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小野忠弘

芸術新潮

 ──寒天のかたまりを、手でぎゅっとにぎると、指の間からおしつぶされて出てくる、そんな感觸を、つくりたかったのですよ──「ヘリクレサムトランス」だったか、あるひは別の作品だったか、とにかく二、三年前、例のエタイの知れぬ、木と鐵とをくつゝけた彫刻を前にして、小野忠弘はぼくにいつた。
 何とも變なものだ。寒天をにぎりしめたときの感觸、──氣味が悪いし、たよりない。が、たよりないから、その感觸だけはたしかめたい、あるひは、それだけはたしかなものにしたい、といふ意欲があるにちがひない。
實際、奇妙な、エタイの知れぬ空間の中に投げこまれて、ぼくたちは、そんなたよりない感觸だけをたよりにしなければならなくなるときがあるものだ。
 信じがたい空間の中で、ぼくたちの視界を邪魔するもの、──それが、邪魔なものか、魅力のあるものか知らぬが──とにかく、ぼくたちは、できるかぎり、見通しをつけようとするのだが、それを妨害してくる。夢の中で、あるひは、白晝でも、ふと、そんな氣になるときがある。むろん、白晝でも夜でも、夢などのことはどうでもよろしい。大切なのは、目をはつきり覺まして、常套的なかたちや意味や記號に蔽はれた事物を、その常套的なかたちや意味や記號から開放して、どうにも手のつけられぬやうな存在として感じることなのだ。そして、それをはつきりと存在者たらしめることなのだ。
 ついでに、いつておくが、小野は自分の作品に奇妙キテレツな題名をつける。「ヘリクレサムトランス」もさうだが、そのほかに「ムチンY」とか「アソコミセテス」とか・・・・・・一種の通人カタギがあつて、そんなことをたのしんでゐるのかもしれない。いはくインネンがあるのかないのか、そんなことはどうでもいゝことなのだらう。シュールレアリスムでいふところの、ハルシレーションとか、オートマティックとか無意識とかと關係があるのかも知れない。物をつくりながら、あるひは、道を歩きながら、頭のどこか盲點みたいなところで、ひよつと思ひつくのか、それとも、ぶつぶつ無意識でつぶやく、そのつぶやきの一つが、ふと顔にひつかかるのか。それが、開放への道路──ぼくたちが、ぼくたちの形態の中にとぢとめられてゐるばかりではなく、常套の記號や意味に敵はれてゐるとき、そこから何げなく開放される一つの道路──で、おこなはれるのかもしれない。が、むろん、そんな題名などは道楽みたいなものだ。気質のおもしろさ、をかしさで、聞くものをたのしませることだってできる。問題なのは、作品そのものだ。作品は決して道楽ではない。少くとも、道楽だけでは、成立しない。むかしの聖人君子だって、そんな、たよりない、無氣味な存在を唯一のたよりにしたことだってあるにちがひない。河のほとりに立って、「逝くものはかくの如きか、晝夜をおかず」とつぶやいたとき、この東洋の最大の合理精神の持主は、いまゝで名稱を與へられ、距離を測定されてゐた空間とは別のたよりない、しかし、動かしがたい空間と時間を感じてゐたにちがひあるまい。そのまゝではたよりないから、合理的に秩序を求めたのだろう。藝術家は、そんなとき、實質的に物をつくらうとするのだ。
 ぼくたちの周圍には、概念的に常套化され、俗語になった言葉がマンエンしてゐる。一見、問ひに對する答へが、ある軌道にのつて、うまくゆききしてゐるかに見える。が、實は、はじから答へはきまつてゐるし、いや、問ひそのものがすでに既成の答へを豫想してきまつてゐるので、こゝでは、本格的に聞くといふ態度がとられてゐない。そんなとき、軌道をはづれた言葉がふと、ある秘密なたのしさをもつて出てくる。無意味な音のやうな言葉が。記號や意味につきまとはれぬ言葉が。
 彫刻家であり、画家である小野忠弘の場合、そんな言葉は、道楽でかたづけられるかもしれぬが、彫刻や繪画ではさう簡単にはいかぬ。
 木に鐵をくっつけるといふ思ひがけぬ素材の結合も、はじまったときは、いはゞ、一種の偶然かもしれぬが、それが作品として存在するためには、必然のものにしなければならぬのだ。繪画の場合の、石膏、樹脂、アマニ油、ロウ、麻布、紙切れなどの混合も同じことだ。
 奔放なイメージを展開してゐるやうに見えながら、實は、堅固な材料にぶつかつてゆかうとしてゐるのではあるまいか?あるひは、もともと、柔軟な材料のうちに、潜在的な堅固さを、「抽象的」に、想定し、そこに一種の抵抗感をもたうとしてゐるのではあるまいか?くづれたり、流れたりしてしまひさうな材料、──そして、その材料と不即不離の關係にある想念──が、くづれ、流れようとする、まさにそこのところで、くさりどめでもしたやうな、画面も、かうしてでてくるらしい。
 材料の柔軟さは、ときに、想念をも画面をも、奇妙にヤワにしてしまふときがある。自分で探り出したものにせよ、手法が逆に自分をしぼりつけるからだ。 ことに、最近の新しい實験をこゝろみる人には、その危険がそれだけ多いものだ。繪画の場合は、それでも一應、工藝的な効果で見せうるが、彫刻の場合はさうはいかない。(彫刻はゴマカシのきかぬ藝術である。)今度の個展でも、さうした工藝的な効果でもたせたものがいくつかまじつてゐたと思はれる。(實は、個展開期中には、ぼくは見にゆけず、終つたのちに画廊にしまつてあった数點をあらためて見せてもらっただけなので、全體については何ともいへないのだが・・・・・・)
むろん、立派なものがいくつかあった。だいたい、それは、材料としての抵抗を、對象としての抵抗に轉換してゐるものだった。
 こゝで、材料といふのは、いはゞ一つの手段であり、對象といふのは、ぼく(たち)の他の存在者のことである。他の存在者──それがなければ、ぼく(たち)の意志がうちかつべきものがなくなり、したがって、意志そのものがなくなり、ぼく(たち)自身も存在者たりえなくなるものである。
現在では、材料としての抵抗はほとんどなくなつてゐるかに見える。木に鐵をつけることも、石膏、アマン油、ロウ、麻布、紙など手あたり次第に画面にのせることもできる。いや、どんな堅い材質であらうと、機械力と手法とは、柔軟なものにしてしまふことができる。が、さうなればなるほど、逆に、對象としての抵抗が、潜在的に、より難解な様相をとつてあらはれるにちがひないのだ。そして、藝術家が抵抗すべき相手は、實は、いつだって、この潜在的なものであったし、いまでもさうなのだ。すぐさま目の前に、それと分るかたちで立つてゐるものではない。
 寒天をにぎりしめたときの、皮膚に感じる感觸──こんな原初的な感覺に、まづ、たよらうとする意志は、このたよりにならぬ空間の中で、この信頼のおけぬ人間のさまざまな動きの中で、まづ、原初的な生理に、よりどころを見出さうとするのかもしれない。
 この人間の存在への意志がなかったならば、ワイセツになるかもしれぬものが、この意志に支へられて、美しいものになつてゐる。
 いまのところ、小野忠弘のつくる作品は、人間のハイセッ物みたいなものかもしれない。美學用語をもちひれば、カタルシスである。人間の生命力は、何らかの抑壓をうけて、何らかの方法で、開放のはけ口を見出す、といつてもいゝ。
 香水のにほひは、密度を濃くすると、人間のハイセツ物のにほひによく似るといふ。小野忠弘は、そこまで香料を濃くしようとしてゐるのかもしれないし、あるひは、うすめれば香料になる、その原質をつくり出してゐるのかもしれない。いつだったか、座談會で、土方定一が、「便所の壁だ」といみじくもいつたものだ。
作品自體が、そのおかれるべき空間を、自分の方からつくり出すためには、こんな手だてもいるのだらう。

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