイシャ色のシックイだけが塗ってある。
 そこまではそれでいい。ぼくは未完成の作品や一度完成された作品が毀れている状態で見るのは嫌いではない。が、この作品の修理は、全体として見ると、ぼくとしては、決していいとは思えなかった。補修されすぎているのではないか?破壊される以前の複製で見るかぎり、たしかにコナッポイようだし、もっと暗く、色のハバも狭い。その複製から想像するイメージがあるせいか、色の置かれた部分は奇麗に仕上げられたかんじである。
もっとも、この作品ほどさまざまなことがいわれ、評価のまちまちな作品もめずらしいだろう。(レオナルドの作品で、さまざまな意見にとりまかれなかった作品は、ほとんど皆無といってもいいのだが。)
 もともと、イタリアに油彩が入ってから日もあさく、レオナルドは、油彩によるフレスコを、ここで実験しているはずである。物語はもちろん、構成、 姿態、衣裳、それによって暗示される魂など、もう、さまざまにいわれているから、ここでいう必要はあるまい。描かれたときは大傑作とたたえられたが、油彩によるフレスコのために、数年にして色が剥落しはじめた、といわれる。そのため、いろいろな方法で、爆撃で破壊されるまでこの作品を残す手がうたれたと伝わっている。
レオナルドの特徴の一つ、というより、もっとも特徴的なものは、無気味さ、不可解な謎のようなものだが、「最後の晩餐」には、これが見あたらない。おそらく、完成されてから数年後に、もう別の手が入ったからだと思われて仕方がない。
 ベイターの「ルネサンス史研究」によると、──
「レオナルドがわれわれを魅了し、あるいは半ばわれわれに反感をいだかせるのは、何かある不可解さ、つまり、偉大な人間に普通認められる以上の、謎めいた要素をレオナルドがもっているからだ。彼の生涯には突如とした変化が多く、また時おり、まったく仕事をしなくなるか、あるいは自分の仕事の本領を離れたことをする。そして、不可思議な運命によって、かつては彼の一般的な名声の根拠となっていた作品は、たとえば『アンギリアの戦』のように早くから消失したか、あるいは『最後の晩餐』のように彼より劣った画家たちとの、どこまでが彼の手に成ったものか見分けがつきがたい合作なのである・・・・・・」
 十九世紀半ば過ぎにかかれたベイターのレオナルド論は、もっともすぐれたもの──少なくともその本質に迫る上で、もっともすぐれた労作の一つだと思われるが、ぼくのレオナルドに関する考え方と細い点で、少しばかりちがうところがある。「彼の生涯には突如とした変化が多く、また時おりまったく仕事をしなくなるか、あるいは、自分の仕事の本領を離れたことをする。」
その通りであるが、同時に、そうしなければならなかったのが、レオナルドの宿命のようだった。
メジチ家の了解あるいは推奨によって、ロドリコ・スフォルツァに送った自己推薦状によると、十個の能力のうち、一から九までは都市計画、軍事技術、築城術などのエンジニアであって、最後の一つだけに画家としての能力をあげているという。
「彼の生涯には突如とした変化が多く」というのは、紙数があればのちにふれるが、そのときどきの覇者の下にあったし、「仕事をしなくなるか、自分の本領を離れたことをする」のは軍事計画にたずさわっていたか、あるいは、さまざまなノートを「疲れ切るまで」つけていたからだと、ぼくは推定する。

 おそらく、「最後の晩餐」をつくるとき、弟子たちの手が入ったことは、当然考えられる。だが、それだけならば、前号で述べた「イサベラ・デステ」と同様のことがいえるだろう。が、完成されて数年にしていたみ、のちのちまで、手が入った、とすれば、話は別である。メディオクラートの画家か、修理専門家が、構図以外は、ことに色彩は、すっかり、こわしてしまったと思われる。
 戦前の作品は見ていないので、正確なことはいえぬが、爆撃後の再建は、さらに悪くなっているように思われる。この辺は戦前と現状とを両方見ている人に訊ねて見たい気がしないでもない。
 修復するときは、現状をこれ以上はこわさぬ、という手間のかかる、むずかしい態度でのぞんでもらいたいのだが、これは最も厳格な態度と、その作品に対する愛情がなければできぬことなのだろう。アレッツォのピエロ・デラ・フランチェスカの「聖十字架物語」の修復が悪いときいて、ぼくは行かなかったことは、ピエロを述べたとき書いた。
 ただし、「最後の晩餐」は、高温高湿の、おそらく、もっとも悪い状態で見たのだから、ぼくのことで述べたことは必ずしも当っていないかもしれぬと思っていただきたい。
 が、ぼくは、近い例として、三月堂の弁財天や吉祥天をあげておきたい。もっとも、二十年近く、奈良には行っていないので、現状はどうなっているか知らないが、むざんに破損しているこの彫刻は、それだけに、かえっ不思議な美しさをもっている。作者が予想もしなかった思いがけぬ美しさである。

   「未完」の完
 ぼくはまた、すぐれた未完成の作品が好きである。外見上、未完成でいながら、実質的には完璧な作品というものが、超一流の作家にはかならずといっていいほど、あるものだ。おそらく、自分では絶対に到達できない遠い目標をめざしてのことだろう。そして、超一流の画家は、ある色を外見上ほんの一点でもつけたら、その色は消すわけにはいかぬものなのだ。外見上はほんの一点でも、画家にとっては、絶対に必然的な色なのだから。
これについて、話がとぶが、一つのエピソードがある。
 一九六一年夏、ロンドンにいた、ある午前中、ウェストミンスター・アベイを見て、外に出たら、見たことのある日本人が一所懸命写真を撮っている。故・名取洋之助氏だった。
 こちらから近よってゆくと、名取氏もぼくに気づいた。
「お仕事中ですね。」
「いや、これで午前中は終りです。」
 二人で傍のカフェーで茶をのんで雑談しているうち、
「お暇だったら、ぼくのホテルで昼食を御一緒したいが、いかがですか。」とぼくが誘うと、
「よろこんで。」
 というわけで、ぼくは久しぶりに日本語を話した。
 二、三日してから、名取氏から電話があり、
「お返しというわけではありませんが、夕食にお誘いしたいが、どうですか。」
 約束の時間にプルニエで食事をとった。
 この二つの機会のどちらだったか忘れたが、たぶん、話はつづいていたのだろう。
「ナショナル・ギャラリでは、どの絵がいいですか。」と名取氏はきく。
 ぼくは前述したノートにつけた名をあげたと思う。
「ぼくはミケランジェロの未完成の作品がいいですね。」
「なるほど、大作家の場合、未完成だからいいということは、ぼくにも分るつもりですが、しかし、ミケランジエロは、さまざまなことをしたけれど本質的には彫刻家でしょう。彫刻の未完成品にはぼくも感動します。」
 それからいろいろな話をしたが、当時名取氏はロマネスクにひかれていて、その話が多かった。ロマネスクとゴシックとはヨーロッパがヨーロッパとしてある文化圏を形成するのにどうしても必要な手順だったと思っていた──いまでも思っている──ぼくは興味深くきいた。この写真集はのちにまとまって本になっている。
「ところで、写真をとるとき、何をメドにしますか。」 一段落ついたところでぼくは訊ねた。
 名取氏は即座に、いろいろな食器のあるテーブルの両はしに手をのばし、
「このテーブルを写すとき、写真家に、中心はどこかをまずききます。即座にピンと感じとってくるものと、物さしで量るように考えとむものがいる。勘でその中心がわかるようでないと、ダメですね。もちろん、物さしではかった中心点とはちがいますが。」
「それでは、絵のデッサン──新しい意味のデッサンと同じですね。いや、新しいというより、デッサンの意義と。まずメドになる中心点を勘でとらえ、結局はその場にあるものが、みな、また中心点にかえる可能性がある。」
「そう、可能性だけがね。」

 写真家という人とほとんどまったくつきあいのないばくには、この話は大変興味があった。のちに大部なロマネスク写真集を送られ、名取氏のいったことが、そのまま、あらわれているのに感服した。その後間もなく同氏
は逝った。

 名取氏との話を思い出してかいたのは、レオナルドの作品の傑作は、ぼくの見たかぎり、「モナ・リザ」をふくめて、すべて未完成であり、その故に完璧であり、同時に、大変なデッサン力があり、協力者をその力の中に昇華してしまうからである。「イサベラ・デステ」についてこの辺のことはもういった。
 レオナルドのデッサン力をあげれば切りがないが、例えば、トリノのライラリにある一五一二年頃の作「自画像」のデッサン。・・・・・・実はぼくはこの作を複製でしか見ていないが、他の本物をいくつか見たのちでは、それほど間違った判断を犯すまい、と思う。目、鼻、唇、眉毛、それに、頭髪から髭にいたるまで、少しの狂いもない。
「外部によって内部を規制せよ」ということを知った画家の、晩年の技量はただものではない。晩年のこの姿はまったくリアルでありながらリアリズムなどというものではない。当時の画家、それも大画家が、神の似姿でかいたようでいながら、神の子になりうる可能性をもった顔である。ヴァサリの「レオナルド・ダ・ヴィンチ伝」は、この画家を他人の信仰と軽視して、哲学をキリスト教の上位においた大胆な思想家としてあげている。
 開かれた世界において、神の子になりうる可能性だけが残っていることを、一再ならず内外の混沌をへて知った人物なら、ヴァサリのようなメディオクラートの並の信仰を軽視し、はた目には、哲学をキリスト教の上位においた一種の異端的な大胆な思想家と見えたとしても、むしろ、当然かもしれない。が、たしかアランの言葉だったと思うが、芸術作品は人間の思索を深める上に、哲学以上のことをしてきたのである。

 話がとぶが、ヴァレリが「ドガ、ダンス、デッサン」だったと思うが、こんなエピソードを書いている。
 あるとき、ヴァレリが乗馬の名手に、騎乗してくれるよう頼んだところ、その名手は、長方形の馬場(馬場はたいてい長方形だ)を並み足で一周し、
「どうです、一歩もまちがえなかったでしょう。」
 なんでもないことのように思われるかもしれないが、子供のころから馬に乗っていたぼくには、驚異的なことである。最高級の高等馬術でまちがいなくやれる名手でなければ、こんなことは不可能なのだ。 乗っている自分のすべての部分が有機的につながり、それが馬をコントロールし、しかも馬場というかぎられた場を過不足なく把握する。その全体のメドになるのがデッサンなのである。もちろん乗馬のデッサン、ドガのデッサンとレオナルドを比較するのはおかしいが。
 なお、それよりも、ヴァレリには「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説」の翻訳があるではないかと、反撥をうけそうだが、学生時代に読んで分らずじまいで今日に及んでしまった。

 レオナルドには、閉じられた世界においては、すべてのものに対して蔑視感があったように思われるし、その裏はらとして、おそるべき執拗さと韜晦癖とがあるように思われる。十五世紀から十六紀はじめにかけて、そのときどきの覇者の下にいて、現実の政治の上では、まったく責任をとらぬかのようだ。冷酷な残虐さと優雅をもとめる数多い覇者たちの、めまぐるしい変遷の中で、軍事技術者、築城家、武器の科学者、そして、最後に、ほんのわずかな部分、画家として仕えている。
 こういう人物の場合、その作品に関する感銘などにはまったくふれず、確実な資料、さまざまな伝説、伝承をはっきり区別した上で、何の解釈もせずに、分るかぎりの伝記をたどってゆくと、それだけで膨大な史伝になると思われる。が、この混乱に混乱を重ねた時代に、とにかく、ある権威(‘‘‘‘)をもって生きた人物の足跡を忠実にたどることは、いまの日本人には──といっていいすぎなら、ぼくには不可能である。
 だいたい生誕とその状況が、ある韜晦癖を生む条件になっている。若年にしてフィレンツェのヴェロッキオの下で、ヴェロッキオの「キリストの洗礼」のはしに天使をかくことを許され、でき上ったとき、ヴェロッキオはすでにレオナルドに凌駕されているのを知り、顔をそむけた、といういい伝えがある。この作品はウッフィツィにあるが、作品として述べる余裕はない。が、そんな伝承がいいつたえられるようなおそらくはヴェロッキオに代表される信仰への蔑視感が、その気で見ると、この二天使に感じられてくるから不思議である。
 フィレンツェのメディチ家と、メディチ家出身のローマ教皇、ミラノのロドリゴ・スフォルツァ、スフォルツァがフランス軍に破れると、再びフィレンツェに帰るが、その間マントヴァを通ってヴェネツィアに行ったととは前にのべた。ヴェネツィアにはどういうわけか短期間とどまっただけで、ついで、チェザーレ・ボルジアに科学者として優遇されたが、その失脚でフィレンツェに帰り、また、ミラノに移り最後にフランス王フランソワ一世にともなわれてフランスに渡り、アンボアーズの城の近くのクルーに住み、そこで死んだ。
 ミラノ公ロドリゴ・スフォルツァはその甥を徐々に毒殺した人物。 メディチのロレンツォや、チェザーレ・ボルジアについてはここでいう必要のないほど冷酷で優雅な生活をおくっている。
 チェザーレ・ボルジアは、その全盛期には、文人、科学者、芸術家を優遇し、その宮廷は、かつてのウルビノのフェデリコ・モンテフェルトロの宮廷に劣らなかったといわれる。マキャヴェリの「君主論」はチェザーレ・ボルジアをモデルにしたものだそうである。
 こんな環境の中で、レオナルドのあからさまにものをいわぬ韜晦と蔑視とは、当然助長されるにちがいあるまい。自然のおそろしさと美しさ、人体の正確なプロポーション、そして、女性のあやしさと微笑・・・・・・。
 が、その前に、ちょっと「絵画論」にふれておこう。おそらく、第一ミラノ時代に書かれたノートは大変な数になるようだ。そのうち、絵画に関係のあるノートが弟子のメルツィの手で、多分一五五〇年頃模写されたのち、オリジナルは所々に散逸してしまった。メルツィはこの模写をウルビノ公フェデリコ・モンテフェルトロの創設したライブラリに献呈したが、それが、いつの間にヴァティカノ宮に移っている。しかも、あらためて発見されたのが Codex Urbinas Latinus 1270 として一八一七年、その間、まったく分らなかったらしい。
  この「絵画論」の中で、レオナルドは絵画がいわゆるファイヴ・アーツからなぜ除外されているのか、絵画は科学(科学といっても、現在使われている意味ではない)である、と、くりかえしくりかえし言っているが、このことになると言勢がすさまじい。このノートには、韜晦も、軽蔑感もない。あるのは、その執拗さだ。
(この「絵画論」は一八八二年ルドウィヒによってドイツ語に、一九五五年マクマホンによって英語に訳され版されているルドウィヒ版から日本語に訳されているはずである。)

   レオナルドの神秘
 絵にもどろう。「岩窟の聖母」については前にちょっとふれたが、奥まった秘密の岩窟の暗い影の中に、聖母子、バプティスマのヨハネ、天使をおいている。思いがけぬ出会いをかきたかったのだろうか。花はまるで陰花植物がこんな中で開いたかのような印象をうける。
「聖アンナのいる聖母子」の背景はまったく下図のままに残してある。ミラノに滞在中の二〇年近くの間にはアルプスにものぼり、切り立った奇妙な岩、山岳を見ているし、河、洪水のことも想定している。下図のまま残っている背景は、「絵画論」にのっている洪水その他のデッサンによく似ている。
 聖アンナ、 聖母がいわゆるアーケイック・スマイルに似た微笑をたたえているのは、見方によっては何よりも無気味である。

「モナ・リザ」の微笑──おそらく世界中でこれほど有名な肖像画はあるまい。さまざまな意味で観賞され、いろいろのエピソードにとりまかれた肖像画もあるまい。フィレンツェ滞在中、夫のジョコンドの依頼でかかれたものともいわれるが、同時に、レオナルドは終生、この絵を手ばなさなかったという伝承もある。四ヵ月で仕上げたという説、四年間かかって、ついに未完成に了ったという説、後世両側を三インチほどつめたという説・・・・・・盗難にあったのは事実だし、また、見るたびにちがった印象をうけるので、ルーヴルに本物と模写とがあって、ときによってかえられるとまじめに考える人もいる。そんな疑いも、もっともだと思う。
 これが同じ作品かなと考えこむのはぼくも同じである。ことに、フェルメールの贋作事件があって、画商、批評家、鑑定家、画家など一口で画壇の中にいる人々はその真贋をめぐって真二つに分れた。第一にあのフェルメールの宝石のような色を贋作するなどということは不可能だと思われるのだが、・・・・・・そんな名人がいたらぼくもまた、その贋作を見たら、困るにちがいないのである。
 また、一時、同じルーヴルにあるコローの「婦人像」が賞賛され、「モナ・リザ」に匹敵する、といわれたととがある。誰がいい出したことか、これは一時かなり一般的に広がった。
 なるほど、コローの「婦人像」はすぐれた作品だし、「モナ・リザ」に影響されたにしろ、「匹敵する」などという言葉で比較すべき作品ではあるまい。

 あの微笑によって、静から動への契機をとらえているという説ももっともだし、唇の右はしから少しずつ微笑をうかべるのは、当時のハイ・ソサイエティの女性の礼儀作法だった。といわれれば、なるほどそういうものか、というより仕方がない。
 レオナルドが描くときジョコンダがどうしても微笑をうかべないので、背後で音楽を奏した、という逸話は有名だが、実は、先だって、それに輪をかけたようなトッビな話をきいた──
「私は絵のことをまったく知らないのですが、当時ジョコンダは喪に服していて、かなしみが深く、どうしても笑ってくれない。そこで、レオナルドは道化をつれてきて、さまざまにおどけさせ、ついに、その唇をほころばせるのに成功した、ということを何かで読んだことがあるのですが、本当のことでしょうか?」
 モナ・リサの微笑ということになると、ぼくには、この、トッピな話がもっともおもしろいと思った。
あの静謐ともいえる平和な美しい画面が、ときには、なんともいえぬ不吉なものに思えてくることがあるからだ。なにかヨーロッパとはちがう東洋的な神秘思想をもっていたようにも思える。

 追記、「絵画論」のマクマホンの訳は難解である。二つの理由があろう。もともと、オリジナルがノートだし、それを弟子が写しとったものだから、文脈がひとに読ませるようにできていないし、写し損じもあろう。 フィリップ・マクマホンは一九四七年に死んだが、それまでに八年かかって英訳しているが、いわゆる遂語訳のままになっている。妻や友人が、いい英語訳にしようと努力したが、結局、不完全なもの──つまりマクマホンの情熱に打ちかつことができず、敬意を表して、それに手を加えずに出版しているためだ。
 これだけ、むずかしくては、ぼくには史伝をかくことは到底できない。当然だ。

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