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確証の旅─ファン・アイクを巡って(2)

芸術新潮

 一九六一年、一ヵ月ほどのイギリス滞在からサン・パウロに直行した。なんとなくうしろ髪をひかれる思いだし、ぼくとしては、そう急いでサンパウロに向う必要はあるまい、とは思ったのだが、ブラジル駐在の大使館からイギリス駐在の大使館を通して、矢の催促である。「途中なんのお話もなく」ということになればいいのだが、実はかなりの話があった。が、ここでそれにふれても仕方があるまい。一九六一年のビエンナーレの審査のいきさつについても、その折、本誌に書いた記憶があるので省略しよう。
 ただ、そのとき、審査員として同席したベルギーのランギだったか、オランダのヴルームだったか、また昼食の折か、何かのパーティの席だったか覚えていないが、こんな風に聞かれた──
「ヨーロッパ滞在中、ベルギー、オランダはどうだった?」
 たぶん、ファン・アイクかフェルメールの話が出たときだったろう。
「残念ながら、訪ねる時間がなかった。」
「なんだって!バリやロンドンに長くいて・・・・・・いずれにせよ、アムステルダムやブリュッセルならすぐなのに。あなたはサン・バウロからリオ・デ・ジャネイロに往復している。その距離、時間と同じくらい、いや、もっと近いのに。」
「距離はたしかにそうだが、訪れるにはそれなりのタイミングがある。いつか、かならず、ベルギー、オランダに行く機会を是非得たいものと思っている。」
 ファン・アイク、ボッシュ、ブリューゲル、それにフェルメールはなんとしてもじっくり見たい画家だから、ぼくとすれば当然のことだろう。 じっくり見たいから、タイミングが要るのだ。
 だが、その機会を得たのは、なんと九年後一九七〇年になってしまった。
(実は一九六三年にもヨーロッパに行ったし、その時期ベルギーのブリュッセルで「ブリューゲルとその時代」というかなり大がかりな展覧会があった。興味はむろんあったし、パリ滞在中、誰だったか忘れたが、一緒に行こうと誘われたのだが、やはり行かなかった。その理由をいうには手間暇かかるので、ここではいうまい。その上、もっともらしい理由づけは一応できたにしても、本当のところ、なぜ行かなかったのか、ぼく自身にもよく分らぬのだから。強いていえば、ぼくは勝手気ままな旅をしたかったからだろう。)

   メトロポリタンの二点
 ブラジルからの帰途、ニューヨークに数日滞在し、メトロポリタン美術館で見た、ファン・アイクの「磔刑」と「最後の審判」にふれておこう。
 これは少なくとも、いまではなくなった中央の祭壇画の両翼としてかかれたものだろう。ファン・アイクがはじめミニアチュア画家として出発したこと、 「トリノの祈禱書」のミニアチュアはすでにミュアテュアの世界ではないことは前号でのべたが、やがて、ファン・アイクはパネル画にむかってゆく。 「磔刑」と「最後の審判」とは「トリノの祈禱書」の直後にかかれたものと思われる。
 左翼の「磔刑」はいわばヘリコプターから見おろしたかのように見えるが、これは作者が透視図法的遠近法の約束をやぶらずに場景を明確に語る方法を追求し、構成したものだ。問題なのは、この「科学的遠近法」の追求が画家の創意と情熱と密接に結びついていることである。もし、作者が地上におりたら、前景の人物像を大きくしなければならず、その結果、視界はさえぎられてしまう。もっともこの方法は初期のもので、のちには、透視図法的遠近法はさらに飛躍する。
 右翼の「最後の審判」は、現実の深淵を見てしまったものが一度はかかねばいられなくなる、いわば、悪魔ばらい的な破壊力をもつ想像による世界である。ファン・アイクは他のところでは極力おもて立てない強烈なアクションと表現力とをここにそそいでいる。この地獄図は、普通キリスト教徒と思いこんでいる人々の、ふだん、見て見ぬふりをしていた悪魔の力──キリストの力とほとんど頡頏するカ──と、悪魔ばらい的な力をもってイエスが闘争し、疲労困憊のはてにひっとらえた一つの象徴である。福音書の世界をおびやかす悪魔の力が力強ければ強いほど、キリストの世界は強くなる。
 左翼の群衆にしても、また、ことに右翼の、地球を一皮むいたような地獄図にしても、この混沌とし、重なりあう構成に、色の混濁がない。この世界はのちにボッシュ、ブリューゲルにつながるのだが・・・・・・これ以後ファン・アイクはおもてざたにしなくなる。 ファン・アイクのこの後の作品を清朗さは、この悪魔ばらい的な力を秘めている。いいかえれば、悪魔のもつ強力な激しさをかくしたり、避けたりせず、むしろ、渾身、全霊の力をとめてなすがままにさせた上で、そっくりひっとらえ、画面の底に秘めることによって、聖なるものを求めるにいたる。
 毒麦の比喩がある――
『天国は良き種を畑にまく人のごとし。人々の眠れる
間に、仇きたりて麦のなかに毒麦を播きて去りぬ。苗
はえ出でて実りたるとき、毒麦もあらはる。僕ども来
りて家主にいふ「主よ、畑に播きしは良き種ならず
や、然るに如何にして毒麦あるか」主人いふ「仇のな
したるなり」僕ども言ふ「さらば我ら往きて之を抜き
集むるを欲するか」主人いふ「いな、恐らくは毒麦を
抜き集めんとて、麦をも共に抜かん。両ながら収穫ま
で育つに任せよ。収穫のとき我かる者に、まづ毒麦を
抜きあつめて、焚くために之を束ね、麦はあつめて我
が倉に納れよ」と言はん。』(マタイ伝一三章二四─三
〇)
 毎年麦が生長すれば、毒麦も成長する。 麦も毒麦も、種まく人も仇も、また、その行為も、すべて人間の本来もっているものだ、ナドとことで解説する必要はあるまい。この問題をいまここでいうのはさしひかえるが、ぼくの考えでは、「最後の審判」の思想はこのイエスが比喩でいった言葉のセキュラリゼーションであろう。ヤンの精神の政治学は、一度はぼくの推量によればこのセキュラライズされた問題を通らねばならぬことを知っていたと思われる。
 年代的には、この作品のつぎに、ガン(ゲント)の「神秘の小羊」の祭壇画があらわれるのだが、これは、のちにふれよう。

   精妙な光・色彩・空間
「アルノルフィニ夫妻」について、もう少し書いておきたい。前号に載せた複製でかなりお分りのことと思うが、実はこの複製の色にもう一つ、なんともえたいの知れぬ空気が画面全体を絞っていると想定していただきたい。
 光が左の奥の窓から入り、背景の壁や鏡にあたり、右側の赤いベッドを経て、妻から夫へと移行する。同時に、画面には見えない(ただし、鏡にはうつっている)が、当然もっと手前にある窓からの光が夫の左側と妻の正面にあたり、こんどは、前の光とは逆の方向に動く。鏡の反射、そして、ごくわずかにシャンデリアの反射は、また別の光を生じる。わずかに左はし上部にストライプに見える外光、それが明けられた窓と、ステンド・グラスを通して、室内に入ってきて、なんともいえぬ空気がかもしだされる。まったく、複雑な光の配合である。
それを精密に、色だけでかきわけている。奥の壁にかかっている鏡は──この作品自体が約81×55だから、どの程度小さなものかお分りと思われるが、この鏡にこの室内の状景が正確に映っていることは前号にのべた。
夫妻、シャンデリア、壁と鏡の奥行きは、ハバの狭い色彩だけで、十分明瞭である。ポリフォニーがフランドルで最もはやく発展したということになれば、音楽史や、音楽の約束事を知らぬぼくにも、うなずけることである。ポリフォニーで訓練された感覚がなければ、これだけ複雑な色彩が少しのくるいもなく整合されるわけはない、とさえいいたくなる。
 驚くべき手練だが・・・・・・しかし、それだけのことならば、構図上の問題であり、またのちに定義化された空気遠近法の問題にすぎない。「私のできるかぎり」、外見上、いわゆる科学的探究をした、その根元的な衝・・・・・・自分の責任をあたうかぎりの厳格さをもって追求しようとし、実際に行為におもむくことは、宗教感が極度に強くなければできぬわざである。ことに宗教画でない以上。

 ファン・アイクの作品には、鏡と木とがよく描かれている。木や鏡に映る光の反射と吸収によって、物像の色はさまざまに変化する。もし、色彩によって「実物」と鏡や水にうつる反映とを描き分けることができたら、のちにいわれるようになった、いわゆる空気遠近法を技術的(‘‘‘)には十分修得したことになる。いうまでもなく、空気の層の厚みによって眼前のすべての物象は、遠く離れれ青味をし、灰色を帯びて変化する。が、二次元の平面では、現実の変化、つまり色の幅をそれほど広くとるわけにはいかない。すべての色の幅は現実のものより狭くなるが、そこには、全体を統合するメドがいる。ここからヴァルールの問題が出てくるのだが、メドがあるかぎり、色の幅は狭ければ狭いほどいい。ヤンにしても、レオナルドにしても、油彩の色の幅は、その後の画家たちよりはるかに狭い。たぶん、ヤンやレオナルドにはフレスコやテンペラ、またはミニアチュアの記憶があったからだろうとも推定されるが、それだけのことではあるまい。それに、おそらく、ヤンの鏡は背後の空間を明示的にとらえようとする努力のあらわれであろう。(ごく最近まで、そしていまでも、画家がヴァルールによる遠近をたしかめるために黒鏡を用いることは常識になっている。)

 一九七〇年夏、ようやく、ぼくはベルギーを訪ねることができた。ヨーロッパ訪問は七年ぶりである。その間、一、二回、渡欧する機会がなかったわけではないが、さまざまな条件があって、出かけることができなかった。
 私事にわたるが、七〇年の夏三ヵ月ほどの旅行中、はじめの一ヵ月余は、姪が一緒だった。ちょうど、大学三年の夏休を利用して、二十日足らずの団体旅行を申込もうとしていて、知っている人が一人もいないので、多少躊躇していたときだった。ぼくが行くと知って、一緒について行ってもいいかときかれた。ぼくはつねづね思っていることだが、大学生のころに短期でもヨーロッパの空気にふれておくととは望ましい。そうすれば、次には自分で行くのがオックウでなくなる。時期的にぼくの同世代の人々のできなかったことだ。
 見知らぬ人と見知らぬ国を訪れるのも悪くはあるまいと考え、団体旅行のスケジュールを見たら、猛烈というほかない日程がくまれている。これでは見たが見たになるまい。ヨーロッパの空気にふれたがふれたになるまい°
 ことに日本人だけの三、四十名の観光旅行では・・・・・・
 そこで、ぼくの旅程の邪魔をしないこと、そしてゆっくり、ロンドン、パリ、イタリア諸都市を一ヵ月余で見、ひとりでバリから帰ることという条件ならば一緒にいってもいい、ということになった。なお余談だが、ただし、一日だけでも海水浴をさせてくれという。南仏に行くつもりはないが・・・・・・そう、ヴェネツィアのリドなら、一日、こちらがつきあおうということになった。
(この海水浴はぼくにははじめての経験で、それなりのおもしろさがあったが、そこまでふれるのは筋道がはぐれる。)
 ロンドンのナショナル・ギャラリでも、パリのルーヴルにしても、その他の美術館にしても、ぼくは自分の見たいものしか見ないが、姪には姪のペースでまわるように間をとり、その間ぼくは室の内外の椅子に腰かけて、ぼんやりしていたり、先に行って再三見ていて、もう一度確かめたい作品をじっくり見た。そうした作品についても、ぼくは姪にほとんど解説はしなかった。絵画について・・・・・・
「空気がかけているだろう。もっとも空気といっても、ぼくたちをつつんでいる普通の空気ではなく、別の空気が・・・・・・」 たぶん、それしかいわなかったようである。
 それが、姪には当分の間、なんのことだか、さっぱり見当がつかなかったようだ。当然である。大学の三年生で、はじめて見たヨーロッパの真作、 一家をなした画家群、それを底辺とした大作家、その大作家のうちでも格が一つちがう超一流の作家・・・・・・その相違が、自分なりに納得できるわけもあるまい。ぼくとしても、そんなことをいちいち解説する気にはならない。 「空気がかけているだろう・・・・・・」それで分らなければ分らないでいいのである。
が、フィレンツェでピエロの「ウルビノ公夫妻」を見たのち、カフェ・テラスでコーヒーを飲んでいたとき、
 「空気がかけている、ということが、なんとなく分るような気がしてきました。」と、いきなりいい出した。
あまり、唐突なので、こちらもドキッとしたが、
「本物を見て、それが分りかけてきたような気になれば、それだけでいいんだ。ほかのこまごました解説は、いまのところ、どうでもいいんだよ。」
 ローマに戻ったとき、日本文化会館長の宮崎氏に夕食に招かれ、談が美術に及んだとき、姪は同じような言葉を口にした。
「叔父は空気がかけているだろう、空気がかけているだろう、としかいわなくて、何のことかさっぱり分らなかったのですが、やっと分りかけてきたように思います、まだ、なんとなく、なのですが・・・・・・」
「それに気がつけば大変なものです。ヨーロッパに来たかいがあったというものです。」と、同席していた井関氏が間髪いれず返事してくれた。
 宮崎夫人は画家なので、微笑をうかべてうなずいた。
「ルネサンスでは、誰がいいと思いますか?」
と井関氏が、今度はぼくにきく。
「そうですね、大ざっぱにいえば、イタリアでは、ジオット、マサッチオ、ピエロ、レオナルド、それに彫刻のミケランジェロでしょうか、フランドルからネーデルランドにかけては、ファン・アイク、ボッシュ、ブリューゲル、すこしとんでフェルメール・・・・・・」
「なるほど、初期ルネサンスの、あの空気・・・・・・」
「空気といっても、みなそれぞれ違っていますがね。」
 こうなると、美術について、とめどなく話すことになる。館長の宮崎氏は、元トルコ駐在大使だから、イスタンブールの手芸品にまで興味深くきき話がつきない。明け方まで歓談することになってしまった。

   ベルギーの旅
 パリに戻ってから、姪を帰し、あとは、パリを根拠地にしてひとり旅である。
 ベルギーにあるファン・アイクについて話そう。
 パリで、江原順氏と会ったとき「あなたがベルギーに行かれるなら、ランギさんとレヴィさんに手紙を出しておきましょう、二人ともあなたが来るとなれば、大歓迎でしょう。それに、松尾隆一君という若い画家がレヴィさんと親しいから、そちらにも連絡するようにしておきます。」といわれた。
「勝手気ままに見て歩くのだから、そう面倒をかけなくともいいんだが・・・・・・」
「いや、あなたが来るということを、もう前もって報せたら、是非お待ちするという返事が来ているんですよ。ブリュッセルに来る日時を報せるよう、いわれているので・・・・・・」

 ブリュッセルに着いたのが午後一時半、それからホテルに着くまで四、五十分かかったろうか。ひと休みしてから、ちょっと散歩し、夕刻、リリ・レヴィ夫人に電話した。翌朝九時に迎えに来てくれて、一日中、ブリュッセル市街を案内してくれた。午前中、美術館とサンカントネールを見、レヴィ夫人宅に連れてゆかれ、昼食をご馳走になった。初対面の外国人を自宅に招き、食事を共にする、ということは、いままで、ずいぶんヨーロッパ人とつきあったが、はじめての経験で、こちらは大変とまどってしまった。 が、別に他意はない。レヴィ夫人はベルギーの美術評論家連盟の事務局長みたいな仕事をしていて、会長のランギから、ぼくのことをよく聞いている、という。
「ランギに連絡しましょうか?すぐ出かけてくると思いますが。」
「いや、ランギさんとも会いたい気があるが、大変忙しい人だから、会いたくなれば、こちらから行くとして、別にいますぐ会う用はないのです。」
 昼食の間、いろいろな話が出たが、レヴィ夫人はドイツ生れ、先年死んだ夫はドイツ系のユダヤ人画家のため、ナチに弾圧され、ベルギーに亡命した、という。ベルギーに亡命したのちも、大戦中は、地下にもぐって大変な苦労をしたことは推測にかたくない。ナチへの憎しみ、独裁者、それに追随するものに対しての憎しみは、この人の一生なくすことのできぬものだろう。逆に、ナチや独裁者に反対の立場をとる人には、心の底から親密感をもつのもうなずける。
 昼食後、市中を案内してくれたのち、ウォータールーに行ってみましょうか、という。
「あなたさえよければ。」としか返事のしようがない。
 ウォータールーのみやげ品は、ほとんどナポレオンに関係するもので、これにはちょっと驚きもし、また、当然のような気にもなる。
 平原を歩きながら、レヴィ夫人はこういった──
「ナポレオン、シーザー、ヒットラー・・・・・・みな同じ運命をたどるのですね。」
 夕食もまたレヴィ夫人宅でとり、ファン・アイク、ボッシュ、ブリューゲルの系譜、ことにファン・アイクを見たいというと、大変丁寧なメモをつけてくれた。

 その夜、ホテルの案内係に翌八月三十日の朝ガン、ブリュージュへ行く列車の切符を頼むと、ブリュージュはお祭りがあって大変混む、ちょうど、ガン、ブリュージへ日帰りの観光バスがあるので、それで行った方がいい、という。観光バスはおしきせだから工合が悪いが、そういう事情なら仕方あるまい。
 ガンではまずサンバヴォン聖堂に入る。入口で客たちがガイドの説明をきいているうちに、ぼくはひとり先に、まっすぐ「神秘の小羊」の祭室に入る。この作品は、フーベルトとの関係で、さまざまな言伝えがあるが、それにふれても仕方があるまい。全体のかたちから見ると、三翼祭壇画にちがいないが、実際にはポリフォニックな多翼祭壇画と見るべきだろう。一四二五年頃から三二年頃までに、おそらく、とびとびに描かれたものだろう。あまりに有名だから、いちいちの解説はいるまい。ただ、こういっておかう──十数点のパネル画は、見、なんの連絡もない、独立した作品だが、こう組み合わすと、不思議に整合されてくる。 透視図法的遠近法追求の初期のかたち、細密描写、色の美しさ・・・・・・、そうしたさまざまな要素が整合されているが、それから二、三年後のあの「アルノルフィニ夫妻」や「ニコラ・ランの聖母」のかもし出す、どんな深みから来るともらぬ空気が見えない、とあえていいたい。
 サン・パヴォン聖堂を出ると、昔のままの掘割や石橋が、美しい。あたりを散歩する時間はあった。が、美術館には案内しない。どうしてかガイドに訊ねると、人が多すぎる上に、ブリュージュのお祭りを見るので、という。ガンにはもう一度来るからいいとして、お祭りとはなんだ、ときき、ガイドが答える間のないうちに、観光客が、もうすっかり、バスに乗りこんでしまった。途中、運河のほとりに立つ、ゴシックからバロックにかけての家々が、軒をつらねている様は、たしかに壮観だし、不調和なかんじをいだかせないのは、さすがだった。
ブリュージュではノートル・ダム聖堂でメムリンクの作品と、ミケランジェロが十八歳の時創った聖母子を見たのち、すぐさま、デュク・ダムール広場に面したレストランの二階で昼食になった。
 実は、ガンに行くまでに、ぼくの真横向いに一人の日本人がいるのにたがいに気づいていた。レストランに入るとき、ご一緒しましょう、とぼくの方から声をかけるまで、何もしゃべらなかったようである。
 この広場はブリュッセルのグラン・プラスに似たものだが、ぼくたちが着いたとき、かなりの人ごみである。見ると、桟敷席がつくってある。家々にはブルゴーニュ家の紋章のある旗がつるしてある。ここで何かお祭りをするのだろうとはすぐ分る。
 が、それにしても昼食がバカに長い
「何がどうなっているんでしょうね。」と物療医学の教授X氏がいう。オランダとロンドンで学会があり、それに出席する合間に見物にきたという医学者である。
「ぼくにも分らないのですが。」と、あらためて、このバスの観光ルートを見たら、この日と、その一週間前の 日曜との二回、ブルゴーニュのシャルル・ル・チメレールとイギリスのヨークのマーガレットの結婚記念のバレードがこの広場で行われる、とある。
 しまった、こんなものを見に来たのではない、と思ったが、考え直した。フランドルごとにブリュージュがブルゴーニュの支配下で最も強勢をほった時代、つまり、一時代前シャルルの父フィリップの時代、ファン・アイクの活躍した時期である。当時の衣裳をつけたパレードなら、それを見るのも一興と、こちらも居すわってしまった。
 シャルル・ル・テメレールはフィリップの死後、当時の複雑な王族同士の関係の中で最も激しい役割を演じた、名の通りの戦闘好きな男で、ブルゴーニュもフランドルも取り返し、力をもりかえそうとするフランス王を制肘するため、諸公の同盟をつくって、その盟主的存在になったが、最期は泥沼の中で戦死した、といういい伝えくらいしか、ぼくは知らない。
 パレードを見ながら、そんなことをX氏に話したが、なんと、このパレードは二時間半かかった。その間、美術館に出かけようとしたが、広場が超満員で、とてもぬけ出せそうもない。もう一度、来ようとその日はあきらめた。

 このパレードは栄光と残虐、華美と陰鬱とのまじりあった長い長い行列で、それを話すのもおもしろいが、いまはその場所ではない。パレードが終っても人ごみで、ホテルに帰りついたのは十時頃だった。先日、レヴィ夫人が、帰ったら電話してくれといっていたので、遅くなったが、すぐさま電話した。
「それは残念でした。明日私が案内したいが、実は夫の遺作展の準備のためアントワープに行く用事があるので、これからすぐマツオに連絡し、翌早朝二人で、あなたのホテルへ行き、マツオがよければ、その車で案内するように話しましょう。」
 そこまでしてもらっては過分である。自分でまわるから、と遠慮したが、先方の話が決しておしつけがましくない好意的なすすめで、再三くりかえされるので、断わる余地がなくなった。実は、その前日、レヴィ夫人と話しているとき、松尾隆一氏の名が出、同氏がぼくに会いたがっているが、さしつかえなければ一度会ってくれないか、という話があった。ぼくは、ヨーロッパにいる若い作家のアトリエはできるかぎり訪ねることにしているから、よろこんで会おうといってあったのである。
 翌朝八時頃二人そろって訪ねてくれた。
 ぼくがまだアントワープに行っていない、と知ると、レヴィ夫人は、ひょっとするとアントワープの美術館が午前中くらい開いているかもしれぬ、といって、ホテルから電話してくれたが、美術館の責任者がいないので、どうなっているのか分らない、という。
 松尾氏は、「無駄になってもアントワープに行き、それからガン、ブリュージュをまわる時間があるから、そうしましょう。」
 こちらはあなたまかせである。
「で、だいたい何時くらいに帰れますか。」
「午後七時ごろには帰れるでしょう。」
「では、いかがでしょう。こころばかりのお礼として、今夕八時、レヴィ夫人と松尾さんとをホテルの夕食にお招きしたい。レヴィさん、その時分にはお仕事はすんでいますか。」
「もちろん、仕事はすんでいますから、よろこんで参りましょう。」
こうして、松尾氏の案内でまわることになった。
 アントワープの美術館は閉館してある。やむを得ぬ。すぐブリュージュに向う。
「ファン・アイクを先に見ますか、メムリンクを先にしましょうか。メムリンクを先にした方がいいと思いますが・・・・・・」
「メムリンクを先にしないわけにはいかないでしょう。ぼくのカンでは、ファン・アイクを見たあとではメムリンクは素通りになりそうです。」
 オピタル・サン・ジャンのメムリンク美術館に入る。
「聖母像」の前で、松尾氏は、
「日本から来て、はじめて、この作品を見たとき、マティエールに泣きました。」
ぼくは厳粛な気になった。泣く、とは文字通りの意味か、それとも、そうでもいわなければこの幸福な感動をあらわす言葉が見つからないのか、いずれにせよ、日本から来て油彩画の、この美しい画面に感動したということは、画家にとって、重要なことだ。 マティエールということについては別のところで、あらためて話す機会があろう。ぼくは、作品に対する若い画家の態度に衿をただした。
「それでも、何度も見てゆくうちに、この辺が(といって、松尾氏は左側上部の空間に手をむけた)甘い、と気づくようになったのですが、どうでしょう。」
「まったくその通りで、ここのところが全体のメドとなるものとの緊張感にかけている。どうして、ここをかいてしまうのだろう。超一流の画家だったら、ここには手が入らないでしょう。」
「ファン・アイクには、こういう甘さがありませんね。」
と松尾氏はつけ加えた。
 ブリュージュ市立美術館(グローニンゲ)に入る。他の作品はほとんど素通りで、 「画家の妻」と「ファン・デル・パエルの聖母」にむかう。 「画家の妻」(ファン・アイク)とは周知の通り、ヤンの妻マルガレータの肖像である。色の調子をできるかぎり抑制していて、慎み深い中に、妻への愛情が深々とすき通っている。ぼくは美術館を出てから、ロンドンのナショナル・ギャラリにある「赤いターバンを巻く男」を憶い出し、知らず識らず、比較していたらしい。
 のみならず、「アルノルフィニ夫妻」の愛の証人としてのヤンはここにもいる。
 紙数がなくなった、急ごう。
 ガンの美術館では、小規模ながら、ヤンのおもしろい展示をしていた。本物の作品は小品二点だけだが、あと、ヨーロッパにある作品の精巧に作られたトランスパラントをおき、それを、背後から光線をあてている・・・・・・。
 日本にはヨーロッパ十七世紀以前の超一流の作品がない以上、ファン・アイクにかぎらぬが、二点ほどのすぐれた作品を西洋美術館で借り、あとは、同様の展示をすれば、いまのところ、大変いい企画になるだろう、と思ったりもした。

 ホテルに帰ったのが七時半頃、八時にレヴィ夫人と三人で夕食をとり、レヴィ夫人を送ったあと十一時ごろ、松尾氏のアトリエに行った。人体立像が影のように浮び、しずみする連作で、色の抑制された清潔な作風だった。最後にいい残したが、レヴィ夫人は亡夫の作品を実に大切にしている。そのアトリエにも案内されたが、ナチに対する激しい怒りにもかかわらず、おだやかな作品だった。ナチに対するだけではあるまい。千数百年に及ぶユダヤ人弾圧の歴史を、この静かな画面の奥に秘めているのだろう。

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