宗達「風神雷神図」について
みづゑ
宗達筆といわれる「風神雷神図」についてうっかりひきうけた。しまったことをしたものである。 いまさら印象批評をするわけにはいかぬし、随想となるとこの絵とその作者とは、ぼくの片々たる随想でとらえられるような、ナマやさしいものではない。これは、とてつもなくエライやつにちがいないのだ。
しかし、やむをえない、思いついたことを少々ばかり・・・・・・
以前本誌でぼくはこんなことを書いた──
「宗達の雷神は白色の身にタイコを背負い、黒雲をよんで、金地の上を走り、 あばれまわっている。たしかに、このかたちは天神縁起の雷神のかたちと同じだが、もはや、すさまじいギョウソウをしていない。筋骨たくましく、容貌カイイだが、いかにもユーモラスである。着想からいっても、構図からみても、日本絵画史上、ちょっと類がない。装飾的な新様式を創造しているが、それが単なる装飾におちいらず、からっとした男々しい生命力を感じさせる。人間をときどきおびやかす雷神などというエタイの知れぬものを、逆に人間がとっつかまえて、心を開放する強さである。同時に、雷神を菅公の怨霊から救いだしている。こんな雷神なら、うたれて死ぬヤツはあるまい。第一、怨霊など、いまどきはやらないよ、といっているようだ。雷のおそろしさをとっつかまえた人間のほほえみがある。天神が怨霊の神から学問の神になったのは、いつごろからか知らぬが、こんな人間の精神と結びついたものに相違ない。怨念から学問への移行──これを、平凡な解釈家は日本的ボン・サンスなどとかたずけるが、どうして、そんなナマやさしいものではない。大した知恵であり、大した度胸である・・・・・・」
風神の方も、むろん、同じことである。
説明的な描写のまったくない、広い空間にものをつかまえたゆとりとユーモアとがある。
構図や筆触にも、たぶん 関係があろう。風神は横に疾走するのではなく、また、見るもの──第一に作者──にむかって、まっすぐに向ってくるのでもない。いはば、その中間あたりをめざして、ナナメにむかう。雷神も、ナナメ下方に焦点をあてている。
一見、奔放にかたちをかいているようだが、構図は、はなはだ正確である。画面を何等分かに区切り、対角線をひいたり、放射線をひいたり、円や三角形を求めてみると、キク整然としている。その整然とした構成は、「舞楽図」のきしっとしまった布置に通じるものかもしれないが、この辺は、柳亮がうまいこと解説してくれるだろう、
筆触──ことに雲の筆触は肉体運動のマナリズムをこえてしまっている。筆触に身をかける、現代のアメリカの抽象表現派やアンフォルメルの人たちについて、ぼくはいつだったか、作者がまるで作中人物のように見え、作品が作者から、あるいは、作者が作品からふっきれず、ヘソの緒が切れていない、といったことがあるが、それは全身運動が、それなりのマナリズムからぬけ切れぬからなのだと思われる。
この雲の筆触は作者の動きからふっきれている、といって悪ければ、 (何故といって、どうしたって、作者が自分の動きからはなれるわけにはいかぬのだから、) こういいなほしてもいい。自分の動きが何ものかに強制され、規制されているとすれば、同時に、自分の動きを強制し、規制するものも、また、その限界をこえることのできぬものだ、と見さだめた人間のゆとりとユーモアとほほえみがあるということだ
(ついでに、ここで光琳の模写したという「風神雷神図」は、宗達にはるかに及ばぬとは通説だし、たしかにそうなのだが、この絵に、法橋光琳の落款と方祝の印があるのはどうも変だ。「紅白梅図」や「燕子花図」の底冷えするような構成を創造した光琳が、私淑した宗達の構成の厳格さを知らぬわけはあるまいし、法橋という僧位をもっていたとすれば、模写したときは相当の年になっているはずである。二つの「風神雷神図」はかたちはよく似ているが、構成がちょっとちがう。ほんのちょっとのちがいだが、それで一方はガタガタになっている、こんなバカげたことがあるものか、と思われるくらいである。筆触は、 模写しようにもできぬものだが、構図は一応マネできるのに、それに、光琳の「風神雷神図」には、「燕子花図」に見えるような、自分の階級の没落を覚悟してしまったかと思われる厳しさもない。いろいろの点から、この絵は変である。)
こういう態度は人間の知恵のはじまりかもしれない。
相手が普通ではとらえられぬおそろしいもの──禽獣ならば身をちぢめ、穴にひきこもるし、人間の感覚だけがはたらくところでは、いきをつめて硬直するか、いたづらに不毛に走りまわる──そんなおそろしいものをとっつかまえるのだ。まあ、そんなにあわてなさんな、といっているように見える。
織豊から江戸初期という動乱時代に、 その言葉を実行することは、決してナマやさしいことではないはずである。いわば、巨人を輩出した英雄時代だが、絵画の世界でも、永徳を頂点とする英雄時代だったにちがいない。「エネルギー」と「ヴィルトゥ」の時代に、散歩しながら愛を語る術を知るのは、反骨にはちがいないが、反骨というには、あまりにも静かな賢者の知恵である。
七分三分に身をかまえて、相手をそらすナドという通人の仕事ではない。
光悦村ができたのは、──いや、光悦村をつくったのは──一混乱から浮き上った地帯をつくり出して、その中に安閑と寝そべるためではなかった。一口にいえば、生活の芸術化を創始しようとしたのだが、それにしても、東山時代の義政のやったこととは根本的にちがったものだろう。 戦乱や混乱の時代の中に、一つの不可能の世界を明確な意識をもって形成し、その仮構によって、さまざまな圧制に抵抗しようとしたと思われる。彼らが互に交りを結び、グループをつくつたとき、たぶん、この仮構によって、人間の自由を最後の線で守り、逆に、外界に積極的に働きかけようと意志したのである。 (義政にはそうした意志がまるでない。混乱に抵抗するのではなく、混乱を逃避することで混乱を利用したにすぎない。たぶん、義政が支配者だったためである。こういうグループが政治権力をもって堕落する。)
しかし、ぼくは光悦には、ちょっと──あるいは大部──気負った匠気を感じるのだが、宗達は、もっとしづかである。それを、人は、あるいは、湿潤というのかもしれないが、この静かな、透明なものを湿潤という言葉でいっていいかどうか?
宗達は一人の庶民として不屈な生き方を知っていたのではあるまいか?ひとに知られぬ場で 白熱した抵抗をすると同時に、人間を信じうる強い能力をもっていたにちがいないと思われる。
宗達の伝記が皆目分らぬのはどういう事情か知らない。そこで、ぼくは空想するのだが、この静かに生きた人間の「大地の意志」を信じうる能力が自分の個人の名を捨象してしまったのかもしれない。