確証の旅─レオナルド・ダ・ヴィンチを巡って(1)
芸術新潮
一九六一年はじめてパリに行ったとき、何回かルーヴルにかよったが、「モナ・リザ」の前は、いつも十数人の人々が群がっていて、ほとんど素通りし、見たが見たにならなかったが、ミュンヘンのアルテ・ビナコテークでレオナルドの小品を見てから、あらためて、パリにもどった。このことは前にふれた。
とにかく、そのために戻ったのだから、人々が群がっていても、割りこんだ。ところが数分すると、他の人は一人もいなくなる。それからまた、五分もたつかたたぬかの間に、前と同じように群衆があつまる。そして、また去る。つまり、波間みたいなものができるのである。ぼくは、人がむらがると、うしろにさがり、ひとりになると、すぐ前にいったり、適当にさがって見るということに、やっと気づいた。
「モナ・リザ」は見るたびに、いつもちがって見える、とはもう通説だし、たしかにその通りにちがいない。 実際、この作品ほど、さまざまな賞賛の言葉にとりまかれ、また、それとは、ある意味では逆に、何かえたいの知れぬ不吉な感情に魅せられて、ふと目をそむけたくなるか、じっと凝視するようになる作品はないようだ。 あるときは、これまでいわれてきた賞賛の言葉が、すべて誤りで、もっと別なものがあると思い、また、ひるがえって、とにかく、この作品を見た以上、なんとか賛辞を捧げたくなり、見た人なりに賞めようとして、その正確な言葉が出なかったところに、正しさがあるようにも思える。つまり、すべての人々の賛辞を集合したら、まったく誤りであり、誤った言葉しか出なかったところに、民衆の叡知がある、といった、不思議な独断を下さざるをえなくなる。
この作品については、もっと後に話そうと思う。それまでのレオナルドといういわゆる万能の天才のさまざまな遍歴──あの混乱に混乱を重ねた時期に、つねにそのときどきの冷酷と優雅とをもつ覇者に優遇されながら、生きぬいてきた遍歴──が、すべて集約的に、もしくは集中的に暗示されている作品だから。それに、あの不吉感と幸福感とが、レオナルドの作品にはいつも同時に存在するからである。
その上、ぼくの場合、パリ滞在の年によって、この作品は展示の場所がちがっていた。六一年にはメイン・ルームの中央に、六三年には同じ室の、むかって左はしに、そして、七〇年にはイタリア・ルネサンスのセクションに陳列がえしてあった。絵を見るタイミングは、こちらの体調や、条件によるだけではなさそうである。
「イサベラ・デステの肖像」
一九七〇年九月なかば、思いがけず(‘‘‘‘‘)、「マントヴァ公妃イサベラ・デステ」のデッサンを見たことから話をはじめよう・・・・・・
オランダからパリにもどり、三、四日骨やすみにぶらぶらし、とりとめもなく街を歩くつもりだった。それかさきは、この年の最後の旅程にくんでいたストラースブールからコルマールをまわり、バーゼルに出て、ウィーンに飛ぶ予定だった。「思いがけず」というのは・・・・・・
オランダでは、フェルメールだけをつぶさに見るつもりだったから、旧知のハマヘル氏にもヴルーム氏にも会わず、もっぱら大沼映夫氏の世話になってしまった。大沼氏とは奇妙ないきさつから知りあったのだが、これについてはいずれ、フェルメールという不思議な存在について書くつもりだから、そちらにまわすとして、アムステルダムを去る最後の夕、大沼夫妻の家で夕食にまねかれた。
その日の午前中、大沼氏とつれ立って、美術館を見ているとき、偶然細田幸子さんという若い画家と会った。細田さんと大沼氏とはパリで面識がある程度だったらしい。ちょうどそのころ、大沼氏は個展を開くことになっていたが、作品はほとんど発送し、あとは事務的なことが残っているだけだった。が、それにしても忙しい。昼ごろから、二、三時間打合せの約束があるから、その間、どうしましょうか、と、朝、ホテルに迎えに来てくれたときにいっていた。打合せがすんだら、どこへでも、また迎えに来るから、予定があれば教えてくれともいう。勝手気ままに歩いているのだから、そこまでしてもらっては恐縮、適当にぶらぶらしているから、用事の方をして下さい、と答えると、
「実は御迷惑でなかったら、夕食に、家におまねきしたいので、それにまだ、何点かアトリエに絵が残っているので。」
「それなら、よろこんでお待ちしましょう。美術館にいるうちに、何か考えましょう。」
こうしてアムステルダムの美術館を見おわるころ偶然、細田さんと会った。 細田さんはひとりでパリのモンパルナスのそばに数年住んでいて、絵の勉強をしているという。ちょうどオランダ旅行でデン・ハーグから南下して、アムステルダムにつき、明日パリに帰るということになっていた。
大沼氏と細田さんとが相談して、結局、三時間ほどを、細田さんがぼくにつきあい、近代美術館の出口で、待ちあわせることになった。
「細田さんも忙しい旅でしょう。ぼくの方は別にこれという用もないままうろついているのだから。」
「私は近代美術館をぜひ見たいので、よろしければ、御一緒していただけませんか。」
ここで、モンドリアンのコレクションを見て、はじめてその緊張したマティエールに感服したのは幸運だった。
その夕、大沼夫妻宅の夕食に、細田さんと、それに、当時たまたまハーレムにいた画家の平賀敬氏とぼくとが集まることになった。午前四時まで、話がはずんでしまった。
「パリでホテルにおたずねしてよろしいですか」と細田さんはいう。
「ぼくの方は三、四日休養だから、あなたのいいとき、電話してくれれば、たいてい、いつでも結構ですよ。」
パリに戻って、そんな会話があったことを思い出して、こちらから細田さんに電話した。 細田さんの方で遠慮しているか、と思ったからである。若い女性ひとりで、パリに数年住み、絵の勉強をしていることは、それだけでもなかなかなことだし、アムステルダムの近代美術館を一緒にまわっているうちに、小柄なおだやかな女性だがからだを活発にぴちぴちと動かし、絵画について大変情熱をもっていて、見る眼も相当たしかな印象をうけたのである。
昼頃、さっそく細田さんが訪ねてきた。昼食をホテルでとりながら、
「どこか御覧になりたいところはありますか?」
「見たいところといえば、何回行っても見たいので、多すぎて困るのです。それより、なにか、最近開催されているおもしろいものはありますか?」
細田さんは一所懸命に、いろいろな名を挙げてくれるが、ほとんどぼくは見てしまっている。最後にやっと、
「ルーヴルの××館はもう御覧になりましたか。」
「××館?」
「はい、今年(ぼくの聞きちがいでなければ、そういった)になって開かれた館で、イサベラ・デステがあります。」
ぼくはドキッとした。 「イサベラ・デステ」の素描は、むかし、よく複製が出ていたし、近年ふたたび、複製を見かける作品だが、ぼくは、オリジナルはそれまで見ていなかった。(なお、お断わりしておくが××館というのは、ぼくがわざわざ名を伏せたわけではなく、そのとき聞いた名を忘れているからである)
いやも応もない、そのときのぼくはそこに出かけるのがうれしくなった。
××館は、テュイリュリ公園から見て向って右側の翼館である。普通のルーヴルの入口からでなく、テュイリユリ公園に面した入口から入る。前もってひとに聞いておくか、しらべておくかすれば、この程度のことは分っていたはずなのに、それをしなかったのは怠慢だし、ルーヴルの陳列がえを見たのちでも、一回くらい調べるべきだったかもしれない。迂潤である。
思いがけずもいいところだろう。美術とその雰囲気とヨーロッパ人とを勝手気ままに見て歩き、そのため、ときには、というより、かなり多くの大事な作品を見おとしても、ぼくは、それほど残念とも思わぬ、横着といえ横着な性格なのだが、しかし、いったん、見て感動をうけたとなると、執着してしまうところがある。(ぼくがいわゆる美術史をあまり信用せず、自分でも書く気がしないのは、一つには、そのためなのだろう。)
この館には、さまざまな人の素描、ミニアチュア、エテュードの相当美しい作品があって、ヨーロッパ流にいえば、美術館というより、ライブラリというべきものなのだろう。その上、この館は、すいていて、ゆっくり見てまわれる。ぼくと同様、この館を知らぬ人々が多いのだろう。
この展示室は、古い建物の肘の中で、できるかぎり、新しく模様がえをしてあり、その中で、もっとも、見やすいように、室の中央の空間に、「イサベラ・デステ」の素描が展示してある。
遠くから見ると、レオナルドの素描にしては黒い線が、きつすぎるように思えた。正確な言葉は忘れたが、レオナルド自身、物の輪郭をなす線などというものはない、輪郭とは、ある物体と他の物体または周囲の空気との境界をなすものだ、というようなことをいっている。が、顔のコハク色は見事に美しい。
が、近づいてみれば、黒チョークの線が濃く見えるのは当然だった。決め手になる線には、小さな穴をあけている。
真横のプロフィルは透視図法的遠近法にとって、一つの重要な要素──少なくとも、その訓練にとって、一つの重要な要素──だったことは、ピエロ・デラ・フランチェスカについて語ったときいった。顔の、光を通して見たようなコハク色のパステルは、ことにすばらしい。全体の円錐形の構図は、たしかにレオナルドの好んだものにちがいない。
しかし、輪郭の決め手にこまかくあけた穴が、ちょっと気になった。フレスコの下絵としてのカートンには、こうした穴は普通なのだし、いくつか見ているが、この作品は構図から見て、あきらかに板画油彩である。まったくお恥ずかしい話だが、当時の油彩画の制作過程を知らなかったぼくは、その辺が疑問だった。
「どうでしょうかね、このカートンはフレスコのためだとするとおかしいし、油彩画の下絵なのかな、ぼくは、この完成作品を知らないので。」
あちこち見ていて、再び、このカートンの前にいたぼくのところにやってきた細田さんに訊ねた。
「私も不勉強で、その辺は分りません」
たぶん、ぼくに恥をかかせまいとする心やりからだろう、細田さんはそう答えた。
この完成作品をぼくが見ていないのは、あたりまえのことなのだ。帰国してから、調べたら、完成作は失われているのである。
五時ごろ別れて、いま見た「イサベラ・デステ」を思い出していたが、その夕、午後八時前、荻須高徳夫妻がホテルに訪れてくれた。同氏は二、三日後、ヴェニスを中心にイタリア旅行をするので、今年会うのはこれで終りになるというわけで、すぐさま荻須氏宅に招かれ、午前四時まで歓談した。
その折、ぼくは、昼見たばかりの「イサベラ・デステ」について話した。荻須氏も、まだ、この翼館の開いたの を知らなかったという。のみならず、戦前からパリに住んでいながら、このカートンを見ていない、ともいう。よほど長いこと、倉庫にしまわれていたようだが、これについては、のちにちょっとふれよう。
ぼくは、細田さんに訊ねたと同じことを訊ねた。
「あの時代、身分の高い人は多忙で、そう長いことシッターになっているわけにはいかないでしょう。ほんのわずかな時間シッターになったにすぎないから、即興的にデッサンをし、そのカートンをもとにして、あとで油彩にしたものでしょう。あの時代、油彩でもこういう方法をとったことはよくあることですよ。」
まことに明快な答えがもらえた。そして、まったく正しい解釈だった。
レオナルドに「写実的」な絵はない
いうまでもあるまいが・・・・・・このカートンを板の上におき、決め手になる輪郭上の穴の連続にしたがって、おそらく、カーボンかそれに似た材料によって、パネルに薄くしるしをつける。パステルの色はメモであろう。それを油彩に仕上げる。が、そのときは、もうシッターはいないから、輪郭も色の配合も、画家の創造力にかかる。記憶力によってではない。少なくとも、根源的な創造力によって、濾過された記憶における物体の関係そのものである。
レオナルドの、いわゆる「写実的」な絵とは、すべて、そうして制作されたもののように思われてきた。早のみとみと思われるかもしれぬが、レオナルドには、のちにいわれる「写実的」な絵はないのである。
帰国してから、調べてみると──、
レオナルドは・・・・・・レオナルドの伝記や美術史に詳しい人は、この数行は読みとばして下さい・・・・・・一五〇〇年か、その前年、それまで二〇年近く滞在していたミラノを去ってヴェネツィアにおもむくことになる。もともと、ミラノの支配者だったロドヴィコ・スフォルツァに、主として軍事顧問、軍事設計家として奉仕するのが専門だったようである。(もちろん、他の科学的研究や絵画について大変な構想をしているが。)一四九九年ごろには北イタリアは政治的軍事的に切迫し、同年フランス軍がミラノを占領し、ロドヴィコは逃亡する。
レオナルドは、ヴェネツィアにおもむく。 フランス軍の占領から逃げたとばかりはいえまい。のちにフランス王フランソワ一世に優遇されているくらいだから。ヴェネツィアがトルコの脅威にさらされていたからその軍事技術者として、である。この忙しい旅に、レオナルドはマントヴァに立寄り、イサベラ・デステのカートンを制作している。
この「カートン」は一五〇〇年に制作されているが、イサベラの肖像は少なくとも二点は制作したらしい。一点はマントヴァに残し、のちにフォンテンブローに所蔵されたもの、もう一点は、レオナルドがヴェネツィアまでもっていったカートンである。そして、おそらく、もう一点のスケッチを、イサベラの要望で描いたらしい。
が、この点については、ぼくの推定だから、あまり、あてにならぬ。が、ルーヴルのカートンは、おそらく、レオナルドがヴェネツィアにもっていったものだろう。楽器制作者ロレンツォ・グスナスコが、ヴェネツィアかイサベラ・デステに宛てた手紙がある、──
「・・・・・・レオナルド・ダ・ヴィンチはいまヴェネツィアにおります。 奥方の肖像画を私に見せてくれましたが、あらゆる点で、なんとも忠実に、奥方そっくりです。実際、これほどすぐれた作品はありません・・・・・・」日付は一五〇〇年三月十三日になっている。
幸か不幸か、いまでは、この完成作品は失われている。あるいは、むしろ、失われたことに感謝すべきなのかもしれない。
なぜなら・・・・・・ルドゥウィヒ・ゴールドシャイダーの研究によると、このカートンは、顔、頭部、だけがレオナルドの描いたもので、あとは、凡庸(メディオクラート)の弟子になる、とある。ぼくは、見ているうちに、そんなことはまったく気にならなかった。ぼくは顔、頭部、肩、胸のあたりにひきつけられて、そのまま感嘆してしまったためか、それとも、レオナルド(にはかぎらぬ、超一流の画家)には、つねに未完成な部分が残るものだし、ことに、これがカートンならばそれも当然だと思いこんでいたためか。あるいは、最初にモナ・リサについていったように、見るたびに変ってしまうためか。
こういう言い方は、ぼくは嫌いなのだが、ぼくにとって、複製は、本物を見たときの印象をあらためてほのめかすメモにすぎない。だが、この精巧な複製を一見したとき、ぼくは、おやっと思ったこともたしかである。衣裳から右手の位置のプロポーションが、どうもおかしいのである。本物を見たときのよすがになっていない。芸術作品に対したとき、ぼくは、あとで自分でもあきれるほど、自分の感覚に執着し、頑固になって、他人の、ぼくよりもよほどよく知っている人の意見にもまったく耳をかさない場合がある。が、この複製では、どうも、ゴールドシャイダーの意見をうけいれないわけにはいかぬらしい。ただし、いいわけがましいが、もう一度、ルーヴルでこの作品を見たら、どうなるか、自分でも見当がつかない。
そこで、ぼくはこう想像したくなった・・・・・・ずいぶん長いこと、ルーヴルの倉庫にしまわれていたのは、カートンのため陽に弱いせいだと思っていたが、実際は、人目に出して展示する前に、部分的に真贋をしらべるためだったにちがいない、と。
だが、ぼくは思うのだが、(負けおしみをいうようだが)レオナルドの生存中、その統轄の下にあった弟子たちは一流の技量をもっていたから、弟子の手が入っていても、それを顕微鏡的に見る必要はあるまい。こういう場合、メディオクラートの弟子という言葉は、歴史的な事実をつたえても、現存の真実は伝えていない・・・・・・
話がとぶようだが、ぼくは二十歳代に何度も見た運慶作の無着像世親像のことをふと思い出した。この二つの像を中心にして、運慶という不思議な人物について書いたことがある。二十歳代の終り近くだが、この寄木造りの二つの像は運慶が統轄したというだけで、部分部分は、それぞれ責任者をきめ、頭部、胴、手、足などが弟子たちの分担でつくられた。つまり、運慶は、どこも彫っていないらしいのである。それでいて、ぼくは、この二つの像を運慶の最もすぐれた作品と思った。いまでもそう思っている。が、それにしても寄木造りの秘密はいぜんとしてぼくには不思議である。が、ともあれ、超一流の作家は、そこにいるというだけで、あたりに、いわば磁場みたいなものが生じ、そこに参加するものは、心からよろこんで、呼応し、幸福を感じるにちがいない。そして、運慶の死後、この多くの弟子たちは、メディオクラートになってしまった。
パリとロンドンの「岩窟の聖母」
「イサベラ・デステ」のカートンに少々手間どりすぎたかもしれない。このカートンのコピーは数点あるし、また、イサベラ・デステの肖像画をレオナルドは少なくとも二点かいたし、弟子の手が入った、というようなことから、ぼくは、また、「岩窟の聖母」について思ったことを書いておこう。
ぼくは、はじめて、ロンドンのナショナル・ギャラリーを見たときのメモにこう書いた、
「レオナルドの『岩窟の聖母』はルーヴルのとは印象がちがう。洗い方、保存状態のちがいとばかりはいえまい」(一月号にこのメモをのせた。)
かなり、おだやか?ないい方をしているが、ぼくには、ルーヴルにある方がいいと思ったのである。 ひとさまざまだから、ぼくの好みをおしつけるつもりはないし、真贋をいう用意は、むろん、ない。
ほとんどまったくといっていいほど同工の、この二点を、その後の旅で何度もみたが、細部はともかくとして、画面全体に、ロンドンの方は、レオナルドにしては色のハバが広く、むしろ、十六世紀ルネサンスに近い。 十六世紀をイタリア・ルネサンス盛期と見る見方をとるひとは、この方がすぐれていると思うかもしれない。ぼくはむしろ、十五世紀をハイ・ルネサンスと独断する下地が、やがてできてしまっている。色のハバの狭い中に、数えきれぬほど多くのものを感じるぼくは、ルーヴルにある作品の方が好きだ、とただバクゼンといっておきたい。
いずれが真作で、いずれがコピーか、という論争はかなり長いことつづけられ、いまでは手づまりの状況であろう。いまでは、ルーヴルの作品は、一四八三年、レオナルドがまだミラノにいたとき制作した作品、ロンドンの作品は、それよりいくらか遅れ、一四九七年ミラノではじめ、一五一一年に完成されたという資料があるようであり、それが一応通説になっているらしい。反対する根拠も資料も理由もぼくにはない。 ただ、同工のものを二点制作したということ、しかも、十年以上前に制作した作品の方がぼくには)好ましいのに、もう一点制作した、ということに、いくら混沌とした時代にせよ、多少疑問が残る。
もっとも、何度もいうようだが、絵を見るのにはタイミングがある。この二点を別々の場所で、別々に日をおいて見る、という条件は、タイミングを狂わせるにちがいない。もしかりに、この二点を同じ場所にならべてみたらそんなことはさまざまな理由で不可能だが)もっと、はっきり、好みがいえるかもしれない。真贋はとてもいえぬにしても。
この二点は、すでに有名すぎるほどだから、いま、本誌の読者には細かい解説はいるまい。
また、トッピな比較で恐縮だが・・・・・・
宗達の風神雷神図を、光琳が模写した作品がある。別別に、ちがった場で見ていたときは、おやっと思い、どこがどう違うのか分らないし、また、ただ、バクゼンと宗達の方が好ましい、としかいえなかった。が、あるとき、──もう二十年余り前になるが──この二点が、隣あわせにならべて展示してあったのを見たことがある。あきらかにちがう。宗達のカラッとした気宇をもつ空間と目のあたりくらべると、光琳の筆にのびがなく、空間が小さい。こんなにも違っていたのか、と思ったことである。(といって、ぼくは光琳を過小評価するつもりではない。これが、模写というものの限界なのだというだけのことで、むしろ、宗達に信従して、あえて模写をし光琳をたたえたい。 光琳のその後の作品は、こんな手だてをへて創られたものだ。)
もう一つのカートン
たしか、一九六三年のことだったと思う。ロンドンのナショナル・ギャラリーに、特別な一室が設けてあり、レオナルドのかなり大きなカートン一点だけが、まるで祭壇画のように展示されていた。ほかに、なんの作品もないから、室に入るやいなや、すぐそこに目がゆく。
「聖アンナと幼児バプティスマのヨハネのいる聖母子」である。パフ・ベイパー、つまり、淡い黄褐色の紙に、黒チョークを用い、淡く色づけしてある・・・・・・といえば、思いあたる人が多いと思われる。十五世紀末の作である。
室の中央あたりに、両側の壁から手すりが出張っていて、その中央を通って近よるように展示されている。奇妙な展示法だな、といぶかしく思いながら、近よったり、はなれたりして見た。
見おわって、手すりの中央のすき間から出て、もう一度ふりかえった。そして、手すりのわきに寄付箱のあるのに気づいた。この作品にだけ寄付箱がおいてあるのは、どんなことなのか、近よって、プレートを見た。正確な言葉は忘れたが、要するに、この作品をもったロイヤル・アカデミーの基金、運営費が足りなくなったので、このままでは、このカートンを売らねばならない。が、なんとかして、この作品を売らずにすむように、こに展示した応分の寄付をしてもらえば幸いである。というような意味の文句が書いてある。
応分の寄付といっても、これほどの作品に対して、どの程度の寄付をしたらいいのか分らない。が、要するに、大勢の人々が入場するナショナル・ギャラリーで、入場者の何分の一かの人々が、ここに少額ずつ入れておけばいいのだろう、と思い、ぼくは一〇シリングか一ポンドか入れた。寄付箱から少しはなれて、職員が立っているだけで、他に人がいないので、いったい、いくらで売るつもりか、セリにかけるとすれば、いつか、寄付金がいくら集まれば、残しておけるのか、ナドと訊ねようと思ったが、思いとどまった。訊ねたところでどうにもなるものではない。
その夕食後、ぼくは街を散歩しながら、トッピなことを考えた。ナショナル・ギャラリーの「岩窟の聖母」なら、ここになくてもよかろう。どこかに売れば、このカートンより、はるかに高価だろう。それにパリに行けば、ルーヴルでぼくの好きな方が見られる。が、このカートンはナショナル・ギャラリーに残しておきたい。もし、買うなら、日本におきたい。日本にレオナルドの真作はないからである。が、日本では、残念ながらこれを買う個人も機関もなさそうだ。それなら、やはり、売らずにすませたいものだ・・・・・・ぼくは、別にイギリスびいきとは自分では思っていないが、ぼくの若いころ育った時代の環境、大学では英文科をえらんだことなど、無意識のうちに、多少イギリスびいきのところがあるのかもしれない。・・・・・・
まったくぼくの身勝手な想念だが、むしろ、妄想と思っていただきたい。
その後、このカートンがどうなったか知らない。 海外での美術売買の記事などあまり興味がなく、読まないので分らぬが、それにしても売ったという話は知らないから、たぶん、なんらかの方法でナショナル・ギャラリーに残ったのだろう。ただし、七〇年に訪れたときには、このカートンは見あたらなかった。
(このカートンについても、ドキュメントがいくらかあって、なかなか、むずかしい論議があるようだが、それにふれる必要はあるまい。むしろ、少額の寄付金を集めるくらいなら、大陸の美術館のように、入場料をとればいいのに、ガンとして、入場料をとらぬのは、それなりの自負心があるのか、・・・・・・頑固なのか、ほかにも理由はあろうが、イギリス人気質が出ていて、いまになると、その方がおもしろい。)