確証の旅─ミケランジェロを巡って(2)
芸術新潮
ドゥオモの「ピエタ」
一九六三年秋、ローマからフィレンツェへ午後のラビッドで直行した。それでも、中部イタリアの農村の風景を、窓外に、それなりにたのしめた。ホテルについていっぷくしているうちに、午後五時をとっくにすぎてしまった。散歩に出たのは六時近かったろう。
ホテルを出て、歩いてほんの一分も立たぬ角をまがると、ドゥオモに出た。快晴である。夕ばえのドゥオモは、サンタ・マリア・デル・フィオーレの名のとおり美しい。ぼくは内に入らず、この建物にそって周囲をゆっくりながめてめぐることにした。だんだんに暮れてゆくにつれて、光と影の交錯で大理石の色とキメが微妙に変化してゆくのも、たのしい。
翌朝、さっそくぼくはドゥオモに入り、ピエタを見ることになった。
その後、何度も、何らかの期待をもってこの作品を見、そのたびに、期待を裏切らぬ──というより、期待を上まわる──感銘をうけているので、最初に見たときの印象を明確にいうことは、いまのぼくには不可能になっている。が、ある諦感のうちにあらわれる静謐という感情は、いつもかわらない、といえるだろう。
有名な作品だから解説はいるまいが・・・・・・。
十字架から降ろされたばかりのキリストを中心に、大地にしずむそのからだを右手からマリアが支え、左手にはマグダラのマリアがいる。その三人を蔽うかのように、アリマタヤのヨセフが背後に立っている群像である。ほとんど未完成である。
この作品の制作の動機は、一五四七年ヴィットリア・コロンナの死と関係があるらしいといわれる。孤独なミケランジェロが七十歳近くなってから親しく交わった、この女性の死は、大きな悲しみだったにちがいない。ヴィットリア・コロンナと交わっている時間、ミケランジェ口の内外の不協和音雑音はしずめられていたようだ。(この女性について、ぼくはまったくといっていいほど知らないが、新カトリック派の熱心な信者で、ミケランジェロと親交を結んだころは、すでに十七年前夫を失い、生涯、寡婦でいる誓いをたてていたそうだ。) ミケランジェロはこの群像を自分の墓のためにつくったといわれる。
この群像は、普通よく見かけるピエタの構成とちがうので、「十字架降下」、「嘆き」、「埋葬」などとさまざまにいわれてきたようだし、また、そう名づければ、いずれもそのまま通るにちがいないが、やはり、「ピエタ」という名が、その内面的な性格から見て、もっともふさわしいと思われる。
聖母とマグダラのマリアの姿とは、それとすぐ分る。この作品の本格的な性格からすれば、別にどうでもいいようなことかもしれぬが、その外見上からちょっと問題なのは、慈愛にみちた悲しみの情で三人を蔽う老人の姿だろう。アリマタヤのヨセフというのがいまでは通説だが、ニコデモとする説もある。ときには、父なる神とも思える。そして、この顔は、ミケランジェロの自刻像だという。七十歳のミケランジェロの顔を知らぬぼくはその説に従うほかあるまい。というより、ある意味で、積極的に、この顔が自刻像だと思いたくなる。彫像にかぎらぬ、肖像芸術の場合、制作された顔は肖像主より、作者に似るものだ。キリストと聖母の顔は粗彫りのまま手をとめ、構成だけから見ればほとんど、トルソとトルソとの連帯なのに、老人の顔はかなりはっきりしている。自分の墓のための彫刻に、アリマタヤのヨセフの姿で自刻像を制作する、ありうることであろう。イエスの屍体をビピラトに命じさせて受けとり、「浄(きよ)き亜麻布につつみ、岩にほりたる己が新しき墓に納め」たヨセフ──イエスを自分の新しく掘った墓に埋葬する・・・・・・これは象徴的な意義をもっている。
この群像中、完成され、磨かれているのはイエスのからだだけである。
もっとも、左手にいるマグダラのマリアもそうだが、これはのちの手が入っていると思われてならない。全体の中で、この像だけが妙に完成しているし、しかも、アウトラインはミケランジェロのものにしても、その彫りも磨きも、ミケランジェロらしくない。例えば、レアとラケルに見られる敬虔なつつましさと手がちがう。が、これは、群像全体を蔽うエーテルにつつまれて、顕微鏡的見方をしないかぎり、まったく気にならないし、また、気にしないでもいいことだろう。全体を蔽う精神の諸関係から、はみ出すわけにはいかない。
イエスの死、そして、それに必然的にともなう神と人間との連帯──おそらく、それがこのピエタのもっとも重要な問題であろう。少なくとも、それがもっとも重要な発想であろう。
もっとも、ミケランジェロにとっては、無意識にせよ、はじめから、それが最大の問題ではあった。エネルギーとヴィルトゥにみちあふれた時代だからこそ、そのすぐ隣に死が存在していた。人間のほとんどあらゆる力が善悪ともに、激しくあらわれ、たがいに錯綜し、妥協の余地のないほど、ぶつかりあった以上、当然のことであろう。宗教的人間にとって、それがイエスの死の思いへと昇華する、とここではいっておくにとどめよう。だが、若いころの、いわば、一種の叙情的な情感にのって、やさしみを出しているサン・ピエトロのピエタと、このピエタの静謐なやさしみとの間には、ヨブのような巨大な試練があった。
「神々に愛された或るものは若くして死ぬ。しかし、この人は神々が愛したために、かえって長く生きのびて、大変な高齢にまで達し、ようやく、やさしみ──この人のうちにひそかに分泌するのに、こんなにも長い時間のかかったやさしみ──が、ついに掘りあてられるにいたった。」(ウォルター・ベイター)
と、なれば、このフィレンツェでの最後の作品、そして、現存する作品中、最晩年のミラノのピエタの前の作品について、いきなり書くのは性急にすぎよう。最後にもう一度かえることにして、別の作品から述べねばなるまい。
(ここでついでにいっておくと、ミケランジェロについては、ずいぶん多くのものが書かれているのは御承知の通りだが、ぼくの読んだものといえば、ほんの数点にすぎない。その限りにおいていえば、ベイターの「ミケランジェロの詩」と題したミケランジェロ論が、その本質的な部分において、ぼくの感じたこと、考えていることと、もっとも近いように思われる。一八七一年、つまり、いまからちょうど百年前にかかれているのだから、ぼくは、あらためて、ペイターの炯眼におどろいている。英文学のなまかじりで、昔、読んで、おおかた忘れていたものを、フィレンツェのピエタに感銘をうけて、六三年帰国後、おもい出して、あらためて読みなおした。ぼくの考えとちがうところのあるのは当然だが、ミケランジエロについて知りたい人には、ぼくは、まず、一度はこの小論の一読をすすめたい。
(ただし、ベイターが、ここで「神々」といっているのは、おそらく、ギリシャ神話をもち出さねばならなかった、当時の人々のルネサンスを見る、ある種の限界──といって悪ければ、「メアリアス・ジ・エピキュリアン」の著者の性格であろう。「神」といったのでは、この文章は成立しない。)
「ダビデ」より「奴隷」を
ダビデ・・・・・・年代順にいえば、現在アカデミアにあるとの作品にふれることになるはずだが、ミケランジェロといえば、一般的にすぐダビデと返事が返ってくる、この作品には、あまり述べることはあるまい。さまざまな賛辞にとりまかれ、いちいち、ごもっともというより仕方がないからだ。たしかに若いころの傑作にはちがいない。それまでに習得した技法を駆使し、ある流暢さにのって、疑いをいれぬ凛々しさがある。何ものをもおそれぬ青年の季節である。が、システィナ礼拝堂の辛苦ののちの作品とは、質がちがうといっていいほど、マティエールがのんきである。
ただ、この作品の頭のいただきに、まるで岩石からまったくは切りはなされていないかのように、粗彫りが残っているということだが、これは見るわけにはいかない。(わざわざハシゴを出してもらって昇って見るほど、ぼくは好事家でもない。) が、そういわれれば、ぼくはそれなりに納得する。ミケランジェロのその後の作品に見られる、石という素材への愛着から、その部分がどうしても断ち切れなかったろうということは、推量にかたくない。
ダビデのおかれた奥の室に通じる場所におかれた、四点の奴隷の方に、ぼくは、はるかに心ひかれる。
システィナ礼拝堂の天井のフレスコと奥壁の「最後の審判」には、部分的にすぐれたものがあっても、全体としては感動を受けない、と前にいったし、また、この暗い苦しい通路を通ることが、その後のミケランジェロを大きく飛躍させるモメントになった、ともいった。が、それだけでは、言葉不足のようだ。いいなおそう。激動期において、ミケランジェロのような、力強さとやさしみとをうちに秘めた激しい性格の持主にとって、この強圧的な状況の下で行われた失敗──あえて、ぼくは失敗作といってしまう──は、懸命に成功を念じて努力したはての結果における失敗である。逆説的に聞えるかもしれぬが、結果において失敗したことが、逆に、その努力──出来上ったときには、もう見えなくなり、すんでしまった努力──を存在させることになる。作品の現存と同時に、あるいは、そういってよければ、失敗作ゆえに、作品の現存以上に、存在者たらしめる。
全体として大きな感銘をうけぬシスティナ礼拝堂の作品のミケランジェロにおける意義は、こうした存在者をのちの作品から逆にたどることでえられる。少なくとも、ぼくにとっては、そうなのだ。奴隷にしても、その他の作品にしても、その型態を救っている一つの(‘‘‘)契機は、外見上、システィナの型態と似ているからではなく、その努力を、いま一度存在者たらしめているからであろう。(外見上の型態の類似については、それぞれあてはめてもうかなり多く言われているので、これ以上、ここではいう必要はあるまい。それに、繰返していうが、類似しているからといって、質がまったくちがうのだから。)
奴隷・・・・・・前号でちょっとふれた、パリのルーヴルの二点中、もっとも完成に近い作品というのは、いうまでもなく、一般に「瀕死の奴隷」と名づけられた作品である。「瀕死の状態」なのかどうかは、ぼくには分らない。もう一点の「反抗する奴隷」はそういわれればたしかに題名の通りのテーマと見られる。二点を一緒に見ると、普通いわれるように、圧制者に対する怒りと被圧制者に対する心やりがうかがえるのはたしかであろう。ぼくはそれに異議をとなえるつもりはないが、しかし、圧制=被圧制という関係は、もう、このころのミケランジェロにとって、直線的、もしくは、一方向的なものではなかったはずである。圧制=被圧制、加害者=被害者の関係は、激しい内部の意識をもつものにとっては、そう単純に割り切れるものではない。
おそらくユリウス二世の死後、次の教皇としてメディチ家から選ばれたレオ十世の時代、フランスに献呈されたこの作品に内在する根深い発想は、石を材料として人間の外見と内部との結びつきについての追求だったろう。
「瀕死の奴隷」のマティエールがダビデに近いという人もいるが、多くの人の賞賛にもかかわらず、ぼくはダビデのマティエールは、ずっとのんきだ、というようなことをいった。ダビデを否定するわけではない。ミケランジェロの場合、不思議なほど年齢が問題になるのだ。
幼いころから岩石に興味をもっていたミケランジェロだが、システィナの試練をへたのちには、岩石そのものに、自分では不可知な匿名の生命がある、と観ずる信念が、飛躍的に深まったと思われる。同時に、人間と、人間同士の関係とについての関心も飛躍する。(ミケランジェロはつづめていえば、神という不可知なものへの無知を知っていたし、それとの関連において、フィジカルには人間しか創らなかった。といっていいすぎなら、たしかに、花、果実から動物まで、さまざまなものを彫ってはいるが、それらは、すべて、人間像のための付加物にすぎない。この点、レオナルドとは正反対であり、ぼくは思うのだが、この彫刻家は、ある意味で、この画家を蔑視していたのではあるまいか。)
岩石に匿名の生命があると見るから、石切り場にまで出かけ、石を割るにも細心の注意をはらう。いつ石を割ったか、ということが後年になるほど重要なデータになるのもそのためだ。割られたままの石に眠る生命を掘り出すために、身体全体の動きが、ノミをもつ手に有機的に集中され、いいようのないおそれと期待とをもって、石と手との間に格闘的な戯れがはじまる。たがいに、おしおされ、ひきひかれる関係のうちに、しだいに凸凹が脈うってくる。マティエールとはこうして生れるものである。フィレンツェのアカデミアにある四点の奴隷は、ルーヴルの作品より、かなりのちに手をつけたにちがいない。いまではそれぞれ、仇名みたいな名がついているが、もともと匿名の生命なのだ。名はいらぬ。石からぬけ出たいのか、それとも、これ以上は出ることを肯んぜず、石にしがみついているのか、まるで、ミケランジェロは石の意志を慎重に聞いて、それを尊重しているかのようだ。
彫刻にかぎらぬが、すべて、芸術作品の場合、素材、材料、方法その他、すべて完成へとむかう一つ一つの事物が、それ自体生きていて、作者は、それに、そのものとしての愛情ある関心をもつものだ。もちろん、それだけで十分というわけではないが、少なくとも、それが、すぐれた作品を生む、一つの必要な条件である。この奴隷たちは、そうした愛情に支えられていて、こう呈示されると、もうこれ以上、彫りすすんではいけないギリギリのところで、手がとまっている。
(ついでにいうと、この奴隷たちはミケランジェロの死後、大公コシモ一世に贈られ、ピッティ宮に面する庭のグロッタの四隅におかれ、醜いバロック彫刻として、いわば化けものの役をはたしていたという。再評価されて現在の位置におかれたのは二十世紀のはじめである。)
メディチの廟堂の「聖母子」
システィナ礼拝堂のフレスコ、ユリウス二世の廟墓とならんで、三大プロジェクトの一つといわれるサン・ロレンツォ廟堂・・・・・・、ぼくは建築についてはのべようがない。
祭壇をはさんで、ジュリアノとロレンツォの墓所が対になっている。御承知の通り、ジュリアノの像の下に、「夜」と「昼」が、 ロレンツォの像の下に「暁」と「夕」が、それぞれ三角形をかたちづくるようにアレンジされている。ジュリアノとロレンツォとは若い生前の姿である。その下の「暁」、「夕」、「夜」、「昼」と名づけられた人体像は、一見、その名称の象徴的な意味は、それとすぐ分る。「暁」はめざめたばかりの女性、「昼」は活動だが、いかにもものうげな男性、「夕」の休息とその日の労苦を回想するかのような男性、 「夜」の瞑想にしずむ女性・・・・・・。だが、とう分ってしまっては、あるいはそれで分ったつもりになってしまっては具合が悪い。どこかギリシャ的発想をもつ、こうしたかたち──暁、昼、夕、夜の循環を定着するかのようなかたち──によって永遠の時間を象徴する風習のようなものが、あるいは、そんな要請が当時あったのだろうか?が、いずれにしても、ぼくにはそうした名称も、象徴も、それだけのことならどうでもいいことである。 ミケランジェロ自身、実は、永遠とか水生とかの観念を、この程度の象徴で表現できるとは思っていなかったにちがいない。
この作品の造形上のことがらについては、もうかなりいわれているので、いまのぼくにはつけ加えていうことはない。
ただ、世俗の間には、いつもあることだが、ことに、死がすぐ隣する時代、永遠の時間や永生という願望が、かなり強くあったにちがいない。ことに、ジュリアノとロレンツォとが、生きた若者の姿でつくられているから、余計、そうした願望が強く感じられるのかもしれぬ。 現在と未来とに、直接とまではいかぬまでも、なんらかの仕方で、連続の関係の成立する願望──あるいは信仰にまでいたる願望──があったとしても不思議ではない。ダンテにさえ、そうしたものがうかがわれる、といったらヒが目だろうか?ミケランジェロは、おそらく、あるときはダンテの弟子であろう。が、生死や永生や永遠という大事については、無知を知る、つつしみ深さがある。この墓所の彫刻群では、作者は、そうした大事については何も語っていない。(この群像が未完成におわったのは、メディチのアレッサンドロとの軋轢のため、というだけのことだったろうか。)
ぼくは、この廟堂では、祭壇の反対側の中央に、目だたぬように、ひっそりと坐る聖母子像にうたれる。この廟堂の世俗性を救っているのは、この聖母ではあるまいか。
宝冠も円環もない。フィジカルには、そこらにいる普通の人間と少しのかわりもない。当時のフィレンツェの市民階級の、まだ若さの残る中年の母性。謙虚な、苦労にたえたすがたである。だが、それと気づくと、「生きとし生けるもののうち、もっともつつましく、もっとも気高い」(ダンテ) 聖母である。墓所には、つかつかと進めても、この聖母には、静かに、静かに、一歩一歩、次第に心をしずめて近づかねばならぬ。この像を刻むミケランジェロの手は、すべて控え目である。
人間が自分の手の負えるかぎりのことは、その能力のすべてを動員して、その解決に責任をとろうとのり出したのがルネサンスの特徴の一つで、フィジカルな世界では現世の人間とまったく同じ姿で描くことによって、逆に超絶的なものを純化しようとするとだいぶ以前言ったことがある。この聖母はその最も美しい典型であろう。中世の最も美しく、敬虔な聖母をおもわせるこの像は、あらゆる付加物をとり去った、ルネサンスの最高の聖母である。個人的な思いやりと憂いとが、そのまま、世界全体への憂いと思いやりという慈愛に昇華している。
あらゆる付加物をとり去ることと、石を刻むこととは、このころ以後のミケランジェロにとっては、同じとになっている。アカデミアの奴隷にしても同様である。 ミケランジェロに、粘土による作品、つまり、つけ加えて行く作品がないわけではない。が、ミケランジェロの本質は、刻み、けずりとってゆくところにある。人間の成熟とは、人生において、その俗塵の間に、次第に得ることではなく、失うことだ、という意識と密接に結びつくにちがいない。
それが、フィレンツェのピエタでほとんど最後の頂点に達する。
再び晩年の「ピエタ」を
ぼくは、ふたたび最晩年のピエタに帰ってきたようだ。
フィレンツェのピエタの粗彫りの浮彫りのようなキリストの顔はぐったりと、同じく粗彫りのマリアの方にむかってかしいでいる。 チズルや粗岩を生あるものとして残しているのは、もう大分前からの方法である。このマリアがもう少し彫られたら、メディチの聖母の顔に近くなるか、とトッピな想像をのちにはしたくなるくらいだが、(むろん、見ているうちには、そんなトッピなことは考えるはずもない)しかし、これ以上、彫ってはいけないにちがいない。魂をはなれた肉体は重い。死んだ人間の屍体の重いのは当然だが、まさに、外見上そのようにつくられながら、核心的にはこの屍体は、全世界の重みを背負った肉体なのだ。その重みをもって大地にしずむ。マリアたちは、その支え切れぬ重みを、ようやくもちこたえている、これ以上は支え切れない瞬間である。
これ以上の悲劇的ドラマはないにかかわらず──というより、本当は、それだからこそ──外見上の激しい動きはまったくない。ある諦観のうちにあらわれる静謐──急いでいえば、はじめにいった言葉をくりかえすより仕方がない。なぜなら、この瞬間を、永遠の時間、無限の時間に転換しているからだ。
いったい肉体を離れた魂とは何なのか?その魂の存在する状況や、存在するための条件はどんなものか?逆にいえば、魂をはなれたイエスの肉体とは何なのか?こんなことを、愛をこめて、誠実に考えるときには、いつも、何かしらの不安や、平和な静けさ、あるいは不吉な騒音の予感がつきまとい、とらえ得たかと思えば、たちまち消え去って、絶えず動揺がおきる。こんなとき、思索や思想といわれるものは、どこかに迷走しがちなものだ。
ミケランジェロは疲れはてるまで思索したはてに、それから無知の状態に入り、いったんははなれた肉体を、別のかたちのフォルムに転換して、定着せざるをえなくなる。ミケランジェロの場合、実際に詩のリズムとハーモニーを知っていたからというだけのことではなく、その彫刻には、微妙なリズムといいたいものがある。 このピエタの静謐は、おもてだってはあらわれぬリズムによって、生れるにちがいない。見るものも、いつの間にか、そのかくされたリズムに、内心奥深いところで、呼応し、作品と見るものとの間に、根源的な相互関係が生じる。彫刻におけるフォルムとマティエールの最終的な問題はその辺にある、とぼくはいいたい。
七十歳をこえた老病のミケランジェロは死を望んでいた、といわれるが、この言葉は誤解をまねきやすい。
ルネサンス期のすぐれた人物はすべてそうだが、その中でも、とびぬけて、力強さとやさしみとが、キリスト教のセントラリゼーションと結びついて、激烈だったミケランジェロだったからこそ、たえず、内外の不協和な雑音につきまとわれ、いつも、何か不安な状況の下にあった。愛と死とがミケランジェロにつきまとった最大のテーマだったし、罪と死からの救いが、その最高の祈願だったと思われる。「原罪」というすさまじい観念あるいは感覚は、ぼくにはまったく分らないが、(聖書の愛読者ではあっても、キリスト教徒でない以上、やむをえない、)・・・・・・
「縦(たと)ひわれ患難(なやみ)のなかを歩むとも汝われをふたたび活(いか)し、その手をのばしてわが仇のいかりをふせぎ、その右の手われをすくひたまふべし。エホバはわれに係(かかは)れることを全うしたまはん、エホバよなんぢの憐憫(あはれみ)はとこしへにたゆることなし、願くはなんぢの手(みて)のもろもろの事跡(みわざ)をすてたまふなかれ」(詩篇第一三八篇七─八)
フィレンツェのピエタが、さまざまに名づけられてきて、いちいちもっともと思いながら、やはり「ピエタ」という名がもっともふさわしい、とはじめにいったのは、この詩篇の憐憫を思いうかべるからでもある。
なお、背後にいて慈愛にみちた悲しみの情をもつ老人が、ニコデモだという説をもぼくは否定する理由がない。引用するには紙数がない。できればヨハネ伝第三章を読んでいただきたい。
ミラノのビエタは、これから約十年後につくられている。この間の彫刻作品は、少なくとも現存していないようだ。おそらく、老病の身をローマにおき、教皇の強制によって、さまざまな注文が出されたにちがいないが、ミケランジェロが自発的に創造したかったのは、このピエタだったと思われる。フィレンツェのビエタと表裏をなすかのような、つまり、ピエタと同時に復活である不思議への飛躍には、この天才のあらんかぎりの力をもってしても、十年は長すぎはしない。イエスの死についての思索から、生死の大事に無知を知ること、そして、それをも放下して、イエスの死についての原初的イメージに到達した、あるいは、それを回復したとすれば、十年はほんの短時間にすぎまい。思い切った比喩をいえば、詩篇から福音書の世界への飛躍なのだから。
(ついでながら、この作品は、九十歳近い老病の身で、よろけて床におとし、こわしたまま、制作をつづけた、というような説があるが、こんな言いつたえは聞き流しておいていい。万々一そうだとしても、石に生命を見ているミケランジェロは、それはそれとして、自然(‘‘)のなりゆきにまかしてしまうからである。また、フィレンツェのピエタのキリストの脚部は、オルヴィエトの本寺のファッサードにある浮彫りに、無意識にせよ、なんらかの関係がある、という説も、ぼくはにわかには賛同しがたい。たしかに、ミケランジェロはフィレンツェとローマとのゆききに、ここに立ちよっているにちがいないが。)
なお、フィレンツェのピエタではアリマタヤのヨセフに自刻像を創ったミケランジェロは、もうこれ以上、失うもののない、痩せたミラノのビエタでは、イエスその人の顔が自刻像になっている、という人もいる。作者が無意識のうちに、その顔が作者に似てしまった、という意味でなら、ぼくは賛成である。幼児のころ、石切り場の職人の妻を乳母とし、石を玩具として育ったミケランジェロは、終世石とともにすごしたことになる。