確証の旅─ファン・アイクを巡って(1)
芸術新潮
はじめてルーヴル美術館に行ったときのことだった。ここは、というより、ヨーロッパの大きな美術館、博物館はすべて、無尽蔵といっていいくらいだから、いずれにせよ何度も訪れねばならぬ。まずはじめは、作品そのものを詳細に見ることをやめ、絵画部門だけでも、何がどこにあるかを一応歩いてみるという態度で、作品を横目で見ながら、ほとんど素通りするだけのつもりだった。そして、だいたい、その通りにしたのだが・・・・・・。
「ニケ」に感銘をうけたのち、すぐ絵画部門に入り、ドラクロワもアングルも、予定通り、ぶらぶら素通り、コローの「婦人像」やラファエロにちょっと足をとめたくらいだった。当時メイン・ルームの中央におかれていた「モナ・リザ」の前には十名ほどの人々が集まっている。レオナルドの他の作品の前にはほとんど人がいないので、一応ゆっくり見たが、「モナ・リサ」は、こう人が群がっていたのでは仕方がない。群衆の背後から見ただけにとどめた。モナ・リサが、ここまで見てきた作品とは、相当の相違があると思ったまま、やはり、ほとんど素通りした。
ところが、メイン・ルームを通りぬけて、フェルメールの小品「レースを編む女」の前で足がとまった。この世ならぬ清澄な空気が画面一杯にみなぎっている・・・・・・が、フェルメールについては、別に書くつもりだから、ここではふれぬことにしよう。
ルーベンスの「マリア・ディ・メジチ」のシリーズの大きな部屋の猛烈に多い、大きな作品群に食傷して──実際、ここでは胃が少々痛くなったと記憶している──この大きな部屋から出、ここをぐるりととりまく、文字通りのギャラリを歩いた。
このギャラリには、主としてフランドル系、ドイツ系の小品が陳列してある。はじめの意図に反して、たびたび足をとめさせる作品にぶつかる。やがて、ファン・アイクの「ニコラ・ロランの聖母」の前では、くぎづけになってしまった。このときまでには胃の痛いのもなおっていたようだ。この作品には人がたかっていない。近くによったり、遠くはなれたりして、細部の細密描写、画面の美しさ、全体を緊密感、なんともえたいの知れぬ空気・・・・・・去りがたい思いがしたが、また何度か見にくるのだからとみずからいいきかせて、この作品からはなれ、しばらく歩くと「アヴィニョンのピエタ」に、それから、ボッシュの「愚者の舟」(のちにぼくたちの間では「きちがい舟」で通っている)に出会って、足をとめざるをえなくなった。
この日は、もうこれ以上見る気がしなくなった。横目に見て散歩するにも、そうする気さえなくなってしまった。時計の針で量れる時間は、そう長いこといたわけではないが・・・・・・
ルーヴルのアイク
その後、ドイツに出かけるまで、何度かルーヴルを訪れたが、ぼくの性向として、主として最初に足のとまった作品を重点的に見ることになる。もちろん、二度目からは、一つ一つ、ある程度、丹念に見たつもりだが、 そし大作家の作品の多いことに感心したこともたしかだが・・・しかし、世間でいう大作家、そして、ぼくにしてもそう思う大作家の作品が、超一流(とぼくの判断する)の作家を見たあとでは、絵が薄いといわざるをえない。ただし、この時期には、「モナ・リザ」の前はいつも人だかりで素通りだった。 といっていい。
(絵が薄い、とか、やせているナドというと骨董商のヤ二下ったいい方のようだが、こんな言葉の意味も、そんなことではないことが、この連載のうちに、おいおい分っていただけると思う。)
他の作品と作家については別に書くとして、「ニコラ・ロランの聖母」について、帰国後、ぼくはこんな風に書いている。──
ヤン・ファン・アイクは聖母子像をかなり多く描いている。その代表例として、ルーヴルの「ニコラ・ロランの聖母」に触れておこう。一四三六年頃の作だが、ここにはもう動きというものがまったくないといっていい。すべてのものが冷たいエーテルのような空気の中に凍結されたかのようである。しかも、ここには彼の今まで学んできたものがすべて示されている。絶対的な瞬間の持続とでもいうべき深々とした神秘な愛に蔽われている。それでいて透視図法的遠近法の中で遊んでいる。遊びという開放感を知っている。透視図法は、のちになって証明されたように、それだけならば、画家の天命を必要としない。「科学的」な問題で、一定の訓練をうければ誰でも手にしうる。が、空気遠近法はことが色彩にかかわることだけに、画家の天分による。しかも、空気遠近法をみずから導き出した科学的正確さをもつ態度は、のちに空気遠近法がその結果として公理化される以前の余剰を明瞭に意識している。つまり、空気遠近法ではとらえられぬ色の遠近法を、原初的な衝動から発する表現意志のうちにもっている。空気遠近法の発見者(あるいは発明者)だったがゆえに、すでに、空気遠近法をのりこえている。こういう色彩は画面に定着されたとき、もはや現実の光や色の裏打ちを必要とせぬ、それ自体が独立して存在する一つの世界なのである・・・・・・。
「ニコラ・ロランの聖母」についてはもっと書きたいととがあるが、とりあえず、いまはこれだけにしておこう。
この年、一九六一年、ぼくは九月一日開催予定のサンパウロ・ビエンナーレ展に、コミッショナー兼審査員として出席することになっていたし、また、七月中旬から下旬にかけて、ドイツの主催でミュンヘンとベルリンとで国際美術評論家連盟の総会と会議とが開かれ、それにも出席することになっていた。だから、その前後にヨーロッパとニューヨークとを巡ることにしていた。
国際美術評論家連盟の総会と会議については、ここで話しても仕方のないことかもしれぬが、ミュンヘンとベルリンではあまり作品が見られなかったことに関連して書いておこう。
総会はどちらかといえば、事務的なことだけの集会だが、会議の方は、なんらかのテーマを各国の専門家が講演し、それをめぐって論議することになっている。このときのテーマは「バイエルン地方のロココ」だったので、ぼくはいささか閉口した。 ロココ様式はいまでもヨーロッパ系の人々の多くは興味をもち、好きなものだ、ということを、ぼくはそれまでにいやというほど知らされていたし、その上、ぼく自身、たとえばワトーなど、妙に大げさな身ぶりのものより好ましく思っているが、会議そのものが、ロココだけ、それもバイエルン地方のもの、となると・・・・・・ (ミュンヘンでのテーマとすれば、ここで一応再発見したいという意向が分らぬではないが・・・・・・というのはフランス、南ドイツ、オーストリアなどの要素のまじりあった、一種独特のロココなので、簡単にいってしまえば、フランスやオーストリアよりも鄙びているし、怪奇性もあって、当時のこのあたりの精神構造、文化形態、生活様式なども、ある程度分るというものだ。)
「ヨーロッパの評論家や、ヨーロッパのロココの専門家ならば、これも興味深いだろうが、ぼくたち日本人には、あまり狭いところをつっこんで、少々困る。」とぼくはある会合の席で誰かにいった。
「そう、われわれにとっても、あまりしぼりすぎて、もっと大きなテーマでも深くつっこむことができると思うのだが・・・・・・」
「バイエルン地方のロココの普遍性と特殊性は、講演をきいたり、論議をめぐって、一応(‘‘)分ったつもりになるが、ぼくはヨーロッパの歴史について、まったく分らぬところがある。ヨーロッパ人なら誰でも知っているような歴史的事実や、それに付帯した物語などを知らぬから、話としては分ったつもりでも、なかなかむずかしい。」
「われわれヨーロッパ人にとっても、ここまでつっこんでは、専門家以外には詳細には分りにくい。」
もちろん、ぼくは出席する前からテーマについて知っていたし、ドイツ支部の会長グローマンのアレンジだから悪かろうはずはない。が、日本で会議をしたとき、極端にいえば、浮世絵がテーマになるようなものだ。それをつっこんで研究するのも一つの課題である。事実ぼくにとってもバイエルンのロココは一つの収穫ではあったが・・・・・・そして、実は、十数日の会議中、適当にさぼって、ミュンヘンとベルリンにある美術を見ようという下心があった。が、そういかなくなったアクシデントがあった。(実はアクシデントではなく、当然のことなのだが、迂闊なぼくにはアクシデントであった。)
当時ぼくは、どういうわけか、日本部の常任委員長だった。常任委員長はただ常任委員会の議長をつとめればいいだけのことだと、比較的簡単に考え、推されるままにひきうけていたのだが、総会開催の前日ミュンヘンにつき、本部にアイサツにいったら、本部の事務総長その他が大変な歓迎ぶりを示し、明日午後各国の会長のミーティングがあるから、それに出席してくれという。つまり各国の会長(プレジデント)だけのコミッティが形成される。冗談ではない。ぼくは会長ではなく、常任委員長(チェアマン)だ、といったが、先方では、だからあなたを会長としてあつかうというしまつ。
やむをえず、ホテルに帰って早速規約を見たら、常任委員長は会長事故あるときは、その代理をすることになっている。日本部の会長がそのとき出席していない以上、ぼくがその代理を勤めなければならぬのは仕方のないととだ。それに、三十数ヵ国から会員の出席があったが、会長もしくはチェアマンの出席している国は十ヵ国ほどだった。万事窮す。これではサボるわけにはいかない。
総会にしても、会議にしても、昼の休憩が十一時ないし十一時半から三時半ごろまである。会員はその間、どこにでも好きなところへ行けるのだが、このコミィッティはほとんど連日、昼食を共にしながら、次々とスケジュールや、さまざまな問題提起について論議しあう。午後の集会が終ると、また残ってミーティングをする。
なお工合の悪いことに、公用語は英語、フランス語となっているのに、ぼくを除いて、みなフランス語で話す。話がこんがらがると、ぼくには聞きとれない。生半可に話したり、承諾するわけにはいかぬ。当時、国際美術評論家連盟の全体の会長はアメリカのスウィーニだったし、このコミッティの議長もスウィーニが勤めているので、ときおり、ぼくはスウィーニに、いまのところを簡単でいいから要点だけを英語でくりかえしてくれ、とたのむ。スウィーニは、英語でいうスタウトな大男で、気のやさしい人だし、主催国ドイツの会長グローマンはご承知の通り筋の通った学者、オランダのハマヘル、ベルギーのランギはともにもの静かな人柄・・・・・・というわけで、ぼくにスウィーニが説明する間、議事がちょっと停滞するが、それで文句をいう人はいない。
話がこんがらがるのは、問題提起やその処理について、議論が白熱するときで、それはそれで、ぼくにはおもしろかった。(ヨーロッパ系の人々の考え方と議論のもってゆき方もわずかながら分ったようで、それが、九月のサンパウロ・ビエンナーレ展の審査会の参考にもなったようである。)
が、それにしても、ぼくは、あれやこれやふらふらになってしまう。
(このコミッティのミーティング、総会、会議など話すとキリがないので、やめておこう。ただ、ここと、サンパウロで、さまざまな国の人々と話しあったことが、その後のぼくの美術の見方を、肯定的にも否定的にも、あ程度、方向づける一要素としてはたらいているように思われる。)
おかげで、ベルリンでは、美術館は、新築された近代美術館しか見られなかった。もっとも、そのコケラ落しの記念として、ヘンリ・ムアの大回顧展があり、それでぼくとしては十分であった。
こんな忙しい日程の中で、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークで見たレオナルドの「聖母子」に感銘をうけたことは前にふれた。(他にも、感銘をうけた作品があるが、それはおいおい書くとして。) ぼくとしては、はじめこの会議が終り次第、イギリスに渡るつもりだったが、この「聖母子」を見てしまった以上、ルーヴルで、それまで横目で素通りしてしまっていた「モナ・リザ」をどうしても見たくなり、急いで予定を変え、パリにとってかえした。
が、この辺のことはレオナルドを述べるとき、いうつもりだから、いまはふれない。
とにかく、その時以来、ときおりの例外はあっても、ぼくはルーヴルの絵画部門へ行くときは、「モナ・リザ」のところまで何も見ずに行き、つづいて、フェルメール、ファン・アイク、ボッシュへと向うことになった。
ニコラ・ロランの聖母
ファン・アイクに話をもどそう。
「ニコラ・ロランの聖母」について、さっき、こう書いた──「こういう色彩は画面に定着されたとき、もはや現実の光や色の裏打ちを必要とせぬ、それ自体が独立して存在する一つの世界なのである。・・・・・・」だが、この作品について、これだけでは不十分であろう。現実の裏打ちを必要としない、ということはそれだけでも大変なことで、一家をなした作家の作品はすべてそうしたものなのだ。つまり、芸術作品はいったん作者の手からはなれ、作家という第一の鑑賞者から、他の人々に鑑賞されたとき、作者からヘソの緒が切れている。作者を知らぬ第三者によって見られたとき、はじめて、作品は存在する可能性をもつものだ。
が、多くの作品は、その可能性が実現し、存在したとなると、今度は現実がそれを模倣する。が、超一流の作品は現実の可能性だけが、手のとどかぬものとして存在し、完結ということがない。おそらく、神というものを知っていたため──といっていいすぎなら、神は人間によって見られるものではなく、人間は神によって見られる存在と感じとっているからであろう。現世との非連続な、ある持続の世界の存在を信じ、それにむかって「私のできるかぎり」 古典的教養、幾何学、化学、精神の政治学その他あらゆる身についたものを動員しながら、最後には、すべて、そうした知識や教養は放下されているにちがいない。というより、その判断と決断のできることが本格的な教養というものであろう。
大作家は時代の象徴あるいは典型になる。が、超一流の作家は、その時代だけの象徴あるいは典型ではなく、その作品が制作され、鑑賞されたときから、世界の象徴ないし典型となる。過去、現在、未来が、切断されているにもかかわらず──というより、切断されているゆえにいつも現在において同時的存在になる可能性をもつからだ。こういう作品には、無限に延長する空間と無限に持続する時間とが暗示されている。いわば、いつも現在において制空圏をもっているといったらいいか?
ファン・アイクの細密描写は単なる精巧な写生でもなく、また、ミニアチュアの細密さでもない。ヤンが若いとろミニアチュア画家として出発したことはたしかなととだが、少なくとも油彩画にむかったときには、すでにミニアチュアの細密さはない。簡単にいえば、個々の事物は匿名のまま、すべて神によって生きているものなのだ。そうだとすれば、小石も木の葉も、また、どんな小さなものでも、人間と平等の価値をもって生きる権利がある。が、この問題は近世合理主義がほとんど見落し、十九世紀中頃から二十世紀初頭にかけての芸術の革命によって、再び提起されることになる。
(ファン・アイク──もしフーベルトが実在したとしたら、フーベルトかヤンのどちらか──のミニアテュアは、ぼくは残念ながら見ていない。が、複製で見ただけでも、全体の構想、画格の大きさからいって、ミニアテュアの域をこえている。ついでにいっておくがラムブール兄弟の作「ベリー公のいとも豪華な時臓書」とくらべれば、ミニテアュアの美しさと、絵画の美しさとの差がテキメンに分るはずだ。とはいうものの・・・・・・「ベリー公のいとも豪華な時禱書」は、いうまでもなくパリ郊外シャンテーユの城にあるわけだが、荻須高徳氏がわざわざ、そこに案内してくれたとき、本物は日ざしや温度、湿度から保存するため、しまってあり、複製が陳列してあった。見事な複製で、ガラスのケースに入っている。
「本物は保存のためしまってあり、これは複製だ」とい説明書がついていたが、この説明書がなかったら、ぼくは本物と思いこんでしまっただろう。)
細部は、それ自体としては、見かけはかなり単純な色と筆づかいである。たとえば、宝石にしても、王冠にしても、また衣裳のテクステュアにしても。中景にして遠景にしても同様である。だが、それが全体の内に統合されると、おどろくべきマティエールになる。ファウンデーションがよほどしっかりしているにちがいないが、ただ技術上の問題だけのことではない。
一度、ある色を面においたら、もうやりなおしがきかない、というもっとも色についての、そして精神における厳格さがある。のちに、よく思いちがいされる油彩の方法についての誤解がある。──柔軟な材料なので、ある部分が気にいらなかったら、そこをけずったり、消したりして、やり直しがきく、と。絵画についての、根本的な誤解である。
前にいったデッサンの意義──全体をそこで整合し、全体が部分を規制すると同時に、部分もまた全体を規制するという関係が成立するメドがある場合、その作品にデッサンがあるという、──そんな意義のデッサンをもっている画家なら、一度おいた色は、たとえ、どんな小さな部分にしても、そこに存在し、全体を規制する可能性をもってしまう。それは、あくまでも可能性にすぎぬが、しかし、必然的可能性とでもいうべきもので、その可能性がない限り、全体を規制することはできない。もし、その可能性がなければ、超一流の画家は、その部分に色をのせない。
かいつまんでいえば、かりにそこに色を載せたら、全体をかきなおさねばなるまい。が、かき直すといったところで、他の部分にもう色をおいた以上、手のいれようがない。はじめからやり直さねばなるまい。超一流の画家に現象的には未完成な作品、だが、その核心において完璧な作品の多いのも、一つにはそのためだ。デッサンそして色彩が不明確だからそうなるのではなく、逆である。デッサンの確かさが、そうした色を要求するのである。
この細密描写の確かさを説明する映画が、日本の国立近代美術館のフィルム・ライブラリにある。フランドル派の作品を系統づけた映画だが、「ニコラ・ロランの聖母」を当然のことながら、大きくとりあつかい、ぼくは一度見ただけだが、部分部分もよくとれていた記憶がある。この作品をはしの方から少しずつけずりとっていって、最後に、中央からやや上の、小島だけを見せていた。この作品自体が 66×62cm だから、この中の島がどれほど小さいものか、お分りになるだろうが、そこに少しのくるいもない。 中の島と、それが水にうつる似姿とを、色でかきわけているのも、大うつしになれば、よく分るだろう。
背景の美しい風景や街は、マーストリヒト、リエージユ、ユトレヒト、リヨン、ジュネーヴ、オータンなどをとりいれたものだという。寄進者ニコラ・ロランはブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンの宰相で、オータンはその出身地であり、この絵は一八〇〇年末まではオータ聖堂にあった、などという解説はいるまい。
ロンドンのアイク
ロンドンのナショナル・ギャラリにある「アルノルフィニ夫妻」に大きな感銘をうけたことは、前にちょっとふれたが、ここで一言笑いばなしをしておこう。
一九七〇年夏、ヨーロッパのどこだったか忘れたが、誰かにきかれた・・・・・・
「ファン・アイクの作品のうち、どれが一番いいと思いますか?」
返事のしようがない。
「さてねえ」
「では、どれか一点さし上げるといったらどれをとりますか?」
「くれるといっても、個人の所蔵するような作品ではないでしょう。が、強いて好みをいえば、『アルノルフィニ夫妻』かな。が、この作品は家にあるというだけで、おそろしくなって、何もできなくなりそうだ」
冗談として聞きながしていただきたい。
肖像画もヤンによって始まるといっていい。中世絵画には言葉の厳密な意味での肖像画はなかったといっていい。ある特定の個人を他の個人と違って示し、記録することは必要のないことだった。しかし、十五世紀になると人びとはそれとわかる肖像画を望むようになる。おそらく、祭壇画の寄進者をのぞけば、はじめは新興都市の自由市民が、ついで、王侯貴族が、それを希望するようになった。肖像画はやがて全盛期に向うことになるが、その始祖であるヤンの肖像画はきわめてリアルでありながら、厳格な宗教的雰囲気に満ちている。
「アルノルフィニ夫妻」の、あるえたい(‘‘‘)の知れぬ無気味さと、その美しさとには、さまざまなモメントがふくまれている・・・・・・
この無気味さは、いわば悪魔払い的なもののもつ無気味さで、画面の美しさと切りはなすわけにはいかぬものだが、この点については、のちに話そうと思う。
この時代は、フランス国王は戦乱につかれはて、かわって弟のベリー公やブルゴーニュ公が活躍する。ことに、ブルゴーニュ家は政治の実権をにぎり、やがて婚姻と同時にフランドルを併有し、はじめてネーデルラントとい国家単位をつくり、西欧の中央に、縦に一大強国を現出した。中世から近世初頭にかけて王侯は領土と結婚したといわれる。つまり、王妃の所有する領土を併有するわけで、妃は妻であると同時に財産そのものであった。これに貴族、騎士、豪商が複雑にからみあい、ぼくたちから見るとまことに難解な組織単位をつくりあげる。愛と結婚とは多くの場合別のものであり、中世の「騎士道」とは暗黙のうちに認められた「巨大な重婚組織」ともいわれる。それゆえ、愛によって結ばれた結婚、愛によって結ばれなかった悲恋が、歌われ、物語になる。
当時のヨーロッパは、政治的・経済的には分割されながら、文化的には「国際ゴシック」という名に示されるように、一方にはきわめてコズモポリタンな様相をもっている。各国に共通する階級性も成立する。政治的国家単位はあっても、王侯大貴族、小貴族、騎士、豪商、職人たちは、国家単位の結合よも、同じ階級との結合の方が強かった、とも思えるようだ。
中でもブルゴーニュ家はその代表例としてよく引きあいに出される。当主フィリップ・ル・ボンの母はバイエルン出身、妻はポルトガル王女であり、その宮廷は西欧随一の豪華さを誇ったといわれる。フィリップはまた、フランスよりも、むしろ積極的にフランドルに滞在し、フランスの影響下にありながら、それまで、たえずスペインとオーストリア・ドイツの脅威にさらされていたフランドルを盛りたてた。ここで、彼はヤン・ファン・アイクを重用し、絵画の隆盛をみる地盤をもたらすことになるのである。
のみならず、これ以前にフランス、イタリア、その他で活躍した美術家にはフランドル出身のものが多かった。さきにちょっとふれたラムブール兄弟もそうである。その上、ポリフォニーが盛んであったことを考えあわすと、ヤン・ファン・アイクは生れるべくして生れた大画家にちがいない。(油彩画は長いことファン・アイクによって発明された、と信じられていたが、実際はフランドル地方には、それ以前からあった。が、それはいずれも大芸術にはならなかった。歴史的事実として油彩画の方法をグラン・ダールに大きく飛躍させたのがファン・アイクだった。が、この飛躍は質的な飛躍だから、ファン・アイクを油彩画の創始者とした民衆の知恵の方が、より大きな歴史的真実とぼくは見たい。)
一応、これだけの背景の上に、「アルノルフィニ夫妻」がかかれたといっておこう。王侯貴族にとって結婚と愛とはまったく別だったが、富裕な商人階級もまた同様で、かなり後になるまで持参金と結婚した。そのことをヤンはよく知っていたからこそ、ここに結婚と愛との合致したすぐれた典型を、宗教的な深みをもって描いたにちがいない。人間同士の結びつきが愛によって行われるとすれば、いつの時代でもなんらかの宗教的深みをもつものだ。この作品ではキリスト教の問題は、少なくとも祭壇画などとちがって、あからさまに出ていないが、これとそキリスト教徒の絵であろう。夫妻のあいだ、壁にかかった鏡には、この結婚と愛との合致の証人として、ファン・アイク自身が写っている。当時の習慣として、結婚には一人の証人がいればいいことになっていたらしいが、この証人のほかにヤン自身が、かかれている。おそらく、セキュラライズされた習慣としての証人のほかに、ヤン自身をかき、その鏡の傍に画家みずから記入した「ヤン・ファン・アイクことにあり」という銘は、ただの署名ではあるまい。この浄福な時間に参加し、それを証言しているようにぼくには思われる。
この鏡については、のちにふれようと思うが・・・・・・アルノルフィニはルッカの商人で、一四二二年以来ブリュージュに住み、ヤンとも親しく、妻もルッカ出身である。シャンデリアのうち蠟燭を一本だけともした美しいつつましさ、犬、それに木靴などは、夫妻愛の敬虔さを示している。