ユーモアについて
美術批評
ユーモアというものはりがたいほど強い俗世的な力だ・・・・・・と、僕は、本格的なユーモアのある作品を見ると、いつもおどろく。そして、さらに思う、量りがたいほど力の強いユーモアをもつ作品のみが立派な作品なのだと。どんな悲劇的な作品でも、大作家はそのうちにユーモアをただよわす術をこころえている。・・・・・・だが、現代では、ユーモアということが痩せ細って不健康なくすぐりになり、末梢神経ばかりを刺戦するワイザツ卑小なものになってしまった。
東大寺に天平時代の豪壮でグロテスクでユーモラスな伎楽面のあることは周知のこと。この大きな仮面をかぶってどんなおどりをしたのかは知らない。が、こんなデカイやつをかぶっては、速い動きは不可能だろう。が、青丹よしといわれた色彩豊かな奈良の都で、巨大な東大寺大仏殿を背景として踊るとすれば、ほとんど所作などいらない。ぬっとあらわれてきて、野放図に悠々と動いていれば、それだけで充分迫力が出てくるにちがいない。その上、これは多分、白の光の中での踊りだったということが、ことに僕の心をひく。
夜の林を背景に、闇の中でタイマッ一つに光を集めて能面でおどるというのも美しく、僕たちを充分酔わす。 が、覚めればいまいましいくらいのむなしさが残る。この唯美主義には二日酔いのあとのそらぞらしさみたいなものがつきまとう。この美は外部に発していかない。ある限定された生活圏の中での微妙に洗錬されたやりとりみたいで、このままでは、美が一種の袋小路におちこんだような気がする。
だいたい仮面は伎楽から舞楽、能楽へとだんだん小さくなっていった。そして、やがて素面でなければユーモアがあらわせなくなった。仮面が痩せたのだ。
しかし、伎楽の仮面劇には健康なユーモアがある。舞台と客席、演者と観衆との合流という舞踊や演劇の理想は、この場合、夜といもう限定された場所を必要としない。白晝の野天にこの仮面が出てくるやいなや、この合流ははじまっている。何の装飾も小細工もない。白晝のユーモアの中では、ふだん僕たちにつきまとっている苦痛や悲哀はふきとんで、すべてのものが幸福な律動ある笑いの中に包含される。小ざかしく意味を見出さうとするような臆心などはむろ木端微塵だ。たぶん、「仏」という観念すら、このときにはなくなっているにちがいない。ユーモアが俗世的な力だというのは、第一に、こうして、仏とか神とかの既成概念を捨象するからである。その力がその場にあるものすべてを幸福な一單位存在に還元する。終ったのちにも決してこの世のあじけなさを感じさせない。
むろん、僕は伎楽を見たことはないのだから、これは勝手な空想にすぎない。が、この仮面はどこへ出してもちゃんと存在し、その伎楽の所作や、所作の行われる場を予想させるような制空力をもっているのだ。「幸福だけが王者であって、情感はパロディの対象にすぎぬ」というアランの言葉は明晰だ。
とはいえ、むろん、天平時代が太平楽な時代だったわけではない。むしろ、悲劇的な時代だったろうと想像される。立派な喜劇のユーモアは、いつも立派な悲劇の崇高と共存するのである。ギリシアの仮面劇などもそうだったろう。 東大寺戒壇院の四天王の悲壮な相貌を造った仏師は、その立像の足下にユーモラスな邪鬼をおいて楽しむことを知っていた。
飄刺的なユーモアがリアリズムと結びついていることはいうまでもない。徹底したリアリズムが神経質なトリヴィアリズムに陥らず、中枢的な美意識に支えられているときにのみ作品が生れる。ユーモアや諷刺が単に社会道態的な点からのみ考えられていたのでは、いつまでたってもラチがあかない。少くとも倫理が美意識となってあらわれた場合以外、リアリズムとは不毛なものだ。
平安末の混乱時代に生れた「病草子」にしても、普通ならばインサン眼をわせるものが、ユーモアによって、完全に救われている。ホガース、ゴヤ、ドーミエなどの画にしてもそうだ。
現代は悲劇的な時代だから、いくら深刻な方面にふみこんでいっても、なほ足れりとしない。が、喜劇よりも悲劇の方が高級だなどと思う奇妙な錯覚だけは正さねばなるまい。喜劇の美は最も男性的な美であって、女や女々しい男たちには分りにくいらしい。どこの国でもそうだが、女々しい連中を拒絶する芸術は、イソップの昔から、つねに不運であった。
諷刺は美意識という点で低いと考えること、ホガースやドーミエに世間からの逃避を見ること――これは通説かもしれないが、こんな通説にゴマかされてはいけない。これは、大げさな身ぶりばかり好きな悲劇役者か、それとも、誠実ということをしかつめらしいものとばかり思いこんでいる尤もらしい似而非良識家の、滑稽な考えちがいである。それどころか、実はこんな常套的な考え方が諷刺やユーモアを低劣化してしまったのだ。この連中はどんな立派な言葉を読んでも、自分だけの方式にしたがって、そこにワイザッ卑小なものを感じてしまう不思議な能力の持主である。諷刺画を、単に人の末梢神経をくすぐるだけの漫画に墜落させ、話を一口ばなしにした、その責任は、第一に、こんな連中が負うべきものだ。
むろん、こういう手合いが、最初に諷刺の対象にされるのはヤムをえない。この連中の言行には、見ていてどうにも恥しくなるところがあるからだ。
一体、僕は思うのだが、青年の知性を支えるものは知識慾ではなく、むしろ羞恥心である。意識するとしないと にかかわらず、他人が自分と賛寒なところで似ることを恥じる羞恥心だ。かならずしも自意識というものではない。もっと本質的な、いわば人間という存在に獏とした理想をもった感情である。人間は通じ合う。よくも悪くも通じ合う。だから最も高貴なところにおいて結びつこうとする感情だ。それが意識して積極的に行為にうつるというまでにいたらの間は貧寒なところで結びつくことを恥じるのである。
この羞恥心はもともと自己閉鎖的に働く危険があるが、この危険をのりこえて、外部に向って意思的に積極的に働きかけるにいたったとき、ものが生み出される。諷刺もこの行為をともなうとき本格的になる。
諷刺、ファース、ユーモアなどがこうして本格的にならなければ、悲劇など金輪際生れないと断言してもいい。立派な悲劇的な作品のうちには、かならず、人の心を開放するユーモアとゆとりとがある。ギリシアの決定的な悲劇の中にあるこの開放感をギリシア人はカタルシスとよんだ。ゆとりとユーモアとによって、幸福感にまでめられなければ、悲劇は滑稽なものだ。
ユーモアや諷刺は世間からの逃避から生れる、などと、冗談をいってはいけない。まるで逆である。本格的なユーモアや諷刺は、あくまで俗世間の渦中にふみとどまって、ともに動きつつ、解決を神にあずけず、あくまで自分の手によって、醜悪な不均衡を均衡の状態にとりもどそうとする俗世的な強い意思から生れるのだ。神に解決をあずけないのは、死を代償として既成の神様に御褒美をねだろうとする醜悪な、生命力稀薄な、似而非殉教者たちが、何ものをも生み出さぬ自己閉鎖的な不毛な方向に向っているようなときである。ものを生み出すというところに、人間の責任を感じる覚悟の強い精神は決して自己閉鎖的な方向にはむかわない。自分で何らかのものを作り出さず、単に出来上った概念の中だけで動いているのでは、生きているということにはならないのである。神という観念にひきずりまわされたドストエフスキーにしてもルオーにしても、神に対してどれほど全力的な否定をつづけたか。
四周のものすべてが崩壊するような時代には、当然人間はもっとも粗雑なかたちで呈示される。粗雑になったとき、人間はすでに人間ではない、とはっきり見きわめをつけることだ。このとき、何とかして、いま一度、人間を恢復しようとするのが、人間の責任ある行為だ。
逃避というのは羞恥心の自己閉鎖的なあらわれだが、これによっては、この恢復は行いがたい。逃避は、自分と他人との間にできるだけ厚い壁をつくり、この壁の中に逼塞することによって、四間の圧迫から逃れようとする情念の所である。なるほど、この壁によって、あるいは、四周の圧力をうけずにすむかもしれない。だが、丁度外気にふれぬ子供のように、この壁の中には発育不全な不具者ができあがる。ここには、優越意識と劣等意識とが錯倒し、うらみ骨髄に達する怨恨と小児病的涙もろさとが奇怪な同居をしているにすぎない。ここにはシニズムはあっても、ユーモアはない。ユーモアということは外気にあたらぬ発育不全者とは無縁である。
ユーモアは、自他の区別をつける壁をやぶって、すべてを一単位存在にまで昇華したときに生れるものだ。だから、第一に、自分の殻をやぶって外物と真正面にむき合い、自分を圧倒しようとする外界と格闘するのである。ここには、何か醜悪なものを否定するという激しい力がある。
外界の事物と格闘することをおそれぬ精神は、粗雑になった人間にまつわりついている種々の幻想を剥ぎとり、自分の心をあざむく情念の動きを拒否して、一応人間のかたちをした粗雑なものを土偶に、つまり、相互に何の通関もない無機物にかえしてしまう。むろん、人間を無機物に転落させて嘲笑するためではない。シニズムを発揮するような臆病な、生半可な軽蔑的な根性では、とても人間を無機物にかえすなどという芸当はおぼつかない。そんなネタバはものの表面をかすりさえしない。いつも、相手は嘲笑のとどかぬところにいるという始末におわる。
生命力をもった人間が非情な否定の刃をふるうのは、どんなものにむかっても、つねに対等の位置に立って、あらためて有機的な関係を設定しようとするためである。非情というのは、体当りに愛情を求め、かつ与えようとする心情の一方法だ。この非情によって寸断された無機物の相互間の諸関係をいま一度、あらためて恢復しようとする意思に支えられていなければ、どんな否定もむなしい。軽蔑とは自分と他人とをつねに区別している不毛な傍観的態度から生れる。これに反して、勇気ある否定の精神は、自分をまっさきに無機物の一つとし、自分というものを、他の事物との関係のうちにでなければ、表現しないのだ。明示的型態を造り出すということも、ここに最初の意味がある。
だが、人間の弱々しい情感を否定することは、弱々しい人間にはたえがたい恐怖感をおこさせる。寓話が動物を主人公とするのはそのためであろう。寓話の動物は誰でも知っている型態をもつ。そして、この出来るだけ単純にされた型態は、あらゆる附加物や推理的なものを拒絶する。「犬は犬儒的ではない、単なる犬だ」(アラン)と明確に規定して、情念や推論のいりこむ余地を残さぬこと、これが比喩のもっとも厳格な機能だ。
すぐれた諷刺画は逸話的な表情をすてる。笑うべきは肉体の欠陥・でなく精神の欠陥だからである。人間関係に対する決定的な一言がこのようなかたちをとることは雄々しいことだ。
外的な支えをすべて失った混乱状態において、自分の行為に何らかの決断力を下すということは極めて困難なことだ。が、それゆえにこそ、つねに自分の行為に決断を下さねばならない。どんな場合にせよ、判断という行為を保留していれば、気は楽だが、生きているとはいいがたい。文化の体系が出来上っているときには、自分が判断を下さなくとも、習慣や風俗に従うことによって、その体系のうちに自分は位置を占めうる。だが、支離滅裂の時代には、自分であやまっても判断を下さればならない。こんなときに、寓話の示唆するところは大きい。
物自体をみきわめた上で、日常見なれた事物の重みを思い切りよく捨てさり、物そのものよりも、物と物との関係を明示的型態に限定すること、ここに諷刺やユーモアの生れる下地がある。ホガースが「僕の画は僕の舞台であり、僕の男女は僕の俳優だ」といったとき、彼の意図したところは、人物像からあらゆる逸話的附加物を剥して、関係そのものに美を見ることであった。
このように事物の諸関係を限界づけたとき、自分を圧倒したり混乱させたりするものは、もう何の表情もしめさなくなる。犬はまさに犬になったのである。そして、今度は人間の方がほほえむ。陋劣なものを嘲笑することによって自分の心情を救おうというようなさもしい底意はなくなり、人間のほほえみが犬の方に働きかけ、犬を包含する。
苦しい時代に楽しむなどとはもってのほかだ、などというなかれ。自分の苦しみをふみ台にして人を楽しませるのが芸術である。苦しみを隠して楽しみだけをあらわそうと意思するのが作家のサーヴィスである。しかし、本当は、苦しみを自分自身に対してさえ隠そうとし、隠しおおせたとき、多分、最高のユーモアが生れる。僕は深い感情を自分自身に対してさえ隠している厳格さを信頼する。他人をも自分をも楽しませること、その精神の政治学が感情を成長させるからだ。
この政治学によって、外部との闘争が、いはば格闘的な戯れに転換される。他人をよろこばすというよりは作者自身が何のわだかまりもなく、丁度、無心に遊ぶ幼児のように、戯れ楽しむのである。この戯れには「直接的な思想の訓練」とでもいうべきものがある。いろいろと対象をめぐり、ありもしない附加物を見つけ出そうとし
てどうどうめぐりするような末梢神經過敏症には全くできないわざである。
こういう本格的なユーモアのたのしさに打ち興ずるすべを知らぬものには、悲劇の美しさだって理解されない。こういう手合いにあっては、どんな悲劇も笑劇以前のタワイない滑稽な悲劇、見ていて恥ずかしくなるような悲劇になってしまうのだから始末が悪い。