確証の旅─ブリューゲルを巡って
芸術新潮
ミュンヘンにて
ぼくがブリューゲルのファンになったのは、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークで、なにげないかのように展示されていた小品「老農婦の顔」を見たときからである。一九六一年ミュンヘンとベルリンで開催された国際美術評論家会議と総会で、さんざん忙しい思いをしたことは前に述べたが、それでも、アルテ・ピナコテークには何度かおとずれた。そして、そのたびに、この小品に足をとめた。ぼくにとっては思い出の深い作品である。名もない貧しい農民の老女──老女ではないかもしれぬが、その貧苦のゆえに、また、それに耐えしのんで、日日のいとなみを果していった強さのゆえに、年よりも老いてみえるのかもしれない。肖像画をほとんどまったく描かなかったブリューゲルの、唯一の肖像画といえるかもしれない。とはいえ、一般にいわれる肖像画のうちにははいらない。誰某の肖像ではなく、名もない老農婦の、典型である。ちょっとみるとコッケイな相貌をしているが、この老農婦によせている作者の愛情がしみじみ伝わってくるように思える。 「農民ブリューゲル」とあやまり伝えられてきたのは、その由来とは別の意味で真実を伝えているようだ。
同じ美術館にある「逸楽の国」・・・・・・ぼくははじめ、この作品の風刺、戯画の意味を読んでしまっていた。つまり、「逸楽の国」とはバカものどもの天国、怠けものの天国である。うまそうな料理をのせたテーブル、パイをのせた屋根、その他、周囲には奇怪なものがさまざまにあらわれる。その一つ一つにネーデルランドのことわざがあるらしいが、そこまでのことは分らない。が、この奇怪な悪霊にみちた周囲に気づかず、木の下に寝そべる男たちは、悪魔にとらわれた不幸な罪人というわけではない。彼らは責任ある人間として行為する可能性をもちながら、それを知らずに、その責任を放棄し、食欲の奴隷になって、一時的な動物的しあわせのために、すべての誇りを失っている。騎士は槍をなげやり、学者は書物をおきざりにし、農夫は殻竿を放棄している。無知鈍感と怠惰──これは見方によれば、地獄よりも危険な場所である。
こんな風刺を読んでしまったことを、ぼくは間違いとはいまでも思わないが、実は、作品として、もっと大切なものがある、と気づいたのは、ずっとのちのととになる。
それに余談だが・・・
ミュンヘンでの総会と会議がおわったのち、出席者はバスに分乗し、東ドイツを通って、ベルリンに行くことになっていた。当時東西ドイツの関係は危険な状態になっていたので東ドイツを通って、陸の孤島のようになっていた西ベルリンに行くことは、ぼくには興味があった。東ドイツに入るのにヴィザがいるのかどうか、ぼくには分らなかったが、この会議には共産圏側の人々も相当数参加していたし、国際会議なら、別にさしつかえあるまい、と思っていた。
ところが、はじをはなすようだが、午前八時バスが出発ときいていたのに、連日の疲れで寝すごした。八時少し前、まだ寝ているうち事務局からホテルに電話をもらった。
「いや、申しわけない。まだベッドについていて、これから出かけるは・・・・・・というよりバスのところへ行くのには、どうも四〇分か小一時間かかるでしょう。ぼくにかまわず出発して下さい。明朝飛行機をたのんでベルリンの会議には間にあうことにするから。」
「少しなら待っているから、なんとかはやく来てくれませんか。あなたは日本部のプレジデントと、こちらは思っているのだから。」
「ぼく一人のために皆さんにメイワクをかけては申しわけない。どうぞ、そのまま規定通り出発して下さい。かならず、飛行機で間にあわせるから。」
寝起きまぎわのしどろもどろのいいわけをした。
「では、ぜひ間にあうようにベルリンに来て下さい。」
「かならず間にあわせるから。」
これで、ぼくは目を覚まし、もう一日ミュンヘンにいることになった。
ぼくは東ドイツを通れなくなったことをいくぶん残念に思いながら、オブリゲーションなしに、のんびり一日ミュンヘンを歩くことにほっとした。アルテ・ピナコテークをもう一度、市立美術館でカンディンスキとクレーの特別展(もちろん、バウハウスとの関連における展示)、そして、近代美術館へと、何回目かの訪問をした。すると、偶然、近代美術館の前で、ハマヘル夫妻にあった。
英語でいうスタウトなハマヘル氏は目が奇麗で、おだやかで無口である。夫人の方もそれにふさわしい。
いまから十年前のことだから、正確には覚えていないが、三人で茶をのんだように思われる。
「ハマヘルさんはベルリンに行かないのですか。」
「いえ、行くつもりですが、バスでは窮屈と思うので、あとで飛行機でゆくつもりです。でも、ひょっとすると忙しいので、オランダに帰るかもしれません。」
もちろん、ハマヘル氏は東西ベルリンのことは先刻承知だから、オランダに直行するのも、もっともな話ではある。
「ところでハマヘルさん、アルテ・ピナコテークの『老農婦』 をブリューゲルの傑作と思うのですが、あなたはどう思いますか。」
「私もあの作品は傑作と思います。 ブリューゲルの作品の中でも傑作の一つでしょう。あなたはブディストでしょうが、宗教をぬきにして、傑作でしょう。 それに 『逸楽の國』・・・・・・私はキリスト教徒だし、ずいぶん見ているから、そちらで理解する気になるが、あなたは、汎神論的に見ませんか、いずれからアプローチしても、そう変らないと思うのですが。」
こんな会話をしたようだ。はっきりは憶えていないが・・・・・・
ほかにピーター・ブリューゲル・子(日本では小ビーターで通っている)やその弟のヤン・ブリューゲル・父、グリューネワルト、デューラーなどの話も出たらしい(らしい、というのは覚えていないからだ。)
ほかにとりとめのない雑談をしたにちがいないが、すっかり忘れてしまった。
「雪の猟人」
話をそれから九年後、つまり、一九七〇年の九月、ウィーンのクンスト・ヒストリッシェス美術館で十数年のブリューゲルの作品のうち、まず、「雪の猟人」について感じたことをさきにはなしてしまおう。
いまではブリューゲルの作品の中で、有名すぎるほど有名になった「雪の猟人」・・・・・・一見すると、ブリューゲルの残存している全体品の中でまるで突然変異のようにあらわれる作品だが、この作品にも一貫したブリューゲルの必然的飛躍がうかがえるからである。
まことにみごとな冬景色である。月暦として、四季の連作?の一つだが、この風景は十二月とも一月とも二月ともいわれる。(四季といっても、あまり正確には分らない。グロスマンによると、この作品は一月、他に二月、七月、八月、十月ないし十一月の五点ということになっている。) いずれにせよ、即物的写生ではなく、 これまでの生活体験や画歴の集積から生じた総合である。
猟人、スケートをたのしむ人々、一方の氷面ではコルフをやっているのだろう、火をたく人々、そして、空に舞う鳥、枯れ枝にとまる鳥、遠景の山並み、空の青、・・・・・・それらをつつむしーんとした冬の空気。冬の音が聞えそうな寂寥の世界の中に、見るものも入りこむ。ここはもう、日常の時間からふっ切れた別の時間の世界である。
ひとつひとつの細密描写が全体の構成をこわすどころか、一段とその構想をひきしめ、日常のなんの変哲もない、いとなみが、そのまま人間全体のよろこびとも悲しみともなっている。ここでは季節に従う日々の営みがそのまま天地の理法にかなっている。しかも、清朗な空気の中では、もっとも平凡なものが、透徹した悲劇的様相をおびている。ここでもまた・・・・・・というのは超一流の作品はいつもそうなのだが・・・・・・色の光は、日常の色や光ではない。一見、日常のもののようでありながら、実は、それは外見上のことだけであって、さまざまな惨劇の現実を見、生きぬいた人間が、もっとも静かで清澄なもののうちにこそ、もっとも悲劇的なものがある、と感じとってしまったものだ。その色と光とは完全に日常性から切断されている。
それに、この作品は、どこで、どう切っても、そのまま絵になっている。「ひとつひとつの細密描写」といったが、見かけはまったくさらっとかかれているし、また、ブリューゲル特有の、個々のものが、──そういってよければ──まったく関係のないもののようなのだ。それが全体の構成の中に入ると、このバラバラな関係が、そのまま一つの宇宙を形成してしまう。そして、いったん、そうなった以上、今度はどこをどう切っても結果において絵になってしまうという複雑な絵画である。
「彫像にあっては、隻手もものを考える」とアランがうまいことをいっている。人体全体との有機的関係があれば、隻手だけ造形してもそうなるし、あるいは、もとは有機的な関係をもつ人体像がこわれて、隻手だけしか残っていなくとも、たしかに、すぐれた作品の場合にはそういえる。が、そういう意味なら、すぐれた絵画の場合にも同じことがいえる。が、ブリューゲルの作品にかかれる個々のものは、一見まったく有機的関係にないかのごとくなのだが、全体がかかれると、全体の構想の中で有機的にくりこまれ、そうなった以上、それが一断片に分割されても、それなりの絵画になってしまう不思議さがある。
ファン・アイク、ボッシュのところでもいったことだが、これはポリフォニーによってよほど訓練された感覚がないとできぬわざであろう。
もう一つの特徴は、ブリューゲルの作品を見たことのある人なら誰でも気づくことだが、人物が──猟人たちも、火をたく人も、ほとんどうしろ姿である。ほとんど、というのは、たしかに横むきの人物がいるにはいるが、実際は、その人物も、むしろ、うしろ姿といってしまいたいくらい、作者の方にむいていない。そして、ここで、いっておけば、うしろ姿というものは、知らず識らず、その人物の特性をあらわしてしまうものだ。逆説のようだが、その人物にあらわれるうしろ姿の特性とは、個人の特性を捨ててしまって、人間に共通した特性の可能性をあらわしてしまうものだ。
九年間話がとんでしまったが、しかし、話は順をおうことにしよう。
六一年夏、ロンドンのナショナル・ギャラリでブリューゲルの「マギの礼拝」にボッシュにつながるある形而上学的な妖気、悪魔ばらい的無気味さと、東方的ないし東洋的なもののいりまじっているかのような絵の性格に心ひかれたにちがいない。ぼくはもともと、ブレイクに惹かれていたので、それと関連して見てしまっていたかもしれない。
ナポリのブリューゲル
六三年秋ローマに滞在中、日本文化会館の井関正昭氏に世話になったことは何度かいったが、ある日、井関氏から連絡があり、当時、鎌倉の近代美術館員だった佐々木静也氏が来て、これからナポリへ一泊で行くことにしたけれど、よかったら一緒に行きませんか、といって来た。ナポリに行くまでは死ぬな、ということだが、それはともかく、ここの美術館には「盲人のアレゴリ」があるはず。それ一つだけでも見られればいい。ぼくは渡りに舟とでもいいたい気持で同行した。
午後三時半、井関氏の車でローマを出発、太陽道路をまっすぐ南下する。ローマを出るまでと、ナポリに入ってからとはかなり混んでいて時間がかかったが、太陽道路は一九七キロを二時間でついた。中間にドライヴ・インがあって、しばらく休憩した間をはぶくと、ずいぶんはやく走ったものだが、井関氏は慎重な運転であった。まっすぐで何もない道だっただけに、途中、左手に小高いモンテ・カッシーノが見えたのは印象的だった。第二次大戦の激戦地だった、この由緒ある場所に立寄る時間がなかったのは残念だったが・・・・・・
ナポリについて、話では聞いていたがローマを境にして、イタリアの北部と南部との貧富の差をまざまざと見せつけられた。途中の村々もそうだったのだろうけれどもまっすぐ太陽道路だけを走ったので分らなかった。が、このことは他の人がいろいろ言っていると思うので、ここではふれまい。ただ、遅い夕食を、井関氏のもっているミシュランをたよりにして、レストランでとり、夜中かなり遅くまでひと気のもうほとんどなくなった街をぶらぶらし、裏街まで通りぬけたが、アパートメントのならぶ道のペーヴメントは一応しっかりしているのに、たしかに貧しい人々の街だと思ったことである。これではもっと南や島にマフィアが血族的ないし氏族的集団として形成され、血を血で洗い、やがて、まず、 アメリカに移住するのも当然といえば当然かもしれぬ・・・・・・そんなとりとめない思いが裏街を通っていてしたものだ。閑話休題。
翌朝、さっそく美術館をおとずれた。ローマ時代の美しい「春」 その他にも感銘をうけたが・・・・・・
やがて、「盲人のアレゴリ」の前に立つことになる。はじめ見たときの印象では、なんとなくブリューゲルにしては絵が薄い気がした。が、この美術館を一めぐりして、もう一度見なおすと、絵がうすいのではなく、色のハバがきわめて狭い傑作だと気づいた。キャンヴァスにテンペラでかいためずらしい手法である。色のハバの狭いほど絵がひきしまるということを感じたブリューゲルが、キャンヴァスにテンペラというめずらしい実験をしたのかと想像したくなった。絵が薄いということと色のハバが狭いということとはまったく別の次元のことであり、それが、歴史的に確固として区別されたのは、セザンヌ、ルノワールをまたねばならなかった。
この作品は、コッケイなものとしてこれで笑ってしまえば、それですんでしまう。もちろん、ブリューゲルの画歴から見て、さまざまな解釈や教訓的意義を求めた上で、結果は、また、すべての意味を捨象した笑い、にかえってしまう。
「ウサギはウサギであり、カメはカメである。それ以外の何ものでもない」という言葉がある。もちろん、さまざまな意味づけと教訓(‘‘)に対して、いった言葉である。が、結局はなんの意味ももたせずに、そのままうけとるのが正しい。そうでないと、逆のアレゴリが生れる。最近カメはウサギに勝ったことを知り、それから万巻の書を読破したが、カメがウサギに負けた例は一つもない。そこで、カメはウサギに競走を申しこんだ。もちろん、カメはウサギに負けてしまった。
だが、この「盲人のアレゴリ」はマタイ伝一五章一四の盲人の比喩がひきあいに出されるので、一応はそれについてふれておかねばなるまい。
「彼らを捨ておけ、盲人を手引する盲人なり、盲人も
し盲人を手引せば、二人とも穴に落ちん」
むろん、ブリューゲルの作品は六人の盲人の巡礼だが、意義からいえば、そうちがったものではあるまい。それに、この比喩はネーデルランドにもあるということだが、ブリューゲルは、むしろ聖書に直接もとづいているといった方が正確だろう。 ネーデルランドでセキュラライズされたことわざを、発想の状態にかえし、正したという意味で。
実際、マタイ伝一五章一四だけを前後の文脈からひき出してきただけなら、冒頭の「彼らを捨ておけ」のすさまじい言葉の意味は不明だろう。少なくとも一五章一〇から二〇までの文脈のうちで、この比喩でしかものいわぬイエスの言葉が何かしら分ったような気になる。
ブリューゲルの時代、 ネーデルランドは宗教改革の旗じるしのもとに、カトリック・スペインと長期にわたる血みどろな独立戦争を戦っていた。その結果、北部七州は成功してオランダとして独立し、南部はついに敗北におわった。
ブリューゲルがカトリックなのか、プロテスタントなのか、プロテスタントのうちでもルッター派なのか、それとも、当時次第にネーデルランドにも進展してきたカルヴァン派なのか、実際のところ分らないといった方がよさそうだ。強い信仰をもったキリスト教徒にちがいはないが、ぼくの憶測では、どの派にも属さず、「聖書」そのものを唯一のよりどころとしていたようだ。だから、宗教戦争は──「聖書」の言葉を唯一のよりどころとしていたものにとっては──宗教を口実とし、セキュラライズした──そして、それだけに残虐な戦争にうつったにちがいないように思われて仕方がない。
この精神の政治学が、ブリューゲルをボッシュに近づけたにちがいない。むろん、ブリューゲルの生れたのはボッシュの死んだ後で、年代的にはかなりのへだたりがあるにせよ、また、その間に、ボッシュの影響をうけて怪奇な世界を描いた画家は必ずしも少なくないが、やはり、ボッシュを正統にうけついだのはブリューゲルである。しかも、ボッシュの怪奇な、いわゆる「逆宇宙」の世界を、一応、日常的次元にまでひきもどしている。
カトリック・スペインの宗教裁判は、ブリューゲルの同胞をつぎつぎと虐殺した。 ブリューゲルの描いた一連の宗教的題材の絵は、ほとんど、すべて、この圧政に対する抗議だった。と同時に、圧政をうける側の弱者への批判だったように思える。
マタイ伝一五章一四にすぐつづいて、「ペテロ答へて言ふ
『その譬を我らに解き給へ』イエス言ひ給ふ『なんぢらも
今なほ悟なきか。凡て口に入るものは腹にゆき、遂に廁に
棄てらるることを悟らぬか。されど口より出づるものは心
より出づ、これ人を汚すものなり。それ心より悪しき念
(おもひ)いづ、すなはち人殺(ひとごろし)、姦淫、(かん
いん)、淫行(インかう)、竊盗(ぬすみ)、 偽証(ぎしよう)
誹謗(そしり)これらは人を汚すものなり、されど洗はぬ手
にて食する事は人を汚さず』(マタイ伝一五章一五一二〇)
ペテロにさえ「なんぢらも今なほ悟なきか」とつっぱなした言葉と、「彼らを捨ておけ」というすさまじい言葉とは呼応しているにちがいあるまい。キリスト教徒でないぼく、単なるイエス・ファンにすぎぬぼくのいうことだから、この辺、誤りがあればただしてもらいたい。
こういう精神の政治学を身につけた人間だから、客観的に事物を見ることができる。(客観的見方と傍観的見方とはまったくちがうものだということは、前に述べたつもりである。) 宗教を口実とした戦争は、人殺、 姦淫、淫行、竊盗、偽証、誹謗を、比喩的にいえば、手をよごさずに、とりかえしえぬまでに世にばらまいてしまった。
「盲人のアレゴリ」にしても、また、数多くブリューゲルの作品に出てくる「いざり」にしても、また、他の、「かたわもの」にしても、すべて同じ態度でかかれたものだ。人間はすべてめくらであり、いざりであり、かたわものである。無知鈍感と怠惰のゆえに。生半可な同情など無用であり禁物である。加害者の方にばかり責任があるのではなく、被害者の側にもそれなりの責任がある──そう見きわめてしまった人間にとっては、それまで人間の存在をおびやかしたすべての諸関係はもうなんの表情をしめさない。 「盲人のアレゴリ」のみでなく、あのうしろ姿を見通す態度、顔はほとんどまるく四つの点だけがうってある一種の類型化・・・・・・しかし、「今度は人間の方がほほえむ。」 この笑いは、ただの滑稽な笑いではない。・・・・・・と条件をつけたのち、もう一度つっぱなして、ただ滑稽な笑いと見て、さしつかえあるまい。
六人連なった盲人のそれぞれの表情、小さな教会のあ背景のおだやかな風景との不協和音が、全体の中で、整合されていることは複製で見てもすぐ分る。
ここまで来れば、いままでいいつたえられてきた「農民ブリューゲル」の呼名はたしかにおかしい。むしろ、叡知をもつ、知識人ブリューゲルといった方が本当だろう。自分自身、知識人と思っていたにせよ、いなかったにせよ。あるいは知識人やユマニストのもつ文脈に入らぬ叡知がある。
美術館を出て、海辺に行きナポリの海を眺めながら昼食をとってから、ヨット・ハーバーを見にいった。余談になるが、佐々木氏はヨット・マニアで、その年二人乗りのヨットをアテネに送り、それで約一ヵ月間、友人とギリシャ沿岸の島々をまわってきたといい、そのたのしさをさかんに話していたのである。ぼくはギリシャ正教が東欧を通ってロシアに向った経路には興味がある。ギリシャ沿岸から多島海をヨットで一ヵ月ほど周遊するのに興味があるものの、ヨットに乗ったことがない。
「大丈夫ですよ。客の十人ほどの個室があり、船長とクルー二人、それにコックがついた大きなヨットが一月一万ドルくらいで借りられ、好きなところへ行けるんです。もちろん、こんな船では操作は客にはさせませんよ。」
と佐々木氏はいう。「ちょうど、このくらいのヨット、いや、もう少し大きいかな」と泊っている船をさした。
「それなら、気のあった人が、日本人、外国人をとわず、十人ヨーロッパに集まっていれば、するつもりになれば、できないことはない、だが、そううまくタイミングがあいますかね。」
しかし、残念ながら、ギリシャ正教の伝播していった東欧にはいっていない。
ブリューゲルあれこれ
七〇年夏、ぼくはファン・アイク、ボッシュ、ブリューゲル、それにフェルメールの系譜をたどるのが一つの目的であったことは前にのべた。
パリにいたとき、江原順氏がこんな風にぼくにたずねた──ブリューゲルはお分りになりますか?」
この言葉の意味を単純にとればなんでもないのだが、話のコンテクストから、こういう意味だと思った。──自分もブリューゲルにひかれ、その作品や伝記をいろいろ研究したが、どうも謎につつまれていて、よく分らない、あなたはどう思うか、と。
「あなたは十年フランスに暮し、ことにシュールレアリスムについて研究している。ブリューゲルについてもずいぶん勉強している。それで分らないとなると、ぼくにはまるで分らないところがあるといった方がいいでしょう。あの泥沼の混乱時代にまきこまれて、ある意味で、かなり優遇されていたという説があるとなると、謎が多すぎるでしょう。」
この謎ときは、ぼくには不可能にちかい。いうまでもなく、超一流の画家は、はかり知れぬ深淵のような謎をもっていて、その謎ときには可能性だけは残されているものの、追求すればするほど、結果において、また謎にかえってくるものだ。だからこそ、芸術作品は人間の思考を深める上に、哲学以上のことをしてきた。
ヨーロッパの美術史家で、ブリューゲル研究家たちが、二十世紀になって、その経歴となる文献を少しずつ発掘し、比較し、・・・・・・ということになると、ぼくにはそういうことは分らぬといってしまった方がいい。生きているうちは大画家とみとめられていたし、死後も二世代ないし三世代の間は大画家と認められていた。ちなみに、ボッシュの作品を好んだスペイン王の命令で、その作品のカタログをまとめた僧は「多くの画家がボッシュの影響をうけた。ピーター・ブリューゲル・父は最大の後継者である」と記録している。が、その後ほとんど忘れさられたのは、おそらく、ベルギーに入ってきたロマニストたちの絵が好まれたからであろうか。
紙数がないので急ごう。ベルギーのブリュッセルで見たブリューゲルの作品と、それを模写したピーター・ブリューゲル・子との作品の質のちがいは驚くほどである。
途中を割愛して、最後に、もう一度ウィーンの「バベルの塔」にふれておきたい。
おそらく、これは、カトリック・スペインの圧制を風刺したものだろうが、・・・・・・コロセウムを思わせる塔の左側の背景中間にある街の風景。これはどこの風景か分らぬが、ベルギー、オランダの街そのままの感じである。が、それよりも、ぼくは、この街並みが、パウル・クレ―の街のたたずまいとそっくりに見えたのには驚いたというほかない。ぼくはロッテルダムにあるはずの、もう一つの「バベルの塔」を見ていないので、比較はできないが。
この大きな建物を中心にした壮大な風景、点景人物、雲、空、・・・・・・これは、まるでそれぞれがちがった音を出す楽器のオーケストレーションのようだ。
それに、もう一点、左上方の背景の山々がセザンヌの「サント・ヴィクトワール」を思わせる「十字架を運ぶキリスト」がある。
精神の政治学で、この困難な時代を謎のように生きぬいた作家の最後の作品の一つ「絞首台の下の踊り」は「ヴアン・マンデルによると、死んで行った芸術家から妻への贈りものであった。これは死の床についたブリューゲルが破壊するように命じた一群の絵のなかで、たった一枚だけ残されたものである。これらの絵はあまりはっきり圧制者アルバの統治を風刺的に批判しているので、彼はそれが妻や幼い子たちに災難をもたらすことをおそれたのであろう」(久保貞次郎)
この話が歴史的事実であろうと、あるいは伝説であろと、ある真実を語っている。