確証の旅─マサッチオを巡って
芸術新潮
ピッティは「ガラクタ」
マサッチオとの出会いは、ぼくにとって、まったくの偶然だったというべきだろう。一九六三年秋、フィレンツェで、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂のブランカッチ祭室の壁画を見るまでは、マサッチオがぼくにとって、これほどの大作家だったとは思ってもいなかった。そして、それがサンタ・マリア・ノヴェラの「三位一体」でもう一度裏打ちされたように思われる。
他の場所でも(たとえば、同じフィレンツェのウッフィツィでも)見ているはずだし、そして複製を見れば、たしかに、それも思い出すが、はっきり感銘をうけたのは、そして、いまでもはっきりしているのは、この二つだけである。
美術史というものが何らかのシステムをたてて成立したとして、透視図法的遠近法の進展した結果を追ってゆけば、そして、それに従って空気、光、陰を辿ってゆけば、イタリアではジオット、マサッチオ、ヒエロ・デラ・フランチェスカの系譜がたどれるし、それはそれで間違いはないのだが、それだけのことなら、ぼくにとってはなんということもなかった。だから、マサッチオはそれまで、ぼくにとって、直接には無縁な画家と思いこんでいた。
その日、ホテルの部屋で朝食をとっている間、霧雨がおだやかになっていて、それなりに風情がある。作品を見るには都合が悪いと思ったが、それならそれもよし、ホテルはドゥオモのすぐそばで、車の多いのには閉口だが、窓から街の人通りをながめてぼんやりしているのも一興 また、霧雨にぬれるのも悪くない。が、朝食をすませると間もなく薄日がさしてきた。ぼくは午前中にピッティ宮美術館とサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂を見ることにしてホテルを出た。
ピッティ宮までは一本道である。ボンテ・ヴェッキオは相変らずひとごみだが、アルノ河を渡れば、人影はすぐまばらになり、ピッティの建物に通じる坂道に入ったら、もう誰にも会わない。いい工合だ・・・・・・と思ったのも美術館に入るまでだった。
この美術館がもし他の都市にあったなら、それなりに立派なコレクションになるだろうが、フィレンツェにあったのではどうしようもない。ぼくのメモによると、「ここの作品はガラクタに見えるくらい」とある。
ラファエロ、ティツィアーノ、カラヴァッジオなどが、はなはだ立派に見えてくる。この画家たちが、ある保留条件をつけて大画家であることを認めるのに、ぼくはやぶさかではないつもりである。が、超一流の作家ではないといい切ってしまいたい。ぼくの独断的偏見と思っていただいても結構だが、しかし、ぼくにとって、端的に思い出す一つのショッキングな事件がある。
それより二年前の一九六一年夏、ミュンヘンに滞在中アルテ・ピナコテークに何度かかよったが、ことにラファエロの室がある。かなり多くの比較的大きなラファエロの作品があったが、その中に、たった一点、まったく様相も質もちがうすぐれた小品があった。 甘美なラファエロにいくぶん食傷気味になっていたぼくは目をみはる思いがした。下のプレートを見たら、この一点だけがレオナルドなのである。 レオナルドについてはいずれ書くつもりだが、このときの印象だけを簡単にいえば、やり直しのきかぬ厳しい画面の美しさ、構想の緊密感、マティエールの節度がこんなにもちがうものかとあらためて驚嘆したことである。妙な比喩をいえば、ラファエロを見ていると、ハイ・ソサイエティかアッパー・ミドル・クラスのサロンのたのしさと、やがておそってくる倦怠感がある。が、レオナルドとの会話は別の次元にぼくを誘ってくれる。いまでは、このラファエロの室に、どんなラファエロがあったか覚えていない。が、レオナルドの小品の「聖母子」ははっきり憶えている。絵の画格、気品、気韻とはこうしたものなのだ。
(ことのついでに、また、話がとぶが、ダリの作品に、ぼくはある共感をおぼえながら、どうしてもいま一つ、ついてゆけないものがあった。それが色彩だった、と気づいたのは、実は、「ラファエロに帰ろう」といったダリ自身の言葉を読んでからだといってもよさそうだ。ダリのことだから、逆説的に何をいい出すか分ったものではないナドとたかをくくってはいけない。こういう場合、画家はもっとも素直で正直なものなのだ。
事実、ぼくは、ダリの色彩にラファエロの方法とほとんど等しいものを見ていたにちがいない。
こころみに、ラファエロの、柔軟な材料で色のハバの広さを駆使する甘美な画面と、ダリの奇麗なマティエールとを比較していただきたい、とだけいっておこう。)
ティツィアーノの柔軟な画面には、この画格がない。カラヴァッジオの達者な筆には、この気品ないし気韻がない。美術史的に系譜をたどれば、後に、大きな影響を与えていることはたしかなことだし、そうでなくても、一家をなした作家群を底辺として、その上にそびえる大画家にはちがいないが・・・・・・そして、ある魅力をもってぼくを誘ってくれるにちがいないが、その魅力がいわば全人格的なものにかかわるわけではなく、どこか部分的なのである。その部分にのっているうちはいいが、──感動や情感は伝染しやすいものだし、そこに神経が集中するのを阻止するわけにはいかぬものだが──いつか、何か忘れものをしているという気になる時期が来る。おそらく、生活するということに本質的に内在するさまざまな矛盾にぶつかった時期において・・・・・・
ピッティ宮美術館のコレクションを、一般に大作家といわれる人々の作品までふくめて、「ガラクタ」とメモをつけたのは、たぶん、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂を見たのち、共和国広場のテラスでエスプレッソをのんでいたときだと思う。ぼくは昼の軽食や夜の散歩のとき、よく、このテラスに坐り、ぼんやりして人のゆききを見るともなく見ていたものだから。
ピッティの建物を出ると、すっかり晴れていた。小雨上りの庭園をかなり遠くまで歩いてみた。緑と白砂石の道が晴れた空に映えて美しいが、全体としては、あまりに人工的にととのいすぎていて、やがてもたれ気味になってきた。人工的に精緻にととのった造園は、新しい都市のはじまりから、都市化へとむかうヨーロッパの歴史において当然すぎるほど当然なのだが、都市化の絶頂期に近づくにつれ、再び自然を見なおそうとする欲求がおこり、その一つのあらわれが、ヨーロッパ大陸の諸所に見られる、いわゆる「イギリス風庭園」だといってもよかろう。細心の注意をはらって、これ以上ととのえず、自然のままの状態を保ち、人々はその中を気のゆくままに歩くことのできる「イギリス風庭園」の方がぼくは好きだ、といってしまったのでは好みの問題だが、それはそれなりの必然性があるのだろう。が、この問題はそれだけで大きすぎるので、ここではこれ以上は立入るまい。
「格段の差」 マサッチオ
ピッティのエステートを出、フィレンツェ特有の(というより、イタリア中部の都市の特徴といった方がいいかもしれない)細い道の、さらにかぼそい歩道をぬって、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂に入る。右手奥の祭室に、数人が群がっているので、ブランカッチとすぐ気づく。とろあいを見はかれば、この人々のおよそはいなくなると思い、すぐには、そこにゆかず、他の祭室などを見るともなく見てまわってから、ブランカッチに向った。
この祭室の壁画については、日本でももうさまざまにいわれているので、一般的説明は要るまい。また、ぼくの方でも説明する気にはならぬが、ただ・・・・・・
下段はフィリッピノ・リッピ、二段目から上部が、向って左側がマサッチオ、右側がマソリーノの手になると判断してもよさそうだ。ぼくのノートには、「それぞれ格段の差」とだけついている。フィリッピノ・リッピはそれとすぐ分る。が、二段目から上部の左右にはいくらかの疑問が残されていることはたしかである。一例をいえば、マサッチオがひとりで、時をおいて制作したという説、つまり、右手はマソリーノの影響下でかき、ある期間をおいて、自分自身の手法を身につけてからかいたという説まである。マサッチオがマソリーノの弟子であ以上、当然おる疑問かもしれない。また、同時に共作したらしいともいわれるし、逆に、マサッチオが左側をかいたのち、マソリーノが、マサッチオの天分に刺激されて制作したという説まである。二十七歳で夭折した
画家だけに余計そうした疑問がでる。
文献をしらべたり、作品の部分部分を顕微鏡的に子細に調査すれば、ある程度まで正確さがえられるかもしれぬし、また逆に、いよいよ、鑑別がつけにくくなるかもしれない。が、美術史家でも、鑑定家でもないぼくには、そうしたことはどうでもいいといってしまいたいくらいだ。右側は、かりにマソリーノの影響下でかき、左側にマサッチオ独自なものが出たにせよ、とにもかくにも、左側の壁画がマサッチオのマサッチオにちがいないのだから。その上、ウッフィツィにある「聖アンナと聖母子」のテンペラ画が、二十二、三歳の作とすれば、この聖堂の右側の壁画へとかえるわけにはいかないだろう。
ノートには「それぞれ格段の差」とはなはだ乱暴な数文字しかつけていないが、この三人の格段の差は等質なものではない。多少の注釈をつけねばなるまい。フィリッピノ・リッピの場合は一般的な文字通りの垂直的な意味にとってもらってもいい。が、マソリーノとマサッチオとの差は、そうはいかないのである。マソリーノもまた一人の大画家である。
マソリーノからマサッチオへの飛躍は、誤解をおそれずにいえば、ある保留条件をつけて、ロマネスクからゴシックへの移行と、かなりよく似た様相がうかがえる。
一方はある鄙びたやさしさと朴訥さをもって、近よるものをつつみこんでくる親しみ深い様式、ミニアチュアなどに見られる優雅さと、一方は毅然として近よろうとするものを、思い切ってつっぱなすきびしさ。
ここではロマネスク=ゴシック=ルネサンスの関係をくわしくいうわけにはいくまいし、ぼくには、その用意もないが、少なくとも、この関連は、アルプス以北と以南とでは、様式上、相当のちがいがある。
通説に従えば、十二世紀から十三世紀にかけてゴシックがはじまり、新しい都市の勃興につれてヨーロッパ中を蔽い、いわゆる「国際ゴシック」様式が生れ、それからアルプスの南北で二つに分れ、南方イタリアは初期ルネサンスといわれ、北方では後期ゴシックといわれ、ついで、両者とも、ほとんど同時に盛期ルネサンスにはいることになる。が、この関係はそう簡単には割り切れない。見方によれば、──そして、ぼくは大ざっぱにいえば、との見方をとるのだが──北方にはじまった初期ゴシックから、イタリア北部・中部では、盛期ゴシック、国際ゴシックが同時にはいり、すぐさま初期ルネサンスと重なりあう。北方では後期ゴシックとルネサンスとが重なりあって現われるという系譜がたどれる。が、その系譜も要素的なものだけで、ロマネスク=ゴシック=ルネサンスには、複雑なからみあいがある。(もともと、国際ゴシック様式とはアイマイなもので、一言でいえば、ここには、ロマネスク的要素が十分な力をもって入っている。)
極端にいってしまうと、ぼくにはヨーロッパ美術は、ロマネスク的なものと、ゴシック的なものとが、その精神構造からいって、交互に、あるいは共存して、難解な様相をふくんで、現代までいたっているように思われることがある。おそらく、ヨーロッパ文明圏が成立するにはロマネスク的なものとゴシック的なものとが必要だった。というより、ロマネスク的なものとゴシック的なものとが相互に関連しつつ、ヨーロッパ文明圏を形成するさまざまな可能性をもつことになったというべきか。
(おだやかに人をつつんでくるやさしみと、きびしく人をつきはなす峻厳さとは、イエスその人自身が最高のかたちでもっていたものだ。)
ロマネスクはいわば叙情詩の世界である。牧歌的なのは、のちの時代になってふりかえってのことだろう。ゴシックはいわば叙事詩または散文の世界である。のちにロマン主義がゴシック趣味をもったにしても。
マソリーノは叙情詩的だが、マサッチオは叙事詩的あるいは、それ以上に、散文的だ、といったらいいすぎだろうか。
「楽園追放」に、いわば「怒りの真只中で私を愛する神」を「貢の銭」には神に見られている人間の精神の政治学を見たのち、ぼくは、そんな比喩的なことしかいえなくなった。マソリーノには、はじめから、ぼくをひきつける、ある魅力がある。が、マサッチオは、ここの作品を見るまで、ぼくにはまったく魅力を感じさせなかったし、退屈な作風だと思いこんでいた。が、実際に、この作品に出会ったのちは、この退屈なものが、次第に重要なものに思えてきた混乱の時代に、散文のもつ意義の重要性を知っている人には、これ以上の説明は要るまい。叙情詩のもつリズムとメロディにのってゆくこころよさとは別な、もっときびしいが、公平な対話がはじまる。
翌日が万聖祭なので、こちらも適当に休むことにし、午前中だけバルゲロ美術館が開いているので、ここを訪れるだけにとどめた。見終って、内庭に通じる階段を降りてゆくうち、中庭に二人の日本人らしい人が立話している。こちらから声をかけた。やはり日本人でH氏とF氏とである。H氏は経済史専攻で、そのころ、すでに数年間、フィレンツェでルネサンス期の経済を研究しているうち、次第に美術に興味を覚えてきたという。F氏は当時東京教育大学の助教授で物理学の専攻だが、フィレンツェに美術を見にきて、H氏と会い、その案内で見ているという。一週間余のフィレンツェ滞在中、ぼくの会った日本人はこの二人だけだった。
二人ともその日はもうすることもないという話だし、ぼくの方も同様なので、一緒に昼食をとることにし、三時過ぎまで歓談した。実は二人ともぼくより若いので、ホテルにでも、と誘ったのだが、二人とも、こういう場合、いつもワリカンにしているので、簡単にピッツァリアで、ということになってしまった。昼の軽食にピッツをたべたのは、おもしろいことに、ぼくにとってはじめての経験だった。
その折、話のついでに、誰それの画家がどこそこの壁画をかいて、いくらの報酬をうけたという記録が残っているはずだが、その金の価値は、当時どの程度のものだったか、現代になおせば、およそどのくらいに相当するのか、などと、ぼくはH氏に訊ねた記憶がある。実はH氏も美術に興味をおぼえるにつれ、作品そのものの評価は専門家にまかせるとして、そうしたことが気になっていて、その方向から美術家の位地をこれから検討しようとしているのだが、この時分の貨幣価値が一般的に大変むずかしいので、それとつりあってしらべるつもりだ、と答えた。
絵画の質の問題とはまったく関係のないような話をもちだしたのは、H氏が経済史家だから、というだけのことでなく、実は、当時の一般的状況と画家の世俗的な位地というものの、およその見当がつくと思われるからである。これは案外重要なことなのだ。
「ぜひその辺を調べて下さい。」
「ええ、それをしなければフィレンツェでルネサンス期の経済史を研究する意味がなくなってしまいます。」
とはいっても、それが大変むずかしいことは、経済学も経済史も知らぬぼくにもよく分る。
たとえば、日本でも、江戸時代の初期、中期、末期の貨幣価値を、いちがいにいうわけにもゆくまいし、ことに、現在にパラレルにあわせることは正確には不可能なことだろうとは、知っている。イタリア・ルネサンスの長い転換期、混乱期では、なおさら困難であるのは当然である。
そのとき、ほかにフィレンツェの美術作品について、さまざまな話が出たのは当然だが、それに、ふれても仕方あるまい。
こちらが美術関係者だというわけで、滞在中、ぼくのいい時間には一緒にまわってもいいか、といわれ、もちろん、こちらもよろこんで承諾した。
そこで、早速、翌日、前号でふれたアレッツオ巡りをするので、一緒にと誘ったが、遠慮された。
翌々日、朝九時、二人そろってホテルに尋ねてくれたので、一日中行をともにした。
最初にサンタ・マリア・ノヴェラ聖堂に向った。
ここの「三位一体」は晩年の作品──二十七歳で夭折しているから、晩年という言葉は奇妙だし、最後期の作品といった方がいいかもしれない。近よって見ると、こちらの目がだいたい下のふちにあたる高さにおかれている。適当にはなれて全体を見るとき、ちょうどよく仰ぎみることになる。いまでははっきりと憶えていないが、ぼくたち三人のほか、この聖堂には人がいなかったように思われる。あるいは、少数の人々がいても、それにはまったく気がつかなかったのかもしれない。
勝手に、近よったり、はなれたり、周囲をぶらぶらしたり、それをくりかえしてゆくうちに、この作品がサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂の作品よりも、一層悲壮感にみちているように見うけられた。題材がキリストの磔刑というだけのことではあるまい。
三人で、そんな見方で、かなりの時間、この作品を見ていたから、その間に、この作品が堂内をあつかっている意味や、フォーショートニングのこと、ジオットやドナテロやブルネレスキのことなども、話したにちがいないが、いまではその内容はすっかり忘れてしまった。いま思えば、この作品にうけた感銘について、何か話したくなり、といって作品自体の質について話すことができず、その周辺をなにやかやいったにちがいない。
この日は、ついでサンタ・クローチェ聖堂とウッフィツィを再び訪れて、午後五時まで行を共にした。ふだん無口だといわれているぼくが、この日は、かなり、とりとめなくおしゃべりをしたらしい。
翌朝、再び両氏が訪ねてきたので、再び、サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂に行った。ぼくは、それほどマサッチオとの偶然の出会いを、たしかめたかったのである。
「叙情性」と「叙事性」
マサッチオのこの二つの作品は、卑近な言葉をつかえば、全力投球である。たぶん、若さのためもあるだろう、全力をふりしぼって集中的に緊密感を失うまいとしているかに思える。また、それだけに、透視図法的遠近法がいきいきと、また、ある意味で科学的純粋さをもって、必然的にあらわれてくる。(ここでいう科学的純粋さ、とは、のちに透視図法的遠近法が科学的遠近法と呼ばれた、その意味での科学とはまったくちがうものだ。)
透視図法的遠近法の成立した結果(‘‘)を追うことは、絵画プロパーの問題として、ぼくにはそれほど興味をひかない。が、それが成立するための条件、あるいは、成立せざるをえなかった条件については、絵画プロパーの問題としても、また、ルネサンス期の芸術一般の問題としても、重要な関心事である。別のところにも書いたことがあるが、この問題はマサッチオについて語るとき、もっともふさわしいと思われるので、この文脈と関連して、かいつまんで、書いておこう。むろん、ぼくの仮説だから、訂正すべきところは訂正してもらいたいし、別の仮説が立てば、立てていただきたい。
第一に、固定した支点をどこかに仮設せざるをえなくなったことである。むろん、ぼくたちは(ぼくたち自身も外界の事物も)固定しているわけではない。また、ぼくたちの生活において固定した点などあるはずもない。地球の外に固定した点があれば、地球を動かすことだってできる、という賢者の言葉がある。そんな固定点のないことを身をもって痛感した人間のいったことだ。主体も客体も動いていて、決して停止することはない。流動が激しくて、存在するものは、ただ、次の存在によって消滅するためにだけ、存在するかのようだ。が、それが、そのままでは混乱をまねくだけだとすれば、あえて支点の固定を仮設する。それが人間の一つの大きな知恵というものだろう。乱るべくして乱れたのなら、そして、ルネサンスと宗教改革の時期ほどの乱れを見せたときは、少なくとも現代まで、なかったといってもいいが、それを避けずに、あらためて新しい秩序を求めようとする積極的な意志から生じた知恵である。テコの理論だけに矮小化してはいけない。ことは、ぼくたちの住むべき地球全体の根元的な混乱にかかわる。ルネサンスがギリシア・ローマを認めたとすれば、この辺だろう。
客体が動いているときは主体をとめ、主体が動いているときは客体をとめてみる、ということからはじまって、その中間に支点を求めたり、地平線上の一点に支点を求めざるをえなくなり、その支点を基準にして、主体と客体との関係をとらえてゆこうとする欲求が生じる。
同じ大きさのものが、遠ければ小さく、近ければ大きく見える、とぼくたちが知るのは、ぼくたちが動くことによって得た経験による。が、大きさの比較は、支点を固定したときに生じる基準をもとにして、はじめて可能になるはずだ。あたりまえの話だろう。が、キリストやマリアや聖者たちが、庶民と同じ大きさの姿でかかれた、ということは重要なことである。フィジカルな世界では同じ大きさに描くことによって、超絶的なものを質的に純化しようとする困難な努力の生んだものだ。この努力を行使させるにいたった原初的衝動をぬきにしたら、ことは機械的にすんでしまう。
第二に、目の前にひろがる空間と、その中にばらまかれた事物とを、あるいは、その諸関係をとらえる一方法である。 地平線の彼方に存在するはずの空間や、ぼくたちの背後に無限にひろがる空間には、明示的には(‘‘‘‘‘)あえてふれぬということである。背後にある空間、地平線の彼方に存在するはずの空間を、ぼくたちは経験によって知っている。が、あからさまには、いまそれにふれぬのが、この遠近法の節度である。
いつでも、ぼくたちの背後には空間がある、ということは、あるおそろしさを感じさせる。が、だからといって、そのたびにうしろをふりむいていたのではキリがない。今度は正面が背面になるだけのことである。乱世では、いつ正面が背面になるかわかったものではない。目で見てたしかめうる範囲はかぎられたものだ。どうやったところで目の前にひろがりうる空間には限度がある。とすれば、いまのところ、その限度内で、事物の諸関係ただそうとするのも一つの態度である。自己は神に見られるものという態度がなければ、こうはいくまい。
また、地平線は、ぼくたちが前進すれば、さらにひらけるのは、経験によって知っている。が、いまのところ、歩いてゆけると確信のもてるのは、地平線のところまでである。その範囲内において、関係を整合しようとする。(こういう明確な方向と、到達しうる距離という、有限の空間と時間とのみに保った節度が、逆に無限の空間と時間とを暗示するのだが、のちに、その節度の発想のときの状態が忘れられ、その成果としての明示的な有限の空間と時間とが設定され、その上に立って近世的な進歩の観念が成立することになる。)
第三に、当然のことながら、結果として他の感覚に対する視覚の優位が保証されることになる。視覚のみならず、聴覚、触覚その他あらゆる感覚を動員して、ぼくたちは生活し、動き、経験するのだが(絵画でも決して例外ではない)、しかし、そうした体験を、視覚を優位におくことによって統一しようとする。これは「声」によってしか知られぬ神、「言葉」である神に対する世俗の領域であろう。が、決して、世俗の勝利などというものではない。逆にいえば、「声」や「言葉」の領域をいよいよ浄化するために、あたうかぎり、視覚をはたらかせ、その限界をきわめようとしたことでもある。視覚の優位と結びついた「理性」がどれほど進んでも、「声」や「言葉」の領域を犯すものではないことを心得ていたといえるだろう。というより、視覚がはたらけばはたらくほど、人間の責任と神の領域との切断が明確になる。倨傲と敬虔とのすれすれのところにあるとはいえ、少なくとも、この遠近法の発見当初は、もっとも敬虔なものだったというべきであろう。
その他、透視図法的遠近法の成立する条件をあげればキリはあるまい。が、さしあたって、最後に、客体化にむかう衝動と意志と行為とをあげておこう。人間は、眼前にあらわれた事物に対して、その距離を測定し、動きをとらえ輪郭を与え、かたちをとらえ、量感をはかり、関係を見さだめ、名称をつけると安心する、というだけのことではない。「第一原因」に責任を転嫁せず、人間がとりうるかぎりの責任をとる一方法なのだ。外部の事物を客体化することによって、明確にしていったというだけのことでなく、同時に人間の内部のさまざまな問題も客体化していった。主体と客体との明確化なのだが、主体とは、結局、客体化するという行為を行う機能そのものであって、決して自分では客体化することのできぬもの、くりかえしいいかえれば、神に見られるものだと大作家は心得ていたし、それが、客体化という行為の核心だった。が、それを、いますぐそれと分るような、おもてざたにはしなかった。
ここまでいえば、マサッチオが散文的だと前にいった意味も分っていただけると思う。同時に、混乱に混乱を重ねる時代における散文の力も・・・・・・
マソリーノの叙情性にはこういう力がない。
混乱の時期、内部も外部も危機に瀕したとき、叙情詩を歌い上げることは、そのみずから歌う叙情性に身をまかせ、その詩句にすべてを包含させて、ある現実的な慰めをうる危険がある。包含といったのでは言葉が悪いかもしれぬ。さまざまな余剰には目をつむって、詩句を先立て、そのリズムとメロディにのって、行為する。ぼくたちの生理は、そのリズムとメロディにのることを阻止できないものだ。が、いったん、それまで見て見なかった余剰に気がついたとき、このリズムとメロディにのる行為に一種のむなしさをおぼえ、ふみとどまって、あらためて、四周を見まわす。内部だけで切り捨てていた外部の余剰は、どうしても内部では規制できぬものだ、と気づいたとき、今度は、自己を外部の事物に分散させ、そのことによって、関係をとりとめようとする衝動がおきる。散文による表現とはそうしたものから生じる。
作品を鑑賞するにはタイミングというものがある。
(鑑賞という言葉は、現在の日本語では、はなはだ、 単純な意味に使われていて、使うのに困るくらいだが、もともと、文字通り、鑑みて賞める、ということだ。 感銘をうけ、賞賛し、そうさせてくれた作品を通して、作者に礼をいうことである。 受動的に感銘をうけたら、今度は、その人なりに、積極的に礼をかえすことだ。)
秋のフィレンツェで見て感嘆したということ、同時に、他の場所でも見たはずなのに、少しも感銘をうけず、素通りしてしまったということは、この街独特の雰囲気のためかと、たまには思いかえさぬでもなかった。ことにぼくは独断的偏見の強い見方をする傾向があるから・・・・・・
一九七〇年夏、再びフィレンツェをおとずれたが、この二つの作品は猛暑を忘れさせる厳しさがある。どこにあっても確固たるものだ。
なお、H氏やF氏はその後どうしているだろう。六三年帰国後、まだ留学中のF氏の留守宅から、電話をもらったが、H氏とは無音である。経済史、経済学には無縁のぼくのことだから、その方面で活躍しているだろうが、分らない。あのとき話した絵の価格について、どこかに発表しているのなら、伝えてもらいたいものである。