top of page
< Back

棟方志功の板画

芸術新潮

 サンパウロ・ビエンナーレ出品作の國内展の中に、棟方志功の「湧然する女者達」といふ題の木版画があった。豐滿な、健康な、エロティックな三人の女たちが、原初的な生命力にあふれて、自然にからだがリズミカルに働き、画全體にはちきれさうに、まるで、をどつてゐるやうな姿をみせてゐた。が、この題は何のことかさつばり分らない。題と画の關係が分らぬのではなく、題そのものの意味が分らなかった。例の如く、佛教説話からとつたものかもしれないが、佛教説話の古い譯語をもつてこられると、ぼくにはたいてい、わからないのである。
 ところが、 工合に、これは海外出品のため、英譯でVigorous women are carriers of lipe-force となつてゐる。これなら、それなりにイデーが分った。
 この画で、この題なら、ヨーロッパ人やアメリカ人にもよく分るだらう。その上、棟方はこゝ數年、海外で注目をひいてゐるのだから・・・・・・
 東洋的本源、――つまり、近世の樂天的合理主義によごされない原初的な生命力、そのエロス――を求めるのは二〇世紀になってからのヨーロッパ文化圏での一つの大きな課題だからでもある。
 ブレイクの詩にこんなのがある――
  禁慾は赤らめる四肢や炎なす髪の
  一面に砂をまけど、
  みたされたる慾望は
  そこに生命と美の果實を植う
                (壽岳文章譯)
 ブレイクは一九世紀初頭の東洋的神秘思想の色彩の強い、猛烈なクリスト教徒だが、近世ヨーロッパのバックボーンといはれる新教、ことにピューリタンが、性といふものをあまりに秘密にしすぎたため、かつて、性のみだれをたゞすことにならず、たゞ、性のみだれの裏がへしにすぎなくなったとき、性に原初的な生命力を求めたともいへる。ブレイクが正常にみとめられはじめたのは、やうやく今世紀になってからである。こんな思想がロレンスなどに系譜をひくのは明瞭だらう。
 ルネサンス以来一九世紀までの樂天的合理主義がゆきづまつて、ルネサンス以前の中世や古代に眼をつけたり、あるひは、近世合理主義とほとんど關係のない東洋へ眼をむけた、ヨーロッパの知識人はすくなくない。たとへば、ジイドがドストエフスキーについて、佛教と西歐精神の結婚、または、クリスト教と東洋思想の結婚のことをいつてゐるし、へッセは・・・・・・いや、例をあげればきりがない。最近では、アメリカのヘミングウェイの「老人と海」なども、ヨーロッパ合理主義からの轉換であり、獨立であらう。
 歴史家のランケが、一九世紀のなかばに、東洋は数千年のむかしに開花して、その後は停滞してゐる、といつたときから、まだ百年くらしかたつてゐないのに、このアリサマである。(どうも、棟方志功のことをいふのに、いろんな外國人の名をあげて恐縮である。 極端に時間がないための、やむをえぬ處置と思っていたゞきたい。)
 最近のヨーロッパやアメリカの東洋への志向といふ點からみても、棟方の画は、それなりに理解されるだらう。 版画部で一等賞をえたのも當然かもしれない。
 ところで、「湧然する女者達」といふ題は、ぼくにすら、英語の方が分りいゝといふ點に、ぼくはかなり問題があると思ふのだ。いはば、この言葉はいまの日本語ではないといふことだ。ぼくの分らぬ日本語があったって、そんなこと少しも不思議はないが、しかし、すくなくとも、ぼくに分らぬ日本語は、日本人のうち九〇パーセントが分らぬのではあるまいか?それにもかゝはらず、こんな題をつける感覺が、ぼくにはちょっと分りにくいのである。
 近世合理主義によごされない、とさつきぼくはいつた。 棟方はたぶん、よごされてゐないのだらう。 反對に、ぼくはいくらかよごされてゐるらしい。
 だが、このよごされてなかったことが、極端にいふと、戦争中、右翼の政策的謀略に利用されたと思はれるふしがある。また、これからも、そんな危険がないとはいへない。むろん、だからといって、ぼくは棟方に責任があるなどといふのではない。たゞ、見る方は一應用心がカンヨウだといひたいまでだ。
 なんに利用されたところで、その結果に棟方は責任はあるまい。それほどの責任は人間には負へぬものだろう。のみならず、棟方は個人的責任よりも、むしろ、もっと大きなもの――人間の全體といつてもいゝし、佛教の佛といふ觀念といつてもいゝが――を自分を支へるものとして観じてゐるのだらう。 個人的責任といふことを目標として可視的にしたことが、そもそも近世合理主義の生んだ道徳にすぎないのかもしれない。 棟方はその邊には無關係なのだらう。
 身を支へられる、個人より大きなものとして、佛教をえらんだとすれば、これは、ムジンザウな寶庫にちがひない。貴重藥はいくらでもあるらしい。佛教のことは全く知らないが、通説にしたがへば、世界中の宗教中、もつとも哲學的といはれるし、また、古代インドの特徴の一つは、神話傳説の豊富なことだらう。
棟方のかく女は、たいてい、インド古代の舞踊のやうだ。インド舞踊は、とんでもなくエロティックであり、それだからまた、深々とした敬虔なものがある。それに、本来、男神たるものが、ほとんどみな女の姿態をとつて造型されることもおもしろい。
 古代インド舞踊といえば、その原型として、有名なシヴァの舞踏があるが、これについては以前別のところにかいたことがあるので、自分の文章で恐縮だが、ちょっと引用しておく――
  シヴァはもとは狂暴なおそるべき破壊神
 で、これがおどりだすと、何ものも破壊さ
 れてしまふといふのだが、いつの間にか創
 造神に變貌した。もとはブラーフマー、ヴ
 ィシヌ、シヴァの三神が中心的な神だが、
 次第にとの三神が一體化されるやうになっ
 たのである。シヴァといふ激動的な狂暴な
 破壊神が明知の神ヴィシヌおよび創造神ブ
 ラーファーと、一體化されるのは、實に、
 シヴァが宇宙を舞臺として舞踏するときな
 のである。
  これは壮大な歡喜の舞踏だ。創造神が宇
 宙を舞䑓としてをどる。つまり、宇宙が舞
 踏そのものになって流動する。こゝでは、
 もう、踊り手と見物人との區別はない。自
 分と他人、見る自己と見られる自己などと
 いふ個々に區分されてゐたものが、まつた
 く境界を失ひ、すべてが舞踏の躍動のうち
 で一單位存在にまで還元される。 宇宙その
 ものゝ舞踏といふ最大の形式にまきこまれ
 て、人間がそれまで營々としてきづき上げ
 てきた諸々の形式は一瞬にしてふきとんで
 しまふが、同時に、この舞踏そのもゝの
 ちに、あらためて、すべてのものが生成し
 てくる・・・・・・
 まあ、インド神話の寶庫は、ふし穴からちよつとのぞいただけで、めがくらむやうだ。棟方も、たぶん、めがくらんだにちがひない。だから、ときどき變な言葉をつかふのだらう。
 棟方が、しかし、妙な言葉をつかったり、奇矯な聲音を殺したりしても、新興宗教の教祖にならぬのは、作品といふものに制約されてゐるからだ。ことに、木板といふ制約の多い材料に。
以前こんなことをいつてゐる――
  「板画は間接的な働きによって作られるも
 の丈に、肉筆では出し得ない效果――直接
 なもの以上に、韻律の世界を把握して獨自
 の復現的效果を、展開するものと云ふこと
 が出来ませう。かういふ性質を有つてゐる
 丈に、板画には必然、普通の肉筆とは違っ
 た美しさが宿るものと考へます・・・・・・」
 また、「肉筆への一切の阿諂を断ち切った境涯、凡そ肉筆的なものの介在を厳に、許容しない行程」に、棟方は板画の本質を求めてゐる。
 かいふ言葉は、まったく正常な言葉なのだ。すこしも奇矯ではない。画面から外へはみ出しさうな流動をしつかり画面に定著するのは、からいふ正常な制約なのだ。
 ぼくが望みたいのは、かういふ、通じあへる言葉で、話してもらひたいことなのだ。
 めがくらんで、通じがたい日本語をつかつてゐるかぎり、藝術を通して、絶對者へとつながる道が、個人として、あるいはあるかもしれぬが(あるとは断言しない、むしろ、ないと断言したいのだが)、それでは、様式はうけつがれず、おそらく、個人としての完成はあつても、挫折にならざるをえないのではあるまいか?
(美術評論家)

©2020 by 気まぐれ散歩道。Wix.com で作成されました。

bottom of page