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確証の旅─ピエロ・デラ・フランチェスカを巡って(1)

芸術新潮

   ロンドンにはじまる道
 迂闊といえば、迂闊な話だが、ピエロ・デラ・フランチェスカの作品に、ぼくがはじめて接したのは、一九六一年八月はじめロンドンのナショナル・ギャラリーでのことだった。いうまでもなく「降誕」と「キリストの洗礼」とである。
 (のちになって、もう一点「聖ジョージ」?のあるととが分ったが、この作品は「寡黙な芸術」として、たしかにすぐれているが、ピエロの作品としては、他の二点にくらべるといくぶん質がちがっているように思われる。
ときおり、ピエロの好きな人と話しているとき、よくあることだが・・・・・・先だっても、ある画家と話していて、
「ロンドンの三点・・・・・・」
と、ぼくがいうとたん、画家は、
「え!二点ではありませんか?」
「そう、ぼくもそう言おうとしていたのです。 三点のうち二点と・・・・・・あの二点を見て感銘をうけたら、もう一点には気づかぬのが本当なのでしょう。弁解するわけではないが、実際、ぼくも、はじめて見たときには、二点しか分らなかった」)
 話の順序として、余計なことかもしれぬが、・・・・・・ぼくは日記をつけず、予定とメモとを一ページにつける程度の手帳をポケットに持っているだけで、その上、メモもその場ではつけない。日本で展覧会評などを依頼されているときでさえそういう態度で作品にのぞむ。 一応目録をもらうか買うかして、会場をめぐり、目についた作品にマル印をつけておくにとどめる。その場でメモをつけたり、感想をかいたりすると、作品を見る邪魔になることが分っているからだ。家に帰ってから、もう一度全体の印象を思い浮べ、チェックした作品に一応気をつけるが、ときにはチェックした作品がはっきりとは思い出せぬことがある。それならそれでいいことにしているし、どうしても納得がゆかなければ、もう一度会場に出かけることにしている。
 外国を旅行する場合も同じである。ちがうのは、会場を見たあとで、目録などを買うことにしているくらいのものであろう。
 その日のメモを引き出して見たら、こう書いてある
 「八月二日
 昼前BOACに行き、サンパウロ行きを二十四日に決める。
 リージェント・ストリートをぶらぶらしたのち、ナショナル・ギャラリーを見る。
 夕刻ホテルに帰る。
 夕食後ケンジントン・ガーデンを散歩。 いい散歩道である。
 ナショナル・ギャラリー─
 レオナルドの「岩窟の聖母」はルーヴルのとは印象がちがう。洗い方、保存状態のちがいとばかりはいえまい。
 ピエロ・デラ・フランチェスカの二点がすばらしい。
 ボッシュ
 ブリューゲル
 ファン・アイク
 ティントレット
 フェルメール
 ターナー、カンスタブル、両方ともやはり相当な才能である。
 ゲインズボロの何点か。
 ホガース 『えび売りの娘』」
 そして、ピエロとファン・アイクとには赤で下線が引いてある。いま見ると、ずいぶん混乱しているし、それなりの感慨があるが、ここでは、ピエロについて思い出したことだけをかいておこう。
ピエロの二点を見て感銘をうけ、充実感を感じながら、一方では、しまった、と思い、その心残りがその日一日かなり長く尾をひいた・・・・・・
 ホテルがケンジントン・ガーデンの真前なので、夕食をすませた九時ごろから、まだ夕焼のつづく涼しい空気をすいながら、ラウンド・ポンドあたりまで歩き、ベンチに腰をおろして、ぼんやりしていた。凧上げを見たり、水鳥を見たり・・・・・・こんな思いが浮んできた。
 六月下旬まずローマに着き、フィレンツェにも行く予定でいながら、暑さのためにローマにとどまっただけで、イタリアの中を巡ることを割愛してしまった。
だが、同時に、こうも思って、みずから慰めた・・・・・・この次ヨーロッパに来るときは気候のいいころイタリアを まわり、ピエロを見るたのしみを残しておこう・・・・・・すぐれた作品を見るにはタイミングというものがあるものだ・・・・・・それに、いまイタリアにひきかえすわけにはいかない。一つには・・・・・・ (いまのぼくなら、少なくともヨーロッパ各地の気候についてだけは、そのとき、その場に居あわせないと何ともいえない、とはっきりいえるのだが)六一年六月下旬から七月上旬にかけてのローマ滞在中気温が非常に高かった。湿度が低いので、東京の真夏よりはしのぎいいと思っていたが、たまたまローマで知り合ったペルシャ系の若い女流画家が、ある夕、食事をともにしているとき、こういった、─私はフィレンツェに留学していて、最近ローマに出てきたのですが、フィレンツェは高温の上に湿気が強くてたまりません。私はリューマチになってしまいました、と。その言葉を信用して、ぼくはとてもいまフィレンツェを訪れる時期ではない、と思ったことである。
い ま一つは、九月一日に開催予定のサンパウロ・ビエンナーレに出席するため、少なくとも、その一週間前には当地に到着しなければならず、しかも、イギリスには約一月はいたかったからである。
 二日おいて八月五日、ぼくはまたナショナル・ギャラリーに行った。そのときのピエロについてのメモに「空気が清澄である。精神のあり方と結びついて」とつけてある。
 この「降誕」について、ぼくは帰国後日本経済新聞の「美の美」にこう解説している、─
「バリのルーヴル美術館で、ぼくのもっとも感動をうけた作品は、レオナルドの「モナ・リザ」だ、といったのでは、それだけでは話になるまいが、・・・・・・要するに、ルーヴルで一つだけ作品をあげるとすれば、これ以外にないし、これがあれば、他のものはいらぬというような、はなはだ暴力的な言葉がでてくるくらいのものである。
 それとほとんど同じようなことが、ロンドンのナショナル・ギャラリーでは、この作品についていえる。
光にみちた、清澄な絵である。
 光といっても、外光ではなく、遍照の光とでもいいたい明るさだし、清澄は、作家の精神の清澄でもある。つまり、すんだ空気、作者の精神の清澄、画面の清らかさ、さうしたものが過不足なく結びついて、定着されている。もっとも清朗な寂けさのうちに、もっとも悲劇的なものがある。
 テーマはいうまでもない。クリスマス。
 天使たちがはじめてのクリスマス聖歌をうたう。うたごえのきこえないほどの光──まるで、うたごえが光にすいこまれ、とけこんだかのようだ。
 天使は天使らしき格好をしていない。聖母も聖ヨセフも、イエスも、円環をもたぬ。が、それだけ余計に敬虔である。外見上、一般の人間とまったくかわらぬすがたをとっていることは、精神の美しさを、日常見なれたすがたときびしく区別し、まったく別の次元に定着しようとした明晰な意識と無縁ではあるまい・・・・・・」
 この最初の出だしの文章はたしかに、「はなはだ暴力的」で乱暴な話だが、いい方をかえて、要するに、こういう意味だと思っていただきたい。この作品一点があれば、それだけで、ナショナル・ギャラリーは、少なくとぼくにとっては、十分にもつ、ということだ、と。 このことは、同じナショナル・ギャラリーにあるヤン・フアン・アイクの「アルノルフィニ夫妻」についてもいえるだろう。
 世の中には超一流とでもいうより仕方のない作家がいるものだ。その作家の傑作が一点でもあれば、一つの美術館は、それだけでもつものなのだ。──この辺はのちに追い追い書いてゆくことにしよう。
 その後、何度もナショナル・ギャラリーを訪ねたのち、いまでは、ここではピエロの二点のほか、ウィルト祭壇画、ファン・アイクの二点、フェルメールを見ることにしている。そして、ときには、ボッシュ、ブリューゲル、レオナルド、ミケランジェロ・・・・・・それに、イギリス派。

   ウッフィツィの一点
 一九六三年秋、ぼくは再びイギリスに渡り、フランスをまわって、イタリアに行くことになった。秋のローマ、春のフィレンツェといわれるときいたが、秋のフィレンツェもまた清朗な空気につつまれてこころよい。
フィレンツェのことは時にふれ書くことになろうが、・・・・・・まず、ウッフィツィで、ピエロのウルビノ公夫妻の肖像を見たことからはじめよう。
 この作品は公と妃とが真横のプロフィルでむきあい一対になっている。公の顔色の生気に対して、公妃の顔は青ざめ、表情もかたいところから、公妃の死後、記念としてかかれたものと思われる。 この絵の裏側に、それぞれ、馬車にのって天使とともに天国へ赴く公と公妃を主演にした絵がかかれている。 ウルビノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロは当時勢力のある名君だったといわれる。多くの美術家や学者を庇護し、当時のすぐれた画家で、公の肖像をかいた作家も少なくない。ビエロもまた公の手あつい庇護をうけ、ウルビノにも滞在している・・・・・・と、こんな解説は本誌の読者には先刻承知だろうから要るまい。
 ぼくはウフィツィで、まずジオットの聖母子にうたれたのちは、この作品に接するまでは、他の作品にふれたくない気がする。 順路としては、たとえば、ボッチチェリの「ヴィーナス誕生」、「春」 その他すぐれた画家の作品があるにちがいないが。
 真横のプロフィルは当時の一種の流行でもあったし、同時に、ビエロの遠近法にとっても重要なものの一つだったにちがいない。ただし、ぼくの見たかぎり他の画家たちの作品も、フェデリコは、左顔しかかかれていないので、若いころ武術試合で右顔に傷を負い、そのあとがみにくく残っていた、という説も、それはそれとしてうけとれる。つまり、そうした説は絵を見る上に何のさしさわりもないからである。
このプロフィルを大気の中において、明るい外光の下の色彩で、遠くひろがる奥行きのある空間の美しさとともに人物を表現したのは、ピエロが初めかもしれない。
 色による遠近法のうち、空気遠近法ということを思いおこすかもしれない。また、線による遠近法のうち、透視図法的遠近法がすぐ思いあたるかもしれない。が、科学的なシステムではおさまりのつかぬものがある。
テンペラというハバの狭い材料の制約の中で、微妙に変化する無限の諧調を生んでいるし、しかも、そのすべての変化が緊密な関係で結びつき、少しのすき間もない。
 のちに油彩画の多くが透視図法的遠近法と、それに従う空気遠近法とを「公理」としてうけいれ、疑いをさしはさまず、ハバの広い柔軟な材料の自由を楽しむことにとらわれて、色と色との関係が間のびしているのとは正反対である。
 ピエロにとって、透視図法的遠近法は、自分の存在にかかわる問題として解決すべきものだったし、色彩は理論的には解決不可能な、それゆえに最も重要な方法だったにちがいない。
 透視図法的遠近法という一種の仮構が成立するための条件については、やがてふれるつもりだが、ピエロ自身が、フェデリコ・ダ・モンテフェルトロに捧げたといわれる 「絵画の遠近法」を書いている。申わけないが、ぼくは読んでいないので、孫引きで裾分一弘氏の文章を拝借する。
 「フランチェスカは『絵画の遠近法』の『第一書』の冒頭でつぎのようにいっている。
 『絵画は三つの主要な部分から成り立っている。それ
 は素描、測定、それに彩色である。 素描というのは、
 対象を包む横面ないし輪郭を意味する。 測定というの
 は、それぞれが比例的に置かれている(対象の) 横面
 ないし輪郭のこと。彩色というのは、色彩が対象物の
 上でいかに示されるかということ、つまり、光によっ
 変化する明るさと暗さを与えるということの意味で
 ある。この三つの部分に関して、私はただ測定のみを
 扱うことにしよう。 それをわれわれは遠近法と呼ぶこ
 とにする。 遠近法は素描とも幾分かは重なり合ってい
 る。というのも、素描なくしては遠近法の実技は解説
 することすらできないからである。われわれは彩色は
 そのまま除外しよう。線や角度や比例でもって説明の
 つくものだけを扱うことにしよう。そのためにわれわ
 れば、点線、面、個体について話をすすめよう』」
 周知のように、当時の画家は、いわゆる科学者よりも自然や人間や事物について──そして、そういってよければ、神についても──はるかに多くのことを知っていた。いわゆる学者はまだ書学問を出なかったといっていい。画家は見ることと知ることとが同じものであり、同時に描くことによって、いわば一種の創造者でもあった。
 このフランチェスカの文章はぼくにとって興味深い。絵画の三つの主要な部分をあげながら、色彩については論じなかったことだ。色彩が無縁だったからでなく、理論的に論じえなかったからである。ピエロほどすぐれた色彩をもっている画家なら、それが当然なのだ。
 色彩こそ「真の画家の唯一の方法である」とはアランの言葉である。「デッサンは勉強で補うことのできるものだが、色彩はタンペラマンによるものだ」とルノワールはいう。
 もっとも、この場合デッサンとは、当時一般的に使われていた──そして、いまでも便宜的に使われている──普通の意味をもっているにすぎない。そして、フランチェスカのいう「素描」「測定」に関係のあることだろう。しかし、現代では、──そして、あえていえば、芸術がはじまって以来──デッサンとは、こういう意義をもっている。構想全体をそこで統合するメドが直覚的に把握されているとき、その絵にデッサンがある、と。むろん、直覚的といっても、そのままでは弱いもので、天分のあるものが幾多の抵抗にぶつかり、失敗と困難を経て身につけるものにちがいない。その上、構想全体が本能的に全人格的なものとかかわりがあり、生き方自体にかかわる以上、デッサンはあらゆる人間行為のメドになる。少なくとも、ピエロの、そして、ピエロにつづくレオナルドの、デッサンとは、窮極において、こういうものだ。
 色彩となると、定義のしようもないほどむずかしい。透視図法的遠近法に従属する空気遠近法ならば、ある程度までの説明はできよう。が、実際は、そうなってしまってから、絵画に絵画としての色がなくなってしまった。絵画の色は、実際、天賦の才 (タンペラマン)というより仕方があるまいが、そういったところで、努力なしにあらわれるものではない。長い遍歴がいる。同じくルノワールの言葉だが、「絵画では公式化できるようなやり方はひとつもない。たとえば、私はあるとき、バレットの上で絵具に混ぜる油の量をきめようと試みたことがあるが、結局、きめることはできなかった。いつでも、そのときのカンでやらなければ駄目なのだ。」誰でもいいそうな、さりげない言葉の奥に秘められている努力と、不可知な秘密を感じとっていただきたい。「カン」とは、この場合、作品全体のバランスのうえに完成しうるかもしれぬ可能性への予感からはじまり、また、結果において飛躍しつつも、やはり完成への可能性にいたることなのだ。色彩について「天賦の才」をもつ画家ほどそうしたものだ。

   アレッツォでの思わぬ出会い
 フィレンツェ滞在一週間余りでは短くて、あまり、あちこちできず、一日ビエロを見るために、ホテルにいってハイヤーをたのんだ。そのときのメモを引き出すと、十一月二日八時三〇分にホテルを出、四時三〇分に帰っている。この日は晴ときどき霧雨だったが、幸い、作品を見るときはいつも、イタリアの秋の陽が冴えていた。
いわゆる太陽道路が、この辺はまだ完成していなかったので、幸いなことに紅葉(といっても、ここらの紅葉は黄葉である)した山道の起伏のある道を、──あるときは紅葉の間をぬって、あるときは眺望のよくきく道を──ゆっくりたのしみながら、アレッツォについた。ビエロを見にゆくのだといってあったので、運転手はととろえたもので、あまり余計なことをいわず、時折、風景のことをいい(当然のことながら、この山道はイングランドやイル・ド・フランスのローリングしている平原とはまったくちがうおもむきがある)、ときには、美術のととにもふれながら・・・・・・
 いい運転手だったのが幸いで、アレッツォでは、まず本寺に車をとめ、運転手は車の中で待ち、ぼくひとりを入れる、という気のくばりようだった。この運転手にはいつもそうした心やりがあった。
「マグダラのマリア」を見たが、ともかく、はやく、サン・フランチェスコ聖堂に行きたくて、そうそうに切り上げ、本寺の周辺の美しい緑地にも、ほんのちょっと足をふみ入れただけで、そこのモニュメントもあまり見ずにしまった。
 サン・フランチェスコ聖堂の正面入口から入ると、真むかい、つまり正面の奥に大きな幕を張り、 その前で坊さんが多くの信者たちに説教している。
 ぼくはこれはどうなることかと、一瞬ためらった。何の儀式なのか、坊さんが何をいっているのか分らぬまま、聴衆のうしろにしばらく立っていた・・・・・・実は前日の十一月一日金曜日が万聖祭と気づいて、ここを訪れるのに日を一日ずらしたのだが・・・・・・あの幕の裏にピエロがあるはずなのに・・・・・・いま、この壁画の修理がはじまったばかりだ、ということをローマで日本文化会館の井関正昭氏からきいたことを思い出したり・・・・・・
日本人の妙な男が、ぼう然としているのが目だったらしく、一人の黒衣の坊さんがよってきて、小声で、ビエロを見に来たのか、とたずねた。是非見たいのだ、と答えると、ではこちらへ、と身ぶりでしめし、聴衆のうしろ側をぐるっと一めぐりして、幕の裏側につれていってくれた。 そして、誰もいない祭室にぼく一人を残して坊さんは出ていった。
 祭室には修理のための足場がくんであり、しかも、 土曜日のためか、それとも説教のせいか、あるいは、この年の秋、法王庁で何百年目かの大集会があったためか、とにかく仕事は休んでいる。
これは千載一遇とでもいうのだろう。
 オペラグラスは用意してきたものの、下から見上げるだけでなく、勝手に、足場の適当な高さに昇り、それぞれの段を、眼の高さで詳細に見ることができた。
 実際の修理に手をかけたのははじまったばかりと見えて、はじめの方にいく個所か小さく、薄いタイシャ色で塗りつぶしたところがあったが、まだ、ほとんど手が入っていない。こんな見方で、この壁画を見ることのできたのは幸運というより仕方がない。
 この聖十字架物語という民間伝承に主題をとった壁画については、もう日本でもかなりいわれているから、こでは詳しく解説する必要はあるまい。のちにふれよう。
 まだ発見(あるいは発明)されたばかりの透視図法的遠近法を、それ故に、自分でもういういしい情熱を傾け追求し、科学的厳密さを失うまい、としているだけに、画面では、すでに透視図法的遠近法を超えてしまっている。色彩については書けなかったほどの天賦の才が、あくなき厳格さをもって追求した色彩は、空気遠近法をはるかに超えている。空気遠近法がイタリアに渡ったのは、ビエロより後だ、などとまぜっかえしてはいけない。空気遠近法のよりどころとなったのがファン・アイクだったにせよ、ファン・アイクの空気は、それをはるかに超えているのである。
 いつもいうことだが、超一流ともいうべき作家の場合、ある共通の特質がある。見ていて、ある時期に達すると、作品と見るものとの間に並ならぬ緊張が生ずる。その緊張は固苦しくも息ぐるしくもない。緊張そのものに一種の快感を覚えながら、現実の慰めというものではなく、もっと深く遠いところへ連れてゆかれる。緊張関係の生ずる空間は、確かに現実の空間に相違ないのだが、その中で、作品と見るものとが──あるいは、作品を媒体として、作者と見るものとが──呼応して、ある協力をしつつ、創り出す一種の架空の空間が生ずる。 いまはもういない作者──だが、かつて、この作品を制作した作者の行為そのものは、一つの事実(``)として現在にも存在し、作品の現存と同時的存在者となる。この存在が、作品を見るものを、同時に見、話す──そんなかんじである。
 いいかえれば、普通の五官ではとらえられぬ、創造された空間──(というより、時間といった方が正確なのだが)──なのだ。その空間は、一見、一般の空間とはなんら別のものではないのだが、緊張関係を結んで、見あい、話しあっているもの同士の間には、まるで極超短波のようなものが働いていて、相互に感応しあっている。カロッサ流にいえば、エーテルにつつまれた空気のようなものだ。他の人びとがまぎれこんできても、その騒音や視界の妨害は、この関係にまるでなんの影響も与えないようだし、また、騒音その他の妨害物の方でも、それに気づかず、何ごともなかったかのように過ぎ去る。この緊張関係にある空間には、排他的なところはまったくない。すべてのものが、そのところを得て生きるに相違ない。時計の針ではかれない時間である。
 ぼくは、この壁画を見ている間、幕一枚をおいた坊さんの声をきいていたはずだが、まるできこえなかったようだし、同時に、幕の背後のかなり多くの人々が、ぼくのいることに気づいていたはずだが、儀式はぼくのいることに何のさしさわりもなくすすんでいて、ぼくが出るときにも終ってなかった。
 この壁画は、たしかに方々いたんでいる。中には、破損がひどく、何がかかれてあるのか、まったく分らぬ部分がある。が、よくよく見ると、かすかに類推ができる。類推といって言葉が悪ければ、かすかに残っている色やかたちから想像力の中で、復元しようとするたのしみがのこる。見事に残っている部分に共感してからは、なおさらそうである。これほどの作品は、実際に復元してしまったら、実はなんにもならぬ。あの同時的存在が消滅してしまうからだ。
(現状をこれ以上損わぬ、という態度で修理されることを望んでいたが、実は一九七〇年夏、パリとローマとで、この修理はかなり悪い、と聞いた。ただし、その人人はともにこういった「修理が悪いと思うのは自分だけの感想です。修理前に見ているあなたに、是非見てもらいたいと」。が、二人ともぼくの信頼している人なので、フィレンツェにもゆきながら、そして再びここを訪れるつもりでいながら、ついに訪ねなかった。 七年前の、あのときの深い感銘を大切にしたかったからである。だから、どんな修理になっているか、いまのぼくにはいえない)

   町々をめぐる
 アレッツォで運転手と昼食をともにして、ここからボルゴ・サン・セボルクロへの道をほんのちょっと迂回すればモンテルキがあり、そこの聖堂に、十年ほど前に発見された「懐妊のマリア」がある、とローマで井関氏にきいていたので、そのことを運転手に話すと、モンテルキの作品は知らないが、といって、よろこんだ。
 モンテルキの道ばたの家で、聖堂の場所をきき、まことに小さな聖堂にむかった。このときだけは、運転手も一緒についてきたが、見たところ扉も窓も締っていて、あたりには誰もいない。
 二人で聖堂と住居とが一緒になっている建物をぐるっとまわって行くと、締った窓の中にひとかげがある。運転手が窓ガラスをかるくたたくと、三十歳前後の婦人が窓をあけた。日本からはるばる美術のプロフェッソールがピエロを見にきた、と運転手が告げる。あちらの扉の前で待っているように、すぐ明けるから、と手で方向を示してくれる。なんのことはない最初にぶつかった扉である。待つ間もなく、扉があいて、その女性が手に蠟燭を一本もち、それを中央の聖台において出ていった。正面にその絵がくっきりとよく見え、あとは何もない。新しく造られたか、修理されたらしい堂内は明るい。蠟燭は儀式にすぎない。
 いまでは、疑いもなくマリアはピエロの手になり、カーテンをあげる天使たちには多少なり弟子の手が入っている、ということになっている。が、鑑定家でも美術史家でもないぼくには、当時、これがまだ論争中ときいていただけで、真贋をいう用意はない。もともとぼくには真贋は問題ではない。少なくとも、それほど問題ではない。 対話ができればいいのだ。が、懐妊のマリアという珍しい題材の、いわゆる「ピエロ・デラ・フランチェスカ風」のマリア自体はたしかにすぐれたものだ。たったいま、サン・フランチェスコ聖堂を見てきたばかりの眼で見て、たしかに本物だろうと思った。
 ボルゴ・サン・セポルクロにむかう。むかしからの城門までは現代風に整備された並木道だが、古い城壁をぬけると、イタリアの村特有の家並と昔ながらの狭い石だたみの路である。小路をぬけると、ちょっとした広場があり、車はその一隅、村役場(いまでは市役所だそうだが、村役場の名がふさわしい鄙びた建物)の前にとまった。ここに、あの「復活」があるのか、とちょっととまどって広場を見まわすと、村人が二、三人ずつそととと群って話している。何百年か前から同じ風景なのだろう。
 この建物に入ると、正面に「復活」があった。メモをつけていないので、うろおぼえだが、二室に分れていて、さまざまな「ビエロ風」の作品がある。が、実をいうと、この中で、ぼくはいまでは「復活」しか覚えていない。(「ミゼリコルディアの聖母」はローマに修理に出されていて、ことにはなかった)
 少しの混濁のない清澄な色調と造形の確かさである。ピエロにとって、キリストの復活は、一つの奇跡にちがいないが、また同時にまったく自然に見える。深い闇の底から毅然として立ち上るキリストは、明朗な朝の空気のうちに昇ってくる太陽のように自然であり、また人間の尊厳を身にそなえている。
 自然であるために、それだけ超自然に感じられるとい言語撞着するような不思議な空気がただよっている。キリストにとっては黎明の空気、墓を守る兵士たちにとってはまだ覚めやらぬ夜の空気である。
 透視図法的遠近法を明快に追求した「科学性」も見られるし、兵士の顔や姿などにマンテーニャと同工のものが見られるという通説も部分的には正論だろうが、しかし、全体としてはマンテーニャの誇張された透視図法の応用とはまったく別のものだ。
 グレアム・サザランドが第二次大戦中イーゼンハイム祭壇画を見たのと前後して、この厳格で公正な、そして、やさしみのある作品を見て、大きな感銘をうけた、と述懐していたのもうなずける。

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