ルオーの版画
芸術新潮
ぼくたちをとりまく四周の状況には、いたるところに、悲惨なことや暗いことがころがつてゐるし、ぼくたちはほかならぬその中を共に歩いてゐるので、さうした悲痛な動きや激烈な言葉に接して、何らかの感動の起るのを阻止しえないが、しかし、まづ、最初、さうしたナマの感動にあまり早く身をまかすまいと抵抗するところに藝術作品が生れるにちがひない。感動は絶對的なものだといつたところで、ナマのまゝの感動は傅染力の強いものであまり信用できるものではない。それを簡單に表白しては支離滅裂なウハゴトになる。まづこゝで抵抗せぬかぎり、感動と表現との人間に「内密な追従」といふ不正が介在せざるをえない。あらゆる雄辯術のもつ陥穽である。
それに、ナマの感動の表白でことがすむなら普通の現實で間にあふ。藝術作品は、普通の現實では間にあはなくなつた人間が、いつたんぶちこはれたものから、あらためて現實を再構成するために、必死にえらんだ努力の結晶であらう。
「いくらかの損耗と悲惨なしでは進まぬ不安定な物質的進歩の新しい偶像を探る人類のさなかにあって、ぼくはときどき呻吟する」とルオーはいふ。社會といふ人間の連帯關係が何ものかの犠牲においてでなければ成立しないといふ恐るべき事實に彼はたえずぶつかつて、呻吟するが、しかし、同時に呻吟を呻吟としてあらはすまいと決意してゐる。
作品に呻吟をもちこむことで、ひとをおどろかせたり憂鬱にしたりすることは大してむづかしいことではない。呻吟は笑劇以前の疑似悲劇にはなるかもしれぬし、大げさな身ぶりは悲劇役者にはむくだらうが、金輪際本格的な悲劇にはならぬ。 逆に悲劇役者の姿態を恥ぢて、苦悩に耐へ、おだやかで明るい静寂な幸福な色調を定著するまでいたつたところに、もっとも悲劇的なものがある。――かういふ事情を現在ルオーほど端的に示してゐる画家は少い。
ルオーといへば深刻といふ標語がつけられさうだし、ぼくもあへて反對するわけではないが、しかし、彼自身もいふやうに「あまりふんぞりかへつたり、心配したりしないで、現實に直面して戦慄することなく、内面の平和を保って生きるやうに心掛けなければならない。」傷は克服すべきものであつて、見せるものではない。それだけ彼の傷は深いのだ。「郊外」の連作は、この「内面の平和」に到達した一つの頂點といへよう。情熱がもはや灼熱をこえて白熱の状態にまでいたり、熱さよりも、深々とした無限のさびしみを感じさせる。丁度ステンドグラスのやうに厳格な輪郭に支へられ、光が画のむかう側からすき通つてくるやうに、探りえぬ深みから精神がす通ってきて、透明な靜澄さの中に、見るものを誘ひ、生きるといふことの意義と静かな勇氣とを與へてくれる。こゝに到達するのはナマやさしいことではなかったし、同時にまた、それだから、この頂點がルオーの歴史において、これだけで終るものでもなかった。彼はいつも一つの頂に達すると、今度はそれを記憶にとゞめず、ふたゝび深淵にむかつてゆく。だから、ルオーの歴史には断面といふものがない。つねに持續があるのみだ。
ルオーは現代宗教画を描きうる唯一の画家だといはれる たしかに熱烈なカトリックだが、いふまでもなく、宗教的主題や雰圍氣を描くから宗教的なのではない。
彼は現實にたちむかつて傷つき倒れたにしても、倒れたまゝでイエスにすがって涙でお祈りはあげない。彼の場合 イエスは、単に、傷つき倒れた自分一個の情念をなぐさめるといふ受動的な、感傷的な哀訴の對象ではない。祈るすがたを客體として描くのでもない。いはゞ、祈る心が直接描くといふ積極的な行為になるのだ。イエスを自分の前方には決して見ず、むしろ背後に感じながら、しかも、これをふりかへつたらそれだけで罰せられることを知つてゐる。自分が罰せられるだけではない。おそらく神が罰せられるのだ。だから、何の裏打ちをもたしかめずに、前方には、つねに現實をおいてたちむかふ。彼には描くといふ行爲の背後に舞臺裏がないのである。 からして、自分の無にもたへて、自己を行爲のうちになげこむから宗教的なのだ。ここには正統派教會をこえて直接イエスに従はうとする強い意志がある。
ルオーの世界はイエスといふ至高の存在と、罪人、娼婦、道化などの最低の存在とを兩極として轉回するが、この間に裁判官、パリサイ人 學者、軍人、政治家などが、罪人よりも罪深く、娼婦よりも淫蕩に、道化より道化じみて、あらはれては消えてゆく。この轉回はつねに繰返へされるのだが、イエス、道化、デマゴーグなどをあつかった一連の版画にも、その轉回の持續が明證されてゐる。
普通人間的情愛といはれるものをふり切った瀆神的な否定と、イエスを標點としてすべてをあるがまゝによしとする肯定とが、はげしくいりみだれる。強い輪郭やデフォーメーションはその激しさをとりとめるための必然的な支へである。
ルオーにとつて、イエスは至高の極であり、何ものもこれを犯しえぬ存在であるにしても至高の極とは天空のかなたにきらめく王座ではない。ルオーのイエスは襤褸をまとひ、いや襤褸さへはぎとられて、むちうたれ、十字架のはづかしめをうけるイエスである。汚辱の中で巷に窮死したイエスだ。
それに、この否定的態度は進歩といふ偶像をとる楽天的合理主義者たちによつて世のすみにおひやられた犠牲者たち――罪人、娼婦、道化など――に對してもナマ半可な同情などよせてはゐない。これらの最低限の人々にもイエスに通じる清浄さを見る、といふ人もある。あへて反對はしないが、あまり簡単には信用できない。なぜといつて、そんなことをいつたからといって、ぼくたちが實際の娼婦、道化、罪人たちのうちにそんな清浄さがあるとは信じられないからだ。イエスと同じ清浄さ――つまり、イエスと同じ苦惱を彼らも苦しんでゐると信じうるだらうか?絶對に不可能である。その點、ルオーも決して例外ではない。不可能だから彼は描いたのだ。といふのは、彼は人間の苦悩について厳肅だったといふことである。同情して呻吟するのではない。同情を拒絶する苦痛に呻吟するのだ。が、同情を表明して手をさしのべることゝ、同情を拒絶することゝ、どちらが人間を愛することにおいて強いかは彼自身覺悟してゐる。
かういふ彼の描く人物は現實にはどこにもゐない――といへば、作品とはすべてさういふものだといはれるかもしれぬ。が、自然は藝術を模倣するといふ言葉がある。これは決して逆説ではなく、たしかに、ぼくたちはすぐれた作品が現實を見る目をかべさせたことをいつも経験する。コローが出てから風景は變つたし、ゴヤが出てからスペインにはゴヤの道化師が生れた。が、ルオーの場合には、自然が模倣しやうのない作品なのだ。彼自身の言葉を借りれば、「ルノワールやドガを滿足させた現實に面と向って、ぼくは超現實派のやうに一つの極めて美しい現實が存在するといはう。だが、それは暗室の中でつねに大自然をさかさまに見る寫眞師の現實ではない。」
とはいへ、現實に働きかけぬといふわけでもなく、社會的責任を無視してゐるわけでもない。たゞ、働きかけ方が全く別なのだ。
「大伽藍を直すには集團的努力に信念をもち、また、天賦の才が必要だ」と彼はいふ。彼はひとり閉ぢともつて、力で「大伽藍」を建て直せるなどとは思つてゐない。が、彼のいふ集團的努力とは、いはゞ、全人類の生む全歷史を包含したもので、人間の生命のすべての努力の作る全歴史をそのまゝ正しいと信ずることだ。だから、普通の意味での連帯を意識的に断ち切って、イエスを標點とする「孤獨者の社會連帯」を求め、過去、現在、未來をこの一瞬にとらへ、複雑多様な人間生活を一つかみにしようとする。この意味では、よくいはれるやうに、たしかに時空を超絶し画家であらう。だが、むろん、ぼくたちは歴史の外にゐるわけではない。この全人類の全努力といふ大存在の中の一員であり、自己はこの大存在に働きかけると同時に、規制されると覺悟してゐなければ、意識の中で時空をこえることくらゐ簡單なことはない。プリミティヴなものはすべて時空をこえておもしろいが、人間の歴史はもつと強靭なのだ。
ルオーの画は近世ヨーロッパの繪画といふ概念と對立するかもしれぬ。が、ヨーロッパの傳統から浮き上ったものでは決してない。カトリックの傅統などといふ大問題になってはぼくの手に餘るが、初期にみえるやはらかなトーンの美しさはヨーロッパ繪画の嫡系であらう。黒白の版画にこのトーンが微妙に轉換されてゐるにしても、また、ルオーの精神のあり方にしても、いきなり東洋画との相似を見ようとするのは危険だ。
もつとも、ルオーの場合、まづ最初にこのトーンをぶちやぶるほど強い律動が太い輪郭にとりとめられるやうになつて、造型がはじまる。そして、ともすれば雲散霧消するやうなとりとめのない動きを明示的型態にとりとめたとき、「生命の調和と内密な律動、それがぼくたちの行為だ」といひ切れるのだろう。かうしてうめきよりもほゝゑみの方が、叫びよりも言葉の方が、奔放より抑制の方が、苦しむより楽しみを知ることの方が、力強いことを知る。これがルオーのユーモアの強さだ。
へうきんな「ユビュ親爺の再来」などにも彼のユーモアがはつきりあらはれる。
ユビュはアルフレッド・ジャリの書いた、ブルジョアジーに對する戯画的諷刺笑劇で、以後ユビュの名はガリガリ亡者で愚鈍なブルジョアジーの象徴となったといふ。が、こゝでは、陋劣なものを戯画化して自分の復讐的情念を慰めるなどといふケチくさいものではない。また、適當にあしらって許すなどといふことでもない。それではたゞ自己閉鎖的感傷を自慰するにすぎず、自分が傷つくことがない。ユビュを許していゝなどとは彼は絶對に思つてゐない。許すなどといふことは神の屬性であつて、人間のなしうる行爲ではないからだ。それに、同じ人間であれば、適當にあしらって許すなどといふことができるほど相手は弱くないのである。むしろ、全力的に戰ふことが人間の誠實である。彼は眞正直にこの陋劣なものに否定の斧をふるふ。この激しい「殘酷の天才」に支へられてれに耐へて、ユーモアは強靭になる。
だが、しかし、自分の苦しみをふみ䑓にして他人を楽しますサーヴィスがユーモアのはじめかもしれぬが、自分自身がまづ楽しむととで他人をも楽しますことがユーモアの最大の力だし、こゝで彼はさらうしてゐる。楽しむことによる開放感――たぶんそこで、人間はあらゆる機能にうちかつてほゝゑむのだ。