確証の旅─ミケランジェロを巡って(1)
芸術新潮
ミラノの「ロンダニーニのピエタ」
一九七〇年夏、かつてロンダニーニのピエタと呼ばれていた作品だけを見に、猛暑多湿のミラノに一泊したととは前に述べたが、作品そのものにはまったくふれなかった。賢明な読者は、そのとき、もう、お察しのこととも思えるが、極端にいってしまうと、この作品に少しでもふれたら、性格のまったくちがうレオナルドの「最後の晩餐」は書きようがなくなってしまうからだった。
ミケランジェロを見た順序としては、逆になるが、そして、また、ミケランジェロの経歴の上から見て、遺作というべき最後の作品になるが、話は、このピエタからはじめよう。
ミラノ城の中の美術館の最後のかなり大きな一室の中央を、板でおよそ円型につつみ、まるで祭室ででもあるかのようにして、その中に、このピエタがおいてある。それにむかって、しつらえた長椅子も、坐れば、ちょうど、祭室の前にいるかんじになる。
この年の夏はいわゆる観光ブームで、ミラノは猛烈な群衆だったが、この室まで入ってくる人々はまばらであった。
この作品の前に立って、正直なところ、ぼくは、しばらく、あっけにとられたといったらいいか、ぽかんとしていた。いいわけがましくいえば、猛暑の中をやっとの思いで、ここまで来て、まだ、暑さぼけがぬけず、この不思議な作品に、非現実的な、夢でも見ているかのような、とまどいを感じたのかもしれない。それもあろうが、実際は、この作品そのもののもつ性格によるのだろう。
彫刻というものの概念ないし観念から、まったく逸脱してしまったかのように、一見、バラバラな作品だし、いままで見てきたミケランジェロの彫刻、つまり、ミケランジェロの経歴におけるさまざまな彫刻と、直接的には連続していないように思われた。キリストやマリアの顔から胴体にかけては、薄く、薄くなってゆき、もうこれ以上薄くはなりえない、ことにキリストの顔は、一見、扁平で、顔つきは薄浮彫り──それもプリミティヴな荒けずりの薄浮彫りの線しか見えない。キリストのひんまがった脚部と、向って左側に、まるで破損されて残ったかのような右手は磨かれているが・・・・・・
急いで言えば・・・・・・いま思うと、ぼくがもしこの作品について、前もって写真や図版を見ていなかったり、何人かのすぐれた人々の賞賛の言葉をきいていなかったならば、つまり、そのためにこの作品のみを見にミラノに来たのでなかったならば、見すごしてしまったかもしれない、というような空想までせざるをえぬ状態だった。つまり、何が何やら分らない状態だったといってよかろう。(固定観念というものは凄まじいものだ。現代彫刻のすぐれたものには感銘をうけながら、この作品がルネサンス期の彫刻だということが、固定観念になっていたにちがいない。)
だが、そのとまどいから抜け、だんだん冷静になってくると──あるいは、この作品がぼくをその制空圏にひきいれて、冷静に落ちつかせてくれたのかもしれぬ──ぼくは厳粛な気持になってきた。その厳粛なうちに、ごく、かいつまんでいってしまえば悲痛なものから、現世から切断された浄福と平和へとみちびかれる・・・・・・
ここでは、ミケランジェロはイエスの死のイメージ(この場合、イエスの死についての観念、あるいは思索というより、それよりはるか以前のいわばある原初のイメージ)以外には、もう何ものにも執着しなくなってしまっているにちがいない。こういうイエスの死のイメージは、そのまま復活につながるイメージなのだろう。実際、この作品におけるイエスは十字架からおろされて、くずおれようとするからだを、マリアがようやく支えているのか、それとも、いったんの死から、立ち上ろうとする姿なのか、──おそらく両方であろう。矛盾ではなく、いわば、同時に存在する不思議なのだ。
ミケランジェロの作品と実証されていなかったならば、おそらく、誰の作か分らなくなるような作品である。たとえば、「キリストのまねび」がトマス・ア・ケンピスの著作なのかどうかは、もう分らなくなって、この書それ自体が独立してしまったように・・・・・・
この作品は──ミケランジェロの未完成の作品の多くはすべて、そうだが──ことに、このピエタは、作者が自分の名を失ってしまう運命をもつことになるにちがいない。
実際、このピエタが再評価されたのは、二十世紀後半、つまり、いまのジェネレーションになってからではあるまいか。
が、あまり急ぐまい。ぼくは、このピエタを見ているうちは、作品の、何かある原初の光輝から発する制空圏のうちにつつまれて、心が洗われている状態だったのだから・・・・・・
「不識」なる未完
このピエタがローマのパラッツォ・ロンダニーニに入ったいきさつは分らぬようだが、このパラッツォが移転する際、このピエタはしばらくどこに行ったのか分らなくなり、やがて、一九五二年、ミラノ市が買い、はじめはかなりひどい場所におかれていたそうである。
このピエタが制作されたのは一五六三年の末から六四年にかけてだったことは知られている。つまり、六四年二月十八日、ミケランジェロがローマで死んだ、その数日前まで、この作品にかかっている。
伝記の伝えるととろでは──二月十二日、ミケランジェロは老病の身で立ったままピエタの制作に没頭していた。十四日、病があつかったが床につくことを肯んぜず、散歩に出かけ、十五日には、さらに衰弱したが床について看病されるのを拒み、煖炉のわきに坐っていた。十六日、ついに床につき、三項目の遺書を残した──自分の魂は神に、肉体は土に、所有物は近親者たちに・・・・・・
ミケランジェロは、生と死、愛、永生というような人間にとって重大な問題については、その経歴のはじめから慎み深い。それだからこそ、「フランス王さえこれほど大胆にはできないように、教皇に対して振舞い」、「首切り役人かと思われる様子をして」(ラファエロ) ローマの街を往来したともいえる。その生涯の長年にわたる、人間存在についての関心から生れる想念につきまとわれていた情熱が、少なくともイエスの像を制作するときには、ある敬虔な冷静さをもってくる。ミケランジェロの情熱が、当時の混乱期の中で、そして、自分のおかれている場において、どれほどの激情となってあらわれ、不協和な行動になってあらわれたにしても。(もっとも、不協和な雑音は、ミケランジェロの方よりも、当時の状況の方にあり、ミケランジェロがそれをうちやぶるために、激烈な心情にかられた、といった方がいいのだろうが。)
ミケランジェロは、その人生で、さまざまな経歴でえた知恵を、はるかにこえたものについて、無知であることを知っていた。壮大な力強さと、この上もなくやさしみのある感情との結合がミケランジェロの重要な特徴の一つだが、それが、次第に、自分には無知であるものに、知らず識らず、むかってゆく構想を形成しはじめる。その構想は到底手におえぬものであって、ある法則にのっとって、整った形をつくり出してゆくモメントを逸脱し、結局は、外界の最もプリミティヴなものに自己を委ねてゆく。
未完成になるのは当然なのだ。超一流の作家にのみ許された、ある慎みのある天分によって、手をとめる場を知っている。
ミケランジェロはかたちを石からぬけ出てきたかのように放置する。が、今度は見るものが、その型態を自分の責任において完成せざるをえないような衝動にかられる。むろん、完成できるわけのものではなく、結局は、完成への可能性だけが残る。こういう無縫ともいえる期待が、ミケランジェロにはあり、見る人間への信頼感が、ミケランジェロの最初の特徴であろう。その頂点に立つのが、ミラノのピエタであろう。
神と人間とのかかわり・・・・・・もと人間はどれほど自由で深淵な事物を知っていたか、現在、その人間の能力はどこにかくされてしまっているのだろう・・・・・・そんな精魂つきるまでの思索のうちに、このピエタには全き自己放下が行われている。
イエスの十字架上の死に思いをいたすことは人間の最高の叡知だが、その死と復活によってえられる新しい生命との関係を秩序だてる法則などについては、自分の無知を知る。それを「不識」というべきか?
「開かれた世界」を、内奥の不可知なものとして、そのまま、この作品にとめているような、祈りがこのピエタを形成したのである。
千年の後に復活する天帝としてのキリストではなく、三日の後に復活して、なにものをもさばかずして、すべてをさばくキリストについては前に述べた。
「三日の後」とは、むろん、超現実的な比喩である。死と復活との間にある、或る切断による持続は、こうでもいわねばいいようがない。キリスト教徒ではなく、いわば聖書の愛読者にすぎぬぼくにとって、福音書の本質、あるいは最頂点は、この問題であるようだ。
ミラノのピエタがピエタであると同時に復活だ、と前にちょっといったのは、この意味である。そして、その点で、これより十年ほど前に制作されたフィレンツェの本寺にあるピエタと、表裏の関係にあるようだ。
石から彫りおこされたイエスの姿とマリアの姿とは、当時の常識を破って、連続していない。左側にみえる腕は、まったく切断されている。が、そのおのおのを非連続にさせる空間は、それ自体が、すでにもうそれで存在していて、それぞれ無関係にみえるバラバラなかたちを、別の次元で結合する。これらの諸関係がいったんミケランジェロの手になると、確固として存在者となった・・・・・・
が、ぼくは急ぐまいとしながら、つい、急いでいるようだ。まず、はじめに帰ろう。
サン・ピエトロのピエタ
一九六一年六月下旬、ぼくがはじめてローマに行ったとき、その滞在中、ミケランジェロの作品は、サン・ビエトロ大聖堂のピエタ、サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂のモーセ、システィナ礼拝堂しか見なかった。その辺にもどって話をはじめることにしよう。
ローマでは何をおいても、まっさきにサン・ピエトロに行こうと、なんということもなく前々から、ぼくはきめていたようだ。このローマ・カトリックの大本山を見たかったらしい。(実際に、この法王庁のすがた全体をとらえるなどということは到底できない相談だが。)
ぼくは、ほとんどなんの予備知識なしに、この聖堂に入った。さすがに、かなりの人々がいる。カトリック教徒の人々がほとんどなのだろう、多くの人が、聖ペテロ像の足指に接吻してから、 クーポラの方にむかって行く。いうまでもなく、このクーポラはもとはミケランジェロの設計だが、これについては、ぼくはふれようがない。そこここの、懺悔室で、懺悔をしている様子は、ぼくには、はじめ、異様なかんじを与えた。・・・・・・こんな具合に、ぼくはしばらくは、なんということもなく、この大聖堂の中をぶらぶらしていた。
聖堂内に入ってすぐ右手にあるミケランジェロのビエタは、さすがに美しい、とは思ったものの、それほど、強い感動はうけなかった。 ミケランジェロの彫刻の中で、おそらく、世界中でもっとも愛されている作品といわれるだけあって、それなりのやさしみと優雅さはある。全体の構想もすぐれているにちがいない。が、ぼくには、絵でいえば、いわゆる若がきと思われる。このやさしみと「甘きもの」とは、後年のそれとは性質がちがうだろ
その後、何度もこのピエタは見たが、その最初の印象は、ずっと変っていない。
むしろ、ぼくは、アルノルフォ・ディ・カンビオの作といわれる聖ペテロ像に、ここではひかれる。この中世のつつましさをもつ像は、実際にアルノルフォの作かどうかは分らぬが、作者が忘れられ、彫刻だけが残った、すぐれた典型の一つだと、この豪華な聖堂を訪れるたびに思う。(ついでにいっておくと、六三年秋、再びローマを訪ねたとき、午前中、サン・ピエトロへ出かけたら、入れてくれない。どういうわけなのか訊ねたら、ちょうどこのとき、数百年目の、司教以上の僧の大集会が催され、午前中は、その集会があったためだった。日をあらためて、午後出かけたら、なるほど、集会の席が、堂内一杯にもうけられている。司教の席、大司教の席、枢機卿の席など、さまざまな色どりで、ずいぶん、はなやかなものだ。ところが、聖ペテロの像に、帽子と衣をかぶせてある。これは、なんとも異様な風体である。カトリックの高位の僧たちの意識とは、こんなものなのだろうか、とあきれたくらいである。)
同じ若がきといっても、このピエタよりも数年前に制作された、フィレンツェにある木彫の磔刑の方がはるかに感銘深い。話がとんでしまうが、この木彫は、現在残っているミケランジェロの唯一の木彫で、近年発見されたものである。サン・ピエトロのピエタは一四九八、九年─一五〇〇年の頃に制作されているが、サント・スピリトにある木彫の磔刑は一四九二、三年ごろの作と推定されるし、作風は中世的で、イエスについてのイメージは、ミラノのピエタに近い。
サン・ピエトロのピエタは、どういうわけか、このときローマにいたミケランジェロが、あるフランス人に注文されて制作したこと、そして、ちょうど、そのころ、フィレンツェでは、サヴォナロラが処刑されたことは有名な話だろう。ミケランジェロが若いころ、多少なり、サヴォナロラに影響されたことも、また、事実であろうが、しかし、全面的に信従したわけでもなかった。
システィナ礼拝堂の天井のフレスコと奥壁の「最後の審判」には、ぼくは、あるとまどいを感じる。多くの人人の賞賛にもかかわらず、ぼくには、作品として、超一流のものとは思えない。あるものうげな、だるさに似た印象が残る。部分的にはすぐれていても、全体としては、何度見ても、感動をうけない。
教皇エリウス二世との関係は有名すぎるからここですぐいう必要はあるまい。が、ぼくの想像では、ミケランジエロ自身は、彫刻家としての自負から、このフレスコの制作から逃げたかったのではあるまいか?というより、実際、途中で、教皇に無断で、石切り場に出かけ、石工とともに、材料としての石材の切り方に苦心したと思われる。
「モーセ」の像
サン・ピエトロ・イン・ヴインコリのモーセは、たしかに堂々と強烈である。その両側に立つ二つの女性像も、また、いいものだ。
御承知のように、システィナ礼拝堂の天井画が完成されたのち、すぐさまユリウス二世の注文になるその廟墓にとりかかった。実際は、ユリウス二世が教皇になった翌年、一五〇五年、ミケランジェロをローマによび、この廟墓を注文したといわれる。つまり、システィナ礼拝堂の天井画制作より前である。この彫像群と、ルーヴルにある「奴隷」 フィレンツェにある数点の未完成な「奴隷」などは、この墓の一環であるはずだった。ユリウス二世の注文による墓は膨大なものだったが、さまざまな条件によって、次第に縮小され、生前には完成されず、現状のものになった。
最初の設計から、次第に縮小されていったいくつかの段階の想定図があるが、それについてはいまはふれまい。
モーセの像を解説して・・・・・・シナイ山上から十誡をえて、イスラエルの民のもとへ帰ってきて、いままさに立上ろうとし、イスラエルの民が黄金の仔牛を創って祭りさわいでいるのを見、云々・・・・・・といういい方がある。 が、こんな解説はどうも十八世紀の啓蒙的擬古典趣味の時代にいわれた、もっともらしい注釈である。が、この出エジプト記の超人的予言者、指導者であるモーセが、急激に顔を左にむけた動勢その他については、こんなエピソードが生れるのも十八世紀では当然かもしれない。(ついでに、モーセの頭に角が生えている姿は中世を通してキリスト教芸術には通例になっているが、この‘角は、ヘブライ語からの誤訳らしい。)
むしろ、聖書の、この個所を、そのまま引用した方がいいにちがいない、──
「彼はヱホバとともに四十日四十夜其処に居(おり)しが
食物(くひもの)をも食(くわ)ず水をも飲ざりき、
エホバその契約の詞(ことば)なる十誡をかの板の上に
書したまへり。
モーセその律法の板二枚を己の手に執てシナイ山よ
り下りしが、その山より下りし時にモーセはその面(かほ)
の己がエホバと言(ものい)ひしによりて光を発(はな)つ
を知らざりき。アロンおよびイスラエルの子孫(ひとびと)
モーセを見てその面(かほ)の皮の光を発つを視(み)
怖れて彼に近づかざりしかば・・・・・・」
(出エジプト記第三四章二八─三〇)
ぼくは、六三年秋、再び、ここをおとずれ、この巨人像の顔から全体のヴォリュームと、その両側に立つ二つの女性像を見たのち、すぐ近くのコロセウムにむかって歩いて行ったが、その間、妙な考えがうかんできた。・・・・・・
聖書の言葉に信従しようとする熱烈なキリスト教徒であるミケランジェロは、あらゆるヒエラルキーを嫌悪した。にもかかわらず、ユリウス二世という世俗化したキリスト教のヒエラルキーの頂点に位置する教皇の絶大な庇護の下においてでなければ、仕事ができなかった。この二人の間の、不思議な信頼感と葛藤とはすさまじいものだったにちがいない。 ユリウス二世が、このころの教皇中もっともすぐれた教皇だったといわれるのも、もっともなのだろうが、同じくキリスト教のセキュラリゼーションと、セントラリゼーションとの内心深いところでの争い、たがいに、相手を圧倒しようとする相互作用・・・・・・二人の間の愛憎の不思議の間に、このモーセの像が制作されたにちがいない。
もともと、フィレンツェで、ダビデが制作された直後、この廟墓の彫刻を制作するために教皇に呼ばれたのであって、システィナ礼拝堂の壁画の制作を強請されたのは、ミケランジェロにとっては、その途次の思いがけぬ出来事だった。自分の天職は画家ではないと思っているミケランジェロには、長年にわたるアクシデントであるこの壁画制作中、石への愛着、石を刻むことへの執着が、その水路をとざされていた。それだけに、このモーセの像にうちこむミケランジェロの心は、壁画制作中のようには、黒ずんではいない。といって悪ければ、神と言葉をかわしたゆえに、顔に光を発つ巨人というテーマは、ミケランジェロにとって、このとき、最もふさわしいものだったにちがいない。壁画と一見同じような堂々たる姿だが、壁画の像と、この彫像とは、ぼくには、まるでちがって見える。モーセを刻むミケランジェロは、心の自由をえた解放感のうちに、はずむ気持と、まさに石を刻むというそのことによって、ひきしめ、慎しみ深い冷静さと、深い瞑想をとりもどしているようだ。
その上、モーセの両側にならぶ女性像の一つには、たしか、瞑想という名に近い名がついていたはずである。
もともと、ミケランジェロは墓の設計と彫像を制作するためにローマに来たのであって、もしかりに、はじめから、システィナ礼拝堂の天井画を制作するために招かれたなら、ミケランジェロの性格からいって、断わったにちがいない。相手が教皇であってみれば、断わって断わり切れるものではないとしたら、どこかに身をかくしてしまったかもしれない、などと、トッピな空想までしたくなる・・・・・・
この廟墓の一環をなすはずだった 「奴隷」は現在パリのルーヴルにある数点と、フィレンツェのアカデミアにある数点とであろう。「奴隷」という名がつけられたのは、十九世紀になってかららしく(おそらくロマン派のいい出したことかもしれぬ)もともとは、文字通りの、「奴隷」を意図したものかどうかは分らない。が、いまでは、その名で通ってしまっているのだから、それでいいのだろう。すべて未完成だといってよかろうが、ただ一つ、ルーヴルの、もっとも完成作に近い作品のマティエールには、ダビデに近いものを感じるという人もいるが、ぼくは、このマティエールはダビデよりもすぐれているように思われる。フィレンツェにある作品についてはのちにふれよう。
パトロンと芸術家との間の関係は奇妙なものである。相反する力をもつもの同士の関係で、いずれかが弱ければ、結果において、うまくいかぬものらしい。つまり、強圧的な、いわゆる悪いパトロンが、かならずしも、不適当なパトロンというわけではない。ユリウス二世の強い個性と、ミケランジェロの強い個性とが、たがいにぶつかりあい、張りあう、危険な状態が、芸術家にいい結果を残すこともありうる。ことに、ミケランジェロのように、成年から晩年にかけて、キリスト教徒として、セントラリゼーションの方向にむかう激しい人間と、教皇の権力を最大限に発揮しようとする宗教のセキュラリゼーションの頂点に立つ人物との間では、いずれの側も、圧し負けるわけにはいかぬのだ。
システィナ礼拝堂はミケランジェロにとって、暗い苦しい通路だったが、おそらく、この細い苦しい通路を、孤独に通ることが、その後のミケランジェロを大きく飛躍させるモメントになったのかもしれない。残酷な話だが、超一流の作品のあるものは、こんな経歴ののちに、あらわれるものかもしれない。その通路をたえしのんだのちの、第一作がモーセの像であろう。
このモーセの像には、中世的なものと、バロック的なものとが、同居している。バロック的といっても、通念的な意味のものではない。あるいは、ルネサンス盛期の作家に、中世的なものとバロック的なものがあるからといって、不思議でもなんでもない。と反駁されるかもしれない。その反駁が、次の条件の下にいわれるなら、ぼくはそのままうけとろう──古代と中世との間には、かなり明瞭な線がひけても、中世とルネサンスとの間には、どうしても、そう明確な線がひけない。また、通念的な意味でのバロックではなく、現在から、再検討されたバロックは、ルネサンス盛期から、当然導き出されるものだろう・・・・・・
その通りだが、それだけでは様式上の過度の単純化になるおそれがある。ミケランジェロの場合は、前にいったように、大きな構想が、ある整った形を形成する条件を逸脱してしまう。いわゆる古典的(‘‘‘)整い方が自発的にやぶれてしまうのである。しかも、最晩年のミラノのピエタへと向う宗教的情熱が、中世のもっとも純粋なものを志向することになる、と、ここではいっておこう。
おそらく、この中世的なものへの志向、というより、キリスト教の愛と憐れみという問題への志向は、両側に立つ二人の女性像によって、一層、ひきしめられているようだ。創世記にあらわれるレアとラケルの姉妹の名がつけられているとの像は、モーセの像より、かなりのちに、おそらく一五四二年頃の作と考えられている。
だが、また、ミケランジェロは、すぐさま、メディチ家という強圧的なパトロンに遭遇する。活動の舞台は、再びフィレンツェになる。
ぼくとしては、ミケランジェロがフィレンツェで最後に制作した、フィレンツェのドゥオモにあるビエタと、ミラノのピエタとについて、はやく語りたいのだが、その前に、フィレンツェにある、さまざまな彫像について語らねばなるまい。
(なお、話す機会がなくなるといけないので、ここで、お断わりしておきたいことがある。ベルギーのブリュージュのノートル・ダム聖堂にある聖母子像は十八歳の作だと、たしか、ファン・アイクの項でいったと思う。が、制作年代をもう少し後において、一五〇三、四年、つまり、サン・ピエトロのピエタより、三、四年後におく説がある。資料には直接あたらない、ぼくには、どちらの説がよりよいのか分らぬが、しかし、ぼくの印象では、いずれにしても、「若がき」で、別に根拠はないが、思い切りよく、十八歳の作としてしまいたい気がしているのである。)