確証の旅─ピエロ・デラ・フランチェスカを巡って(2)
芸術新潮
ピエロの「復活」に捉えられた画家
ここはグレアム・サザランドについて、あまり多く語る場所ではないが、わがままに見てあるく記として、前号でふれたので、「復活」にかかわりのある限りにおいて、サザランドのあり方をいわねばなるまい。
サザランドが第二次大戦中イタリアからドイツへとむかっていった途次、大きな感銘をうけた作品として、ピエロ・デラ・フランチェスカの「復活」とグリュネワルドのイーゼンハイム祭壇画との二点を挙げているのは興味深い。 ぼくの思うのには、これはサザランドの画歴において当然──というより、必然──のことのように思われる。もちろん、従軍し、軍の行進に身をまかせている以上、外見上偶然の出会いにちがいないが、立派な画家は、その偶然を必然のものに変様して、作品にあらわしてしまうものだ。
戦後の「茨」の連作は、残酷の観念をやさしみのある四周でつつみ、二重のひねりを与えようとしたのだ、とみずからいっているが、もともとそうした気質のあるサザランドは、上記の二点を見て、そうはっきりいえるようになったと思われる。「茨」は感覚的な妖気と形而上学的な妖気をはらんでいるかに見えるが、実は現代において、明確な態度である。サザランドは、「復活」に接し、ここで厳格なもののもたらす残酷なものとやさしみとが矛盾でなく、同時に存在する不思議を明確に感じとったにちがいない。愛と憎、残酷とやさしみ、不安とよろとび、その他数々のものの入り乱れた混乱の中を、破壊につぐ破壊のあとを追って、その廃墟の中で・・・・・・だからこそ、新しい世界を創るという衝動がおこる。
サザランドはその画歴のはじめから、現代絵画の二つの大きな課題にぶつかっている。一つは、深い奥底の幻想、あるいは、無意識の領域と結びついた現代の不安の探求と克服。いま一つは、絵画のかぎられた二次元性の中に三次元以上(‘‘)のものを構成するシステムである。この二つの課題はいうまでもなく、画家にとって、単なる作画技法に属する事がらではない。大きな社会機構の混乱の中にあって──ということは同時に自己の混乱の中にあって──その混乱を回避せず、絵画という一つの現実の再構成に、人間の生きるべき社会連帯をどこに見出すか、という現在の生存上の問題につながる。
サザランドがあらゆる他者に関心をもたざるをえぬのも、そのためだ。田舎の風景や田園の道ばたにある生物や石ころにも新しい感情をもち、その形態に魅惑される。と同時に、そのことによって、それらが生命を回復する。木々、葉、茨、つた、石、虫などが彼の対象となり、そういってよければ、人間と同等の生命をうる。無限に延長する空間と無限に持続する時間のうちで、これらのかたちを提示することが、そのまま時間と空間をとりとめることだった。これは動乱する世界の動きの中に身をおいて、あらゆる見透しや成果の予見を拒否し、自分の手のとどくかぎりの仕事を誠実に果してゆこうというつつましい男性的な態度である。つまり、世界を自分一個人で規制しまいとし、逆に、世界の動きに自分は規制され、その場の確実性を現在に求めようとする態度である。
サザランドの描くかたちは、笑っているようだし、怒っているようだし、はにかんでいるようだし、また、苦痛にゆがんでいるようにも見える。イギリス人らしいヒューモアをもって、彼はこうしたものに一種の匿名の個性とでもいうべきものを見出し、それを回復させる。 おそらく、それは発見ではなく、ふだん──あえていえばルネサンス後期以後──ぼくたちが忘れているものの回復である。いいかえれば、回復することが彼にとって発見することである。匿名のものに自分では規制できぬ生命を見出す戦慄、事物の提示と人間の存在感とのあいまに生ずる戦慄──それが妖気に見えるのだろう。が、これらのかたちはそれぞれ新しい個性をもつと同時に、すべて日常見なれたもの、あるいは古来から人間が見てきたもの──しかも日常見て見ぬふりをしてきたものの様相をとる。
匿名の個性とは、いわば、おもて立って人に見られることをしない庶民の生命でもある。しかも、この匿名の生命に対するサザランドの態度はきびしい。非情なほど冷酷な眼がある。いわば、地中に眠っているものをゆり動かして不安のうちにめざめさせる。むろん、愛がないのではない。愛そうとする努力が、非情な眼をそそいで、あらゆる付加物をとりさる。そうでなければ、いい加減なヒューマニズムで蔽われた事物は生きかえってこないのである。 親密な愛情と冷酷な剥奪とは別のものではない。付加物をあたえぬかぎりとりさったとき、この匿名の生命にこそ、もっとも強い歴史の生命があると見た雄雄しい眼である。
話が少々もとにもどるが、サザランドは初期に、サムュエル・パーマーのショーラム時代の絵に触発された、とみずからいっている。最近日本で「英国風景画展」が開かれ、この時期のパーマーの作品も出品されていたから、ご記憶の人も少なくないと思われるが・・・・・・パーマーはウィリアム・ブレイクの晩年の最も年少の弟子だった。病弱で神経症の若いパーマーにとって、ブレイクとの出会いは大変なショックだった。ブレイクの死んだ年、ショーラムという僻村にとじこもり、七年間そこで保養したが、ここで水彩やテンペラをかいている。パーマーの作品はこの時期のものがとびぬけている。現実の風景、その中にとけこんで働く農民をかいて、現実の風物と幻想的な風物とが、いわばダブル・イメージになっている。高揚した情熱は自然の事象から、いわば、幻想的ないし精霊的なものをひき出し、光のまばゆい動きや色彩の輝きや型態の構成に、現代画かと思われるようなところがある。が、ブレイクの表現した自然そのものの中にある神秘的な感情やプリミティヴな田園風景にのみ感動し、そのかぎりにおいて影響されたというべきだろう。
サザランドが初期にバーマーに影響をうけたのも、その辺であろう。 サザランドはさらに深いところにまでつっとんでゆく。普通現実にそう見える自然の底に眠る原初的な世界を巡歴して、彼の注意はいつも事物の傷、ゆがみ、不秩序にむけられる。たぶん、彼は温かい心をもち、内心やさしく内気で、はじらいをふくみながら、つねに世界の非情に対決している。そして、いままで、何百年の間、合理主義的進歩の観念で認められ、高揚されて、あたかも確固不動の位置をしめたかに見える物象をみつめ、その対象を不安定な状態にまでもちこむ。情熱をとめて、自然の受動的な無意識をゆさぶりおとす。自分自身が落ちついてはいられない。ヨーロッパの揺れを、自分の立っている地盤のゆれを、感じている。客体が不動であることも、主体が不動であることも、ありえ
なくなったのである。
サザランドのことを少し長くいいすぎたようだ。その場でないにかかわらず・・・・・・が、いま述べた文章のサザランドという主語をビエロ・デラ・フランチェスカにかえ、文章を多少手なおしすれば、ビエロを鑑賞するいくぶんの手がかりにはなるはずだ。
といったところで、それだけでは、脈絡がおかしいとお思いの人は、ルネサンス期の混乱と現代の混乱を比較し、それぞれ、その混乱を避けずに生きた人間の方法に、似通ったところのあるのは当然だと思ってもらえばいいかもしれない。ことにある程度似通った性格の人々の場合には・・・・・・。
ルネサンスと宗教改革との重なりあういわば未曽有の混乱──あのエネルギーと「ヴィルトゥ」をもって、さまざまな問題が、さまざまなかたちをとって、ぶつかりあい、競いあった時期の混乱──は、それ以後、少なくとも、現代の混乱期にいたるまで、これほど、すさまじいすがたをとったことはなかったといってしまいたい。(サザランド自体を語るとすれば、まだまだ多くのスペースが要る。) 東京の国際展に二度にわたってかなりの点数が見られたし、テイト・ギャラリでも六一年と六三年とには、かなりの場が与えられていた。 (七〇年夏にはフランシス・ベイコンの方に比重をかけて陳列してあったが。) 東京の国際展でサザランドの「磔刑」「茨」などを見ただけでも、彼自身から語られてみれば、たしかに、ピエロの「復活」とイーゼンハイムの「磔刑」に感銘をうけ、触発されたことが納得できる。サザランドには一種のアニミズムに似たところがあるが、原始的アニミズムとちがうところは、彼はこうした態度で、再び人間同士が、また人間と事物とが、結びつくことができるかどうかという疑問を提出したことであり、その疑問の提出がそのまま解決の可能性を示していることだ。急いでいえば、サザランドの求めているのは「開かれた世界」なのである。
「閉じられた世界」と「開かれた世界」
ピエロ・デラ・フランチェスカの「復活」は、その画面にベルグソンのいう「開かれた世界」を暗示している。
当時よく描かれた、千年ののちに最後の審判を下す天帝としてのキリストではなく、三日の後に復活して、何ものをも捌かずして何もかも裁くキリストである。いいかえれば、閉じられた世界においては激しく現世を否定し、開かれた世界においては、すべてをあるがままにしてよしとするイエスである。
いくつかの原理がたがいに衝突矛盾しながら共存するのが現代だといわれるが、おそらく、いつの時代でも、それが現代である間はこうしたものだろう。神の観念に統合されていたような中世のうちには、現在まで解決をもちこされている幾多の多元性──複雑な、ときほどしえぬ多元性──がある。 ヘレニズムとヘブライズムなどというようなことではない。神という根本的な理念そのもののうちにも、大ざっぱにいって、二元性がある。福音書にあらわれるイエスの現世否定と黙示録にあらわれ現世否定である。一方は「開かれた世界」における自己放下であり、一方は圧迫され、ゆがめられた世俗的情念や権力意志によって、イエスの回心による現世否定を、ミレニアムという復讐的現世否定にすりかえた陰湿な自己放棄である。中世芸術にあらわれる、この根元的な二律背反の総合と分離という動向は、ルネサンスと宗教改革の時代に最大の危機をはらんで出現するし、その後、近世をこえて、現代に解決をせまってくる。
キリスト教徒でないぼくはここでイエス論を書くつもりはないし、また、キリスト教について書く用意はもっていない。ただ、この「復活」について、ベルグソンの「開かれた世界」をいったので、別のところでもいったことだし、まわり道だが、ルネサンスで求められた遠近法との関連において、その点にはふれておかねばなるまい。
あらゆる文明は、すべて、それなりの遠近法をもっている。というより、それなりの遠近法を生活のメドにしている。人間同士の関係にしても、人間と事物との関係にしても・・・・・・人間と人間が生活する社会との関係においても。いいかえれば、世界にばらまかれた、昔の文明も、現存する文明もそれぞれ完璧とも思える遠近法をもっている。ヘンリ・ムアがプリミティヴ芸術にひかれていたころ「プリミティヴという言葉は未開ということを連想させて、使いにくいが、プリミティヴ芸術は、完璧な文明の所産である」といっている。文明には後進性も先進性もない、と気づいたのは二十世紀であろう。
人間が何らかの集団生活をしているところ──それが村落であれ、地域社会であれ、国であれ、民族圏であれ──いつの間にか、ある法則が生じる。つまり、ごく簡単に図式的にいえば、それなりの思考様式、感情様式、行動様式の組合せができ、その中心的な面を文明ないし文化といってよかろう。その組合せのポイントになるところが、生活全般を蔽う遠近法だといっていい。
その中に生活する個人はその文明ないし文化に規制され、それを知らず識らず身につけたものが教養となり、今度は、個人がその文化に貢献することになる。(文明と文化という言葉は、日本語のみならず、ヨーロッパでも、多少ニュアンスをちがえて使っているようだが、元来、区別する必要はないと思われる。) 個人という全体の一部分は全体の文化に規制されると同時に、個人は全体をも規制するという有機的関係が生じてくる。文化とは、個人がそれを目標としてそれに到達するものではなむしろ、個人の思考、感情、行為を背後から支え、促進するものであって、すぐれた個人は、その行為によって、その文化に飛躍を与える。この飛躍とは、くだいていえば、非ユークリッド幾何学がユークリッドの否定として生じたものでなく、ユークリッド幾何学の発展の果てに、飛躍したものだ、という意味にとっていただきたい。そうした個人の行為および、その行為の結果に、その文化全体の蓄積と伝統とが暗示的に感得されるのは当然であろう。たとえ、その行為の結果が断片や廃墟のかたちで残っていても、また、未完成におわったとしても。
地球上に存在する無数の文化は、さまざまな特質をもち、相違がありながら、その特質と相違とは、誰かもいったように、思考様式、感情様式、行為様式の組み合い方のちがいにすぎぬといってしまいたいくらいである。おそらく、そういっても多くの場合、それほど大きなまちがいを冒したことにはなるまい。問題なのは、何らかの集団において、思考も感情も行動も、その伝染力が大きく、相互に作用しあって、組合い方を固定してしまうことだ。そうでなくても、組合い方の相違のために、一つの文化圏に生活するものは、他の文化圏に生活するものの考え方、感じ方、行為をまったく理解できぬことが多い。「想像もできぬ」という場合すらある。「想像する」ことだけなら、ほとんど何だって想像できるにもかかわらず・・・・・・ごく初歩的にいって「閉じられた世界」とは、そうした社会集団である。
ベルグソンは「閉じられた世界」の有機的関係の極端一例として、蜜蜂の集団をあげている。蜜蜂の世界──それを世界といっていいなら──では、個々の成員はすべてその役割をはっきりもっていて、それぞれ有機的にはたらく。人間の社会の場合、これほど明瞭な生物的有機関係はないにしろ、それでも、地球上にかつて存在した社会、また、現に存在する社会の多くは「閉じられた世界」なのである。ベルグソンによれば、ヨーロッパに「開かれた世界」をもたらしたものは、キリスト教だということになる。
この辺に、ベルグソンの論理に一種の飛躍があり、人によっては、それがベルグソンの神秘主義と思われているようだが、ぼくにとっては、この論証の飛躍は必然と思われる。少なくともヨーロッパ文明に関するかぎり、ぼくは彼の論証を全面的に肯定したい。ヨーロッパがヨーロッパになるためには、さまざまな異民族とそれがもつ異なった文化とを蔽って、世界を解明するにたる宗教が必要だったのである。ここで、はじめて「開かれた世「界」の可能性が生じたにちがいないのである。
が、誤解のないように断わっておくが、「開かれた世界」とは、単に、異なった文化をもつ、さまざまな異民族が交流することができるようになり、相互に理解できるようになった世界という意味ではない──少なくとも、それだけではない。それだけの意味ならば「神秘思想」でもなんでもあるまい。ことは、文化の源泉としての宗教と倫理にかかわる。多くの宗教や倫理は現世利益のみをとくか、そうでなければ、死後の世界を現世の延長と見る。 現世の願望の達成を現世の未来において求めるか、死後の世界において希求する。ユートピア思想もその辺から出てくる。が、この連続を、その教義の中心において、断固として、切断したのがキリスト教である。「開かれた世界」とはその切断によってはじめて得られるかもしれぬ可能性の世界である。
世界宗教──つまり、現象的には(‘‘‘‘‘)、異なった文化をもつ、さまざまな民族を包含する世界を解明しうる宗教、そして、その教義の核心において(‘‘‘‘‘‘)、過去、現在、未来の連続を切断し、それによって、すべてをいわば持続的な同時的存在とする宗教──たりうるものは、ぼくの独断によれば、一神論か汎神論である。つづめていえば、いまのところ、キリスト教か仏教である。(モハメット教のことはまったく知らぬので、ここではふれようもない。) めざすところは可能性の現実であって、決して、そのままで到達しうるものではない。 この可能性が無条件で、あるいは、個人の意識において、成就され、到達されたとすれば、そのとたんに、世界は「閉じられる。」
ルネサンスが、よくいわれるように人間謳歌の時代だったにせよ、(ぼくは決してそうは思わないのだが)、神の世界──それがどれほど多元性をもっていたにしても──から、ぬけ出したわけではない。また、それ以後現代まで、ヨーロッパ芸術は宗教とまったくかかわりがない、という説も、そのままではぼくには肯定しかねる。(ただし、現代、芸術家が何らかの宗教をおもてだってもち出したら、一種の免罪符をうけたことになると思われるほど、宗教と芸術は複雑なからみあいをしているが。)
遠近法が絵画に適用された場合、いうまでもなく、二次元のかぎられた平面上に三次元以上(‘‘)のものをあらわす方法で、結果的に大きく分ければ、線による遠近法と色による遠近法とがあるのはご承知の通りである。そのうち、線による遠近法が主としてイタリア・ルネサンスで透視図法的遠近法として発展し、色による遠近法が主としてフランドルを中心にして空気遠近法として追求され、やがて合流したと一応はいえよう。このシステムは、美術のみならず、ルネサンス以後近世の合理主義にもとづく文明を支える根本的なシステムになり、したがって、ただ、「遠近法」といえば、このシステムを指すようになっている。急いでいえば、十七世紀以来、このセキュラライズされ固定化した遠近法に、何らかのシステムで叛逆したごく少数の例外的な画家によって、美術の命脈が保たれていた。が、この遠近法が必死に求められていたころは、それほど簡単なことでなかったのはいうまでもない。
透視図法的遠近法の発見(あるいは、発明)は、外界の事物を神の手から人間の手にうつしとったともいわれるし、また、無政府状態を救い出して、ある秩序のうちに、距離と運動、空間と時間とを結びつけた、といわれる。一応、結果的に表面を見れば、その通りにちがいないが、世界を神の手から人間の手にうばいとったわけではないし、また、そんな意志をもったわけでもない。ルネサンスがどれほどエネルギーと「ヴィルトゥ」にみちていたにせよ、人間の尊厳を主張したにせよ、それほど居傲になりうるものではなかった。いわば、混乱に混乱を重ねた世界の事物のうち、人間が手に負えるものだけのものを、可能なかぎり、人間がみずから責任をとって解決にのり出したというにすぎぬ。逆にいえば、人間に属すべきものをあたうかぎり明確にすることによって、神に属すべきものを純化していったともいえる。いいかえれば、すべてのものが神によって創造されたものなら、それを「第一原因」」に責任転嫁せず、人間としての責任において、なしうるかぎりの追求を行なったということだ。
外界の事物が無政府状態におちいった、ということは、外界の事物が、それまで人間の与えてきた秩序をはみ出したということでもあり、同時にまた、人間がそのはみ出たものを積極的に認めるまで成長したということでもある。
透視図法的遠近法が結びつけたものが、到達可能な距離であり、測定しうる時間であり、有限の空間と時間とであって、到達不能な距離、測定しえぬ時間、無限の空間と時間とは次元のちがうものとして、あえてふれなかった──少なくとも明示的にはふれなかった──のも、そのためである。 (超一流ともいいたい作品は、いつでも、到達不能な距離、測定しえぬ時間を暗示的に含んでいるのはいうまでもない) マサッチオ、ピエロ、レオナルド、そして、ファン・アイクが、「あくなき厳格さ」をもって「自分のできるかぎり」意識的に追求したのも、それであった。超絶的なものを知っていたからとそ、自分の解決すべき問題を可視的なものに、あえて限定したということである。超一流の画家にして、はじめて可能な切断である。
この切断は暗示的だからこそ、今度は見るものがなんとか明示的にしようとする。が、どうしても明示的にそれということのできるものではなさそうだ。 比喩でしかものがいえないのだ。
ピエロの「復活」に受けた感銘を伝えようとして、ぼくは枚数をつかいすぎた。理におちていくらいっても満足がいかぬ。
ボ ルゴ・サンセポルクロから、まだ時間の余裕がないこともないので、シエナを巡ろうかと思ったが、もうこれ以上作品を見るのは限界をこえる。運転手にいって、そのまままっすぐフィレンツェに帰ることにした。行きとちがって、ぼくはかなり無口になっていたらしい。運転手の方も、ほとんど話しかけなかった。ホテルについたのが、午後四時半。いったん、車をおりて支払いをしようとしかけ、ふたたび運転手に話し、ミケランジェロ広場まで往復してくれと頼んだ。いま思えば何か広い空間の中で眺望がしたかったのだろう。運転手はこころよ承諾した。この広場のことはあまり有名だから、ここでふれるまでもない。広いテラスを何度かゆききしたり、坐ったりして、夕陽に冴えるフィレンツェの街の挑望をなんということもなく楽しんだ。
アレッツォのピエロ
アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂の壁画について詳述する紙数がなくなった。
聖書にいくらも主題がとれるのに、そしてまた、ほとんど時を同じくして「復活」をかいているのに、ここでは聖十字架物語という民間伝承に主題をもとめたことは、(他の何人かの画家も、この物語をかいている)。ぼくにはさまざまな空想をおこさせて興味深い。が、どんな空想が許されたところで、また、それをかいたいきさつの資料が出たところで、絵の質そのものとはかかわりがない──少なくともぼくには、それほどのかかわりがない。また、この祭室の向って右側がかかれたのち、ローマ教皇に招かれ、一年半ないし数年、ローマに滞在し、いまではなくなったヴァチカンの壁画をかいたのち、再び、サン・フランチェスコの壁画の左側をかいたということ、ヴァチカンの壁画はその後まったくこわされ、ラファエルによって制作されたことなどの文献による史実も、当時のピエロの位置とその変遷がしのばれて別の意味では一つの大きな興味をよぶが、現在の絵そのものとのかかわりにおいては、それほどいまのぼくには密接な関係をもたない。
唐突のようだが、この壁画のうち、ぼくがいまだに思い出せる感銘をうけた三つのシリーズだけを簡単に挙げておこう。
右側中段のシバの女王がはるばる旅してソロモンに会見するシリーズ・・・・・・左半分は、その行列の途次なのだが、その右はしにシバの女王をおき、侍女や従者がつながる。聖十字架物語によると、ある池の橋げたに、のちにキリストがかけられた十字架の木材がつかわれることになっている。女王は、この橋を渡ろうとした瞬間、それと気づき、ひざまずいて祈り、別の道を通ることになる。この図では、女王はひざまずいて敬虔に祈る真横のプロフィルでかかれている。 優雅な姿の侍女たちは立ったままで、その気高さを本当には分っていない・・・・・・おそらく、ここには優雅さのセントラリゼーションとセキュラリゼーションとの二重性がテーマであろう。この「寡黙な」 優雅な画面はシバの女王の敬虔な祈りによって、現実と切断された空気に蔽われているかのようだ。祈るとはなんとも知れぬ混沌の中で、明快にホリゾントをひろげることだと知っているものの作品である。
右半分はソロモンとシバの会見の情景だが、こちらの方は俗世的である。ついでに言っておくが、左半分は大気の中の人物群、右半分は室内の人物群だが、その仕切りは、透視図法によって、一本にしか見えない柱があるだけである。ただし、この一本にしか見えない仕切りは、その後の画家にも見られるのだが、問題なのは、色によって大気と室内の空気とをかきわけていることだろう。
次に、奥壁右側から右下側にかけてかかれているコンスタンティヌスのシリーズ・・・・・・ローマの最初のキリスト教皇帝が、 優勢な異教徒マクセンティウスの軍勢と戦う前夜、天幕の一つに眠っている。弟子の手が入っているともいわれるが、構成に少しのくるいもない。夜空にそびえる天幕群の構成も見事だし、光は天使から発している。弟子の手が入っているとすれば、明暗の度合がビエ口にしては少し強すぎるからだろう。
すぐつづく横壁には、コンスタンティヌスがローマ軍の先頭に立ち、異教徒の敵に対して、小さな白い十字架(黄金の十字架といわれるが、ぼくの見たときには白かった)をかざしている。この新しい信仰の象徴の力があまり強いので、敵は戦わずして逃げるという図、つまり、この絵の主題は普通の戦争であると同時に、一種の奇跡である。兵士たちはコンスタンティヌス時代の衣裳や武器をつけていないが、これはこれで一つの重要な意識があると思われる。形態の確かさと明快さとが、この厳粛な性格を強調しているし、活動する澄んだ清朗な朝の空気、日光はきらきらとよろいに映える。
右半分は、混乱して敗走する異教徒の軍勢が描かれ、その間に、樹々や家をうつす小川?の情景がはさまれる。左右の中央にある小さな十字架はハイライトとして象徴的にあつかわれているにちがいないが、残念ながら、このあたりから右側は全体として破損がひどい。が、わずかに残っている部分から想像すると、中間の小川をはさんで、左右が明瞭な遠近をもってかかれているように思われる。
第三に、左壁中段にかかれた街のたたずまいである。この街の位置は、あきらかに透視図法とは別の遠近法でかかれている。同時に、この街は、どこの街なのかぼくは知らないが、イタリア中部の群落はすべて、こういう風に見える・・・・・・とだけ、ここではいっておこう。
旅の日数もかぎられているせいもあり、そして、これだけ見れば、いますぐピエロの他の作品を見るのは、多すぎると思い切りローマに戻った。 井関氏と再度会ったとき、「ミゼリコルディアの聖母」の修理場に連絡する、といってくれたが、そこまでしてもらって見るのは多すぎて、少なすぎるというものだ。ウルビノ、フェララ、ヴェネツィアを巡るのもやめたくらいだら・・・・・・いずれまた、ということにした。が、七〇年夏いままで見なかったピエロは、ヴェネツィアで「聖ヒエロニムス」を見ただけにおわった。いずれまた機会があれば、ウルビノやフェララその他を訪れることもあろう。