序にかえて
世界美術体系 第20巻
序にかえて
イギリス近世美術──ことに絵画、彫刻──は、おおざっぱにいって、既成のヨーロッパ美術史の見方からすると、大陸諸国にくらべ、はるかに後進国ということになる。1632年チャールズ1世の招きでヴァン・ダイクが渡英したときにはじまり、イギリス人の手で独立したひとつの位置をもつようになったのは、ようやく18世紀中葉である。
これ以前の造型作品は17世紀のピューリタン革命のため、中世建築をはじめ、ルネサンスの頃のものまで、かなり破壊され、それが造型芸術における後進性のひとつの大きな原因だともいわれる。が、近世的な意味での絵画、彫刻は、イギリスでは、もともとルネサンスの頃でも、他の芸術分野の旺盛なのにくらべ、たいしてふるわなかった。
(ことに彫刻となると、20世紀になってヘンリ・ムアが出るまで、すくなくともいままでに発見されたものには、見るべきものがほとんどないので、近世の美術では、絵画に限られる。)
13世紀ヘンリ3世のころから14、15世紀にわたって、外国の芸術家たちが渡英し、寺院を建て、それに附随した彫刻や絵画を作ったが、当時の作家は王侯貴族や寺院に附属する職人で、通例としてひとりで、建築家、彫刻家、画家、木工、金銀細工師、具足師、鞍作り、裁縫師等を兼ねているものが多い。絶対君主制の基礎を確立したヘンリ7世在位の頃、イタリアはルネサンスの盛期をむかえるが、イギリスではまだ一般に中世的なものが強い。教会のために聖書物語が作られたり、使徒の木彫が彫られ、王侯の肖像が描かれたが、まだ芸術として独立した存在になっているとはいえない。この頃までに渡英した外国作家はまず二流三流のものであった。
ヘンリ8世の即位後、肖像画がようやく興隆してきたと一応いえる。この専制君主は宮廷を壮厳に飾ることによって、君主の絶対権を誇示し、フランスやスペインの宮廷に張りあったといわれる。多くの外国画家が渡英し、優遇されたが、そのうちハンス・ホルバイン (1497〜1543) はイギリスに定住した最初の一流画家といえる。が、イギリス人の画家としては、ホルパインの流れを汲みつつ風土的なものを感じさせるミニアチュア画家ニコラス・ヒリアード(Nicholas Hilliard、1537〜1619)と、その弟子アイザック・オリヴァー (Isaac Oliver、1564〜1617)がいるくらいのものだ。風土的といえば、あえて地方的な特徴を強調したと思われるナサニエル・ベイコン(Nathaniel Bacon、1585〜1627)や初期ステュアート朝の画家ジョン・サウチ (John Souch) の名も挙げておきたい。
のちにピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世 (1600〜49) は絶対王制の絶頂期と崩壊期にあって、国民から浮き上った君主だったが、彼は彼なりの芸術愛好家だった。在位中は諸外国の一流の画家の作品が集められた。ルーベンス (1577〜1640)が1629年外交使節としてロンドンに来たことも大きな刺激を与えた。ついで1632年ヴァン・ダイクの渡英が以後一世紀あまり、イギリスのアカデミックな肖像画にほとんど決定的な影響を与えることになる。
さて、ピューリタン革命だが・・・・・・ルネサンスと宗教改革とは、ともに中世への批判あるいは中世カトリックへの批判として出発したにはちがいないが、この二つの運動は決定的に矛盾した要因をもっている。ピューリタン革命がカトリック的作品のみではなく、造型作品を徹底的に破壊しようとしたのは当然である。この破壊からまぬがれたのは肖像画だけだったともいわれる。が、 ピューリタン革命は美術にとって損失とばかりはいえまい。近代国家はイタリアルネサンスやいわゆるパロックを、宗教改革によっていま一度否定したアルプス以北から出発した。美術もまた社会機能の一つだから、そうした一連の活動と無縁ではありえない。
また、一般にイギリス人は近世的な意味での造型作品の形態や色彩に対しては、あまり敏感でない、と一応はいえるだろう。たとえば、文学にみられる想像力の逞しさ、 自然の事物に執拗にくいさがるねばり、いろいろの事件に関する強い関心などにくらべ、形を形として、色を色としてたのしむことは──あるいは、それをみずからつくってたのしむことは──不得手かもしれない。 湿潤で雲霧の多い風土は地味だし、北欧的な感覚が強く、ことにその感覚を基盤とする宗教的倫理感が一般に強く支配していたためであろう。中世芸術には大陸のそれと類似しつつもかなり異質のすぐれた作品を残している。また、実質的な国民性のゆえでもあろう。実用芸術や工芸には古くから現代まで、すぐれた才能を示している。
一説に、大陸の美術は建築およびそれに付属した壁画、彫刻から出発したのに反し、イギリス美術は宗教的な写本挿絵やミニアチュアなどの伝統からはじまるともいわれるが、それもうなずけるふしがある。いや、むしろ、現代芸術の観点から中世芸術やいわゆるプリミティヴ芸術に焦点をあわすと、近世的合理主義を基礎とする一般的なヨーロッパ美術史の大系とは別の大系をたてねばならなくなろう。この問題については、のちにすこしばかりおりおりふれることになろうが、この巻で扱うにはあまりに大きすぎよう。
ともあれ、イギリス美術は、自国の後進性をあまり単純に認めて、大陸諸国の様式をそのまま踏襲したものより、大陸の美術に接触し、触発されつつ、自国の風土、生活に密着して独自に生れてきたものがおもしろい。もちろん、芸術作品である以上、風土や生活に密着しているといっても、それとは臍の緒が切れているというような関係で、独立しているにちがいないが。
18世紀の啓蒙的擬古典時代にはじまったイギリス近世絵画は、以後大陸諸国の美術を進んで学んだし、また19世紀末から20世紀初頭にかけて、印象主義以後の近代美術の動向の影響の受け方もけっして弱いものではない。が、 目にたつ表面では、いつも、そんな影響にひきまわされながら、もうひとつ別の、あまり表面にはあらわれぬ地味な庶民的な力があって、これが、そうした揺れをいつの間にか落ち着かせる。あるいは、その力によってバランスがとれる。概していえば、いわゆる古典的な型態になじまぬ、この庶民的な力の総合力がイギリスのあらゆる芸術活動の推進力だったといってよかろう。19世紀における二つの大きな流れ──風景画と、ブレイクを頂点とするいわゆる幻想絵画──にしても、また、最近三十年ほどの彫刻、絵画の活撥な動きにしても、この庶民的な力の総合を基礎とする長い蓄積の成果と思われる。かたくなというよりしかたのないほどの保守性と、おどろくべき飛躍とが同居しているのも、こうした底流があるからこそ可能なのだろう。