母子像
母子像を見てゆくと、ある種の聖母子像のように男女間の情愛と交りあったものを別とすれば、大ざっぱにいつて、安定した家族的親密感からつくられたものと、何らかの動搖の中で平安を求める希求からつくられたものとに分けられるようだ。
母と幼兒という連帯の感情は、もともと、かたちにならぬほどプリミティヴな感情−カント流にいえば、傾向的な感性的な愛のもつとも素朴なかたちかもしれない。「神が兄弟を與えたのは愛することを學ばせるためだ」という聖者の言葉がある。逆にいえば、兄弟は他人のはじまりということで、だからこそ、愛することを學ぶ必要があるのだろうが、母子の間にはそれ以前に、つまり學ぶ以前に、本能的に心情の交流がある。 支配階級のもつさまざまな文明の様相がどう變化し變貌しても、この庶民のプリミティヴな感情は變らないかもしれない。
ハニワが飾られた場所は大小の支配者たちの墳墓であり、ハニワはすべて支配者に従い、權力者に奉仕する従者である。が、ハニワの職人たちはハニワをつくつてゆくうちに、おのずから楽しみ、自分たちの生活感情に即したかたちをつくりだした。 こゝでは、つくる楽しみが作るものゝ意識をこえている。「感性的な愛」のみで、「理性的な賞的な愛」はない−あるいは、両者が未分化の状態であるが、それだけに、子を背負った女のすがたは、もつとも庶民的な象徴だろう。
おそらく、人は厖大な權力と結びつくと、何らかの宗教的あるいは社會的な默約がないかぎり、母子の感情をはなれてゆくらしい。權力闘争の場で、支配者の側にあるものは、母子の感情にひたる暇がないのだろうか?クリスト教以前の古代や東洋の權力者たちの文明では、あまり母子像はみあたらぬようだ。(サビニの女たちの傅説―後述が、かなり大きな問題になったのはいつごろだろう。)
エジプトのアケナトン時代に王が王女を抱いている未完成の彫像がある。 はじめて寫眞を一見したとき、ぼくは母子像かと思ったが、この王がアク・エン・アトン自身の像と知って、實は少しばかりおどろいた。これは丁度、母子像と逆で父娘像である。一代に戦争がなかったという、この若くして死んだ、進歩的な英王は、當時の民俗と結びついた一つの理想像だろう、丁度、本来、男性たるべき佛教の菩薩たちの容姿が女性にちかいのと共通した心情でもあろうか?のみならず、一代の間に戦争をやめた王といえば、佛教に歸去したインドの大王を思い出させる。
母と子、父と娘という關係の精神分析學上の興味はどうなっていようと、とにかく、母子間の愛情が、一つの平和を求め、平和への象徴としてあらわれるのは、發生的には、たぶん、支配者たちの間ではなく、壓迫された被支配者の側だろう。多くの激しい動亂を通して壓迫され虐げられた感情の中で、もつとも自然發生的な母子關係すら危機にさらされたという意識から生ずるにちがいない。たぶん、こゝに、傾向的感性的な愛が、理性的實踐的な愛に轉換する契機がある。
古代あるいは東方的世界では、こうした觀念は支配者たちにふれなかった。奴隷の犠牲において成立する文明世界では、エジプトにせよ、ギリシアにせよ、ローマにせよ、古代シナにせよ、つねに弱者は壓迫されていゝ存在だった。というより、むしろ、支配者は義務として弱者を壓迫しなければならなかつた。殺すことが許される存在ではなく、あえて見殺しにすべき存在であり、それゆえに、支配者たちは奴隷の使用を正常化しようとさえしなかつた。
クリスト教が迫害されることからはじまつたことは意味深い。いつたん、壓迫される側に立てば、まず、母子という感情が一つの理念にまでいたる過程は、いまなら、云云するまでもない。クリスト教の同情心−隣人愛という理想は、おそらく古代にはないものだった。母子という感性的な愛が理性的な愛になるまでには、長い時間がかゝつたものだ。 クリスト教の公認後も、神の愛や隣人愛が虐げられた弱者の怨恨的心情から脱するまでには、ずいぶん長い。奴隷の禁止が名目上にせよ、普及したのは、ついとの間のことだ。
イエスや使徒たちの求めた神は不可視の神であり、すべての可視的な神を拒否したが、たぶん、このことは母子という血縁による感性的な愛を拒絶することゝ結びついている。
イエスが「わが母とは誰ぞ、わが兄弟とは誰ぞ」といつたと書いた傅記作者は、原始クリスト教會におけるマリアやイエスの兄弟たちの位地に對して何らかの政治的考慮があったという人もあるが、しかし、たぶん、傅記作者はそれほど政策的ではあるまい。母と兄弟という血縁による結びつきは、イエスの愛の母胎だったにせよ、それが實踐的な愛に轉換するためには、ついには拒絶されねばならなかったのである。
母子という血縁による本能的な愛を一轉し、激しい混亂と狂氣とを通して、一つの普遍的な愛にまで、意識を高めた、いま一つの例がある。訶梨帝母(鬼子母神)傅説である。これをつくり出し、傅承した、最も哲學的な宗教民族の知恵はすさまじい。
しかし、こういう不可視の連帯關係に神の節理を見出し、感性的な愛を拒否して眼に見えぬ神の観念を持ちつゞけることは人間にとつて、はなはだ困難である。ぼくは以前、こんな風にかいたことがある。
「イエスが、人間の規制しうる奇蹟を行う神、つまり、あらゆる可視的な神を拒否してから、わずか數世代後のカタコンブにはすでに聖像が描かれている。……使徒やその近邊の人々は、唯一の書の言葉の造型性を示すことのみによつて、宣教しようとしたし、また、宣教しうると信じたらしい。が、おそらく、不可視の神のすがたを持續的に想定することは人間にとつて極めて困難だ。言葉の造型性は次第に繪画の造型性を援助者として求め、ついには、造型性をすべて繪画に委ねるという結果になった。カトリックはおそらくこの事情を俊敏に利用した。佛画もたぶん同様である。
クリスト教にせよ、佛教にせよ、こうして聖像がはじまり、さらに聖像學が起った……」
聖母崇拜は中世の支配者たちにとって、利用するに恰好のものだったにちがいない。各人がその肉親の母を通して、聖母につながるという理想は、たぶんゴシック建築の様式を生んだ思想と共通するものだろうが、しかし、絢爛として天空に仰がれる聖母は、イエスとは無縁であろう。この母に抱かれた幼兒は、少くとも音書中の幼児とは無縁である。イエスが幼兒を弟子たちの中において「汝ら愼みて、この小さき者の一人をも悔るな」といつたとき、その幼兒はこんなもつともらしいすがたではなかったはずである。
のみならず、イエス出生にまつわる傳説がある。―
「爰ににヘロデ、博士たちに賺されたりと悟りて、甚だしく慣おり、
人を遣し、博士たちによりて詳細にせし時を計り、ベツレヘム及び
その地方の二歳以下の男の兄をことごとく殺せり。ここに豫言者
エレミヤによりて云われたる言は、成就したり。日く、「聲ラマに
ありて聞ゆ、なげきなり、いとゞしきかなしみなり。ラケル己が
子らを歎き、子等のなき故に慰めらるるを厭う。」
ミケランジェロの「洪水」の母は、たしかに慰めらるるを厭うだろう。イタリア・ルネサンスという世俗的な「ヴィルトゥ」と「エネルギーの時代は、同時に、サヴォナロラを生んだが、藝術家として、この邊に眞向うからぶつかったのはミケランジェロにちがいない。彼が改心後に、「繪も、また彫刻も、十字架の上からわれわれを抱かんとして腕をひろげる、かの聖なる愛へと向う魂を、もはや魅惑せるであろう」といつたのは當然かもしれぬ。
「洪水」による犠牲を何のわだかまりもなくうけいれるのは舊約の世界であろう。また、訶梨帝母は殺した幼児の血の上に、母子の守護神になった。が、犠牲――ことに無辜の幼兄の犠牲において、天國の幸福をうるということへの疑問は、「愛の宗教」の發祚たる新約の大問題であろう。幼兒の犠牲による天國ならば、たとえ、その天國が實現しても、「天國への招待状」 を拒絶する――これは「カラマゾフ」の一主題である。
しかし、クリスト教によって母子の愛――それが、感性的であるにせよ、理性的であるにせよ、また黙示録的な「虐げられた弱者の怨恨」の産物であったにせよ、宮廷的乃至家庭的安定の産物だったにせよ――母子の愛が普及して以来、幾多の動亂にあつて、そのたびに、母子というもつとも非力なものが平和への最大の力となるという熱烈な感情と希求とがひろまったことも事實である。
フランス革命という大變動期に、ダヴィッドは「サビニの女たち」を描いている。サビニは、イタリア中部にあった國の名で、傅説によると、ローマ建設後、ローマは女に不足してサビニに女を求めたが、嘲笑をもつて拒否された。ローマ人は恨みをかくしてサビニ人を祭りにさそい、その隙に、サビニの女たちを掠奪してしまった。その結果、数多の戦闘が起り、サビニ人はついにローマに殺到したが、このとき、掠奪されてローマ人の妻になつていた女たちが子供を抱えて、夫の軍と兄弟の軍との間に和解を求めて走り入り、そのため、講和が成立したという。
との傅説は多くのことを暗示しているし、また、ダヴィッドが古代ローマの傅説に取材した事情は當時の社會状態や意識と複雑に結びついているが、ともかく、こゝでは、最も非力な母子が和解と平和への最大の推進力になつている。
動亂から母子を守るのではなく、平和を母子が守るという希念が觀念的な感傷にならぬためには、たぶん、自分の身のまわりの、手のとゞくかぎりのことを誠實に行うという、つゝましい男性的な行爲に裏づけられねばなるまい。
繪画様式はともかくとして、ダヴィッドは「キオス島の虐殺」を描いたドラクロアよりも、もつと、ロマン主義者だったかもしれない。
「キオス島の虐殺」はギリシアに對する愛と、トルコに對する憎悪とが、ブルボン王朝の反動と闘う共和主義者のロマン主義的感情に結びついた激しい感情から發したものにちがいない。
が、これは、主體の動かぬ情熱である。いいかえれば、自分の立つ地盤たるヨーロッパがまだ危殆にあることを意識していない状態だ。いや、むしろ、世界に對するヨーロッパの優位と主導權との上に立つロマン主義である。これは、當時のロマン主義の限界であるのか、それとも、ロマン主義ということの限界なのか?
ドーミエの「洗濯女」の、ふと街かどで見出すような、静かなリアリズムは、大げさな身ぶりがないだけに、それだけ、作者のうけた傷は深く、愛情は深いにちがいない。たぶん、ドーミエはヨーロッパの危機を身をもって感じていた。
二〇世紀になって、ピカソが若いころから母子像を多く描いて以来、その後につゞくものに大きな影響を與えているように思われる。ヨーロッパのみならず、世界的な動亂と不安の中で、母子という觀念は大きな問題をなげかける。が、しかし、母と子との問題が標語のように叫ばれたら――あらゆる標語と同様――そのテーマをいま一度、ぼくたちはうけとめて、かみしめなければなるまい。動亂の渦中にある人々は、母子の悲惨な状態は想像することさえ拒否するかもしれない。悲惨な母子をおもうことは、それだけで、すでに人間の生命に對する冒瀆になりかねない。 逆説ではない。あまり、都合のいゝ題目ができたら用心がいる。「感性的な愛」を拒絶するには、そんな手だてが必要なのではあるまいか?