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ピカソ・人間喜劇

芸術新潮

 近着の「ヴェルヴ」はピカソの一八〇のデッサンのシリーズを特集してゐる。ピカソがヴァロリスで一九五三年一一月二八日から翌五四年二月三日までの九週間に制作したものを、一つのこらず、原作の大きさで、日附の順に集録したといふ。
 二〇世紀のダイナモみたいな彼の精力をもつてしても、これは、ほとんど爆發的な仕事である。七二歳の彼が、いままで経験し、つくり出してきたもの──女、画家、サーカス、・・・・・・クラウン、踊り、くぐつ、馬、猿・・・・・・神話の半人半獣など─が、いはゞハルシネーションとして、この九週間の間、つぎつぎと、また同時にあらはれ、彼につきまとふ。彼はたゞ、それを氣まぐれに、楽しく、あるひは不機嫌に、率直にかきちらしたやうだ。そして、七〇歳の厚みをもつ、この即興性が、何か、彼の心の秘密をうちあけてゐるかのやうに思へる。はじめ画を見てゆくと、むざうさに楽しくまた、臆面もなく野放圖で、開放的なユーモアがある・・・・・・だが、そのうちに、これは何かあったなと思はれてくる。
 「ヴェルヴ」の解説には、この九週間はピカソにとつて内的に非常に混亂した時期だったとだけ書いてある。どんな混亂なのか正確には分らない。むろん、それはそれでいゝのだらう。それ以上のセンサクは必要あるまい。画から作者の私生活にまでたちいるのは悪趣味かもしれない。が、この混亂は、七二歳といふ年からすれば、まるで奇蹟のやうに(奇蹟などといふ言葉はつかひたくないのだが)若々しいもの、あべていへば、もつとも青春にみちた時期の青年の特權である官能的な苦しみと混亂のやうだ。激しい戀愛の感情──敬虔な告白と、逆に、さまざまな妄念や毒念がおりこまれる。
 ピカソのデッサンのうまさなどについて、いまさらウンヌンすることはあるまい。東洋画を思はせるやうな筆や墨の使ひ方があり、猿や猫などは、鳥羽僧上の「鳥獣戯画」のやうに達筆だ。が、「鳥獣戯画」の作者が鳥獣の世界に心をたくしたやうな達觀とはうらはらに、ピカソはまったく人間くさい。何をかいても人間の問題になり、毒々しいほど人間の執念、慾望、色情がつきまとつてゐる。
 このシリーズには、そんな人間の心理的なドラマがあるやうだ。はじめたときには、作者すら結末を知らぬドラマである。若い妻や子供を描いてみたころの、のんびりした物語り的な甘さがなくなつてゐる。が、また、この激しさは「ゲルニカ」をかいたころの、社會意識のはげしさではない。もつと、個人的なものだ。・・・・・・と、こゝまできて、ぼくは、ピカソが若い妻と離婚したのは丁度このころではなかったか、と思った。若い妻は、ピカソにとつて、妻といふより戀人ではなかったらうか・・・・・・いや、そこまでたちいるのは悪趣味だ。が、たしかに、このシリーズを生んだ動機は、若い、美しい女への感情にちがひない。 去っていった戀人への、たちがたい官能の執着であらうか?
 それも、チャップリンが「ライムライト」でゑがいた老年の諦觀みたいなものではない。俗世の智恵と、藝術を通して身につけた智恵とをもつて、永遠に若い青年のシュトルム・ウント・ドラングである。女は、いままで彼のかいたもののうち、もつともエロティックではあるまいか?そして、そのエロティックなものが、ワイセツにならぬのは、若々しい生命にみちた激情の清潔さのためだらう。

 このシリーズはいくつかのグループに分れてゐる。あるイデーが生れると、それがいきなり彼の全身を支配し、彼はとりつかれたやうにかきちらす。 と、突然、別のイデーが──一見まるで關係のないやうなイデーがくる。が、全部を見ると、それが心理的なドラマの必然に有機的に結びついてゐるのが分る。おそらく、画家自身はそんな結びつきを意識してはゐない。ハルシネーションをその都度、具體的な物として即興的に紙にうつしてゆくだけだ。が、全體が一つのモメントとして統合されてゐる。いはゞ、身體の流動的な動きにメドがあるわけで、これが、即興の發想をたしかにしてゐるのだろう。

 画についてゆかう──
 いくつかのグループに分れ、さまざまなイデーがあるといつたが、はじめから、終りまで、つらぬいてゐるテーマがある。画家とモデルとの關係といふテーマである。
 モデルの女はエジプトとかペルシアとかの東方風のしなやかさをもつてあるし、また、クノッソスの「バリの女」の色氣、ティントレットの「スザンナ」の魅惑的な肉體をもつてゐる。戀人といふもののもつ、半ば幻想的な、半ば現實的な蠱惑的な官能美だ。 スペインといふヨーロッパでの異境の生んだものかもしれない。画家である男は、反對に、みにくい。やせたり、ふとりすぎたり、コビトだつたり、老魄だったりする。これは夫婦の關係でなく、どこまでも、戀人としての關係だ。女は貞潔であると同時にエロティックだ。 マノン・レスコーのやうに、處女であるとともに娼婦である。マノンが無邪氣であるやうに、このモデルは無邪氣である。自然そのものといつてもいゝ。どんなことをしても、無邪気で、そのまゝ自足してみる。いらだつのはいつも男の方だ。
 たしかに、自然の生きものたる女を存在させるのは男である。が、そのために、男は自然からはなれ、自然を観察しなければならない。そして、そのため、戀愛においては、男はいつも醜い。いらだつ男は肉體を失ってしまふ。だが、美しいマノンは愛されねばならぬやうに、美しいモデルはかゝれなければならない。ピカソにとつては、いふまでもなく、戀人とモデルとは同一人だ。
 かうして、美しいモデルと醜い画家とのふつりあひな組合せが次々と生れる。画家はだんだんコッケイになり、ピカソはいよいよ残忍な眼をむける。いはゆるスペイン的狂躁で、このふつりあひはますますひどくなる。いろいろのポーズをとる美女を上目づかひでのぞいたり、カンバスの横からトンマな顔をのぞかせたりする画家──美女の肉體にひそむ秘密をさぐらうとして、結局、探りえないやうだ。画家は肉を失って、つひには顔だけになつてしまふ。そして、それは、まるで、スザンナがのぞき見した老人を罰した残酷さで、モデルが画家を罰したかのやうだ。
 この画家はピカソ自身であったり、ピカソが輕蔑する画家であったり、わけがわからぬまでいりまじる。かつて、バルザックの「知られざる傑作」にかいた挿縮にも關係があるかもしれない。
つぎに、ピカソは作家と聴衆との關係をかき出す。作家はトンマな画家のヴァリエーションだらう。謙遜をしらず、羞恥心のない作家があたりかまはず、友人たちに自作の原稿を讀んできかせる。友人たちは退屈し、ねむたげなからだを硬直させたり、あくびをしたりする。ピカソはこの聴衆のアホウぶりをもひにくつてゐる。といふより、憎んでゐる。彼の画室をおとづれる見物人への軽蔑と憎悪に通じるらしい。この作家はルオーのかいた「ユビュ」に似てゐる。
 こゝまでが五三年の日附けになつてゐる。五四年一月三日には、若い裸女が花を手にもつて黒猫(または猿)をじゃらしてゐる画がかゝれる。女は花を猫にふれるかふれぬ、きはどいところでうごかす。この花をなかだちとして、ぴりぴりした猫の動きにつれて、女のからだが全身微妙にうごく。はじめのうち、
この女と猫の呼態關係を、グロテスクな顔をした男がのぞいてゐるが、しまひには、ピカソはこの呼應關係の美しさにのみ目をそゝぎ女と猫だけが描かれる。このテーマの終りに、女が猫を胸にいだいた曲がくる。女はつひにうけいれるものだ。女は女神のやうに厳然としてゐる。猫ははじめは画家の轉位だったかもしれぬが、こゝまでくると、女は女であり、猫は猫であつて、それ以外のなにものでもなくなる。見事なアレゴリーである。
 翌日は、また画家とモデルにたちもどる。
 つゞいて、一月五日の日附で、一つのテーマをもつ一七のデッサンがあらはれる。
東洋の化身のやうな裸の女がくつろいで庭に坐つてゐる。そこへ、妙なコビトが大きな仮面を手にもち、顔をかくして、女の前にあらはれる。 キュービッドである。仮面をもつ手も、からだも、いたづらさうに、また、たのしさうに、無邪気である。(この仮面は伎樂面みたいだし、ピカソにそつくりだ。 そして、假面はこれ以後、このシリーズの重要な要素になる。)女はちょつとびつくりし、おもしろがつてキューピッドを見おろしてゐるが、始めは、だまつたまゝ動かない。やがて、キュービッドはほれぼれと女を見ながら、少しづつ假面をうごかし、からだにリズムをつける。女は動きだす。 逃げるやうで、決して逃げないしなを作りながら。 キュービッドがおどけて動けば、女はますます逃げる素振をする。
 いつかキューピッドの足は地をはなれ、女のまはりを飛びはじめる。花にたはむれる蝶か蜜蜂のやうだ。女はたえずほゝゑみつゞけ、からだをよぢり、腕をうごかすが、 大地から足をはなさない。また、キューピッドをおひはらふこともしない。
 しなやかな女のからだの動きは、エロティックで、敬虔なインド舞踊を見るやうだ。 そ.れも、實際の舞踊でなく、彫刻された古代インドの神の踊りのやうだ。清純でもあり、快楽をもつた、古代人の健康な戀文にも似てゐる。
 それから、突然調して、サーカスがあらはれる。女とキューピッドと仮面の踊りが、サーカスの動きに移ったのかもしれぬ。
 ピカソとサーカスとの關係は、ここで詳しく書く必要はあるまい。一九〇五年作「サルタンバンクの家族」とリルケの「ドゥイノの悲歌・第五歌」との不即不離の關係以来、さまざまにいはれてゐるはずだ。馬乗り、力士、アクロバット、コビト、クラウン、馬、犬、猿などが、むざうさにあつまり、そのアンサンブルで魅力をつくり出す。こゝでは、優美と力強さと尊厳とが滑稽なものと共存し、充實した躍動がむなしさと一緒になり、一つの假空の空間を實際につくり出す―――そして、演戯が終れば、あとには何ものこらない。技術が熟達すればするほど、あとに結果をのこさない。結果からいへば、まさに徒勞である。が、その徒勞こそ、藝術の原初的ないとなみだとピカソは見てゐるやうだ。彼のかく、サーカスの人々はいつも謙譲である。敬虔でさへある。エロティックなもの、グロテスクなものが清澄なものと一體になつてゐる。
 この一連のサーカスのデッサンの間に、いろいろなテーマが手あたり次第はさまる。眠ったニンフに酒をそゝぐ色情そのもののやうなサチル。画家とモデルの關係もまた出てくる。画室を訪ねてくる見物人のバカらしさをからかったりする。ピカソといふ 「天然記念物」――これはたしか別れた妻の言葉である――を見物にきた群衆を憎んだり、抽象繪画に鼻をくつつけてしらべる鑑賞者を愚弄する。彼らは、そばでねむつてゐるモデルに全く気がつかぬやうだ。画室の画家はいつか女流画家になる。女が女の裸體をかくことがをかしいといつてゐるやうだ。つまり、モデルの肉體に戀を感じないで描くのはバカではあるまいか、といふわけかもしれない。
こゝでおもしろいのは、これまで何度かあらはれた画家とモデルの場合、モデルはいつも若く、美しかったが、このあたりでは、若いモデルと老醜のモデルとがまじりあふことだ。また、モデルや画家が、原人みたいになつたり、シナの画僧の描く寒山のやうになったり、しまひには猿にもなる。こんなさまざまな外貌をとるのは、次のモチーフと關係があるらしい。
 次のテーマは仮面である。若い女が老人の仮面やトンキャウな仮面を手にし、老いた男が美しい女の仮面を手にし、たがひに、見あひ、見られあふ。この仮面の默劇に意味をみつけようとすれば、何でも見出せるかもしれない。が、あまりたちいるまい。たゞ、仮面と徒勞といふことは、現代の大きな問題であるにはちがひない。
 このシリーズの終りに近く、清澄な、やさしみのあるデッサンがくる。一人のクラウンが、神をあらはすやうな立派な仮面を、さゝげるやうに手にもち、膝に猿をだいた若い女の前に坐つてゐる。女の顔も假面のやうに清らかだ。画面からうける印象は、敬虔な祈りに似た感情である。こゝで、ぼくは、はじめて彼の精神にふれる思ひがする。
 といふのは、たとへば、ジイドが「マノン・レスコー」に残念ながら心ひかれたやうに、こゝにくるまで、ぼくは、戀人の官能に、また、官能をもとめるピカソの感性に、残念ながら、ひきつけられてゐたらしいのだ。ピカソはときをり、知性の画家だなどといはれるが、これはむしろ逆で、ぼくは、ピカソは感性だけを唯一の羅針盤にする画家だと思ってゐる。だから、ときどき、ピカソは甘ったるくて閉口することがあるが、このシリーズを支へる感性はなまじの知性などとてもかなはぬものだ。流動する身體の智恵とでもいつたらいゝかもしれない。ことに、こゝにきて、彼の感性の羅針盤は、「ゲルニカ」を生んだときと同じやうに、無類の正確さで精神を示してゐる。結局、女には官能があっても精神がない。自然と同じだ。精神は男のものだ。
 最後の日附のあるデッサンは、若いモデルが仮面をつけて坐り、画架のカンバスには画家がかゝれてゐる。

 かういふ作品にあまり意味を讀むことはいるまい。このシリーズを見をはったあとに残るものは、むなしさとよりほか、いひやうのないものだ――丁度、サーカスやファースを見たのちのやうに。いや、もつと正確にいへば、音楽をきいたのちのやうに、といった方がいゝ。(このシリーズのドラマを解説するに
は、音樂用語をつかふと都合がよささうだ。)
 とすれば、このむなしさは、人間の存在といふことを考へるとき、重要な意義をもつてくるやうだ。つまり、豊かさといひかへてもいゝのである。
 おそらく、ピカソにとつて、女はすべて戀人なのだらう。彼は妻といふものを知りえぬ男かもしれない。が、とにかく、この九週間に、若がへったファウストの奇蹟みたいなことが、いまどき、現實におこつたらしい。ただの生理的變調ではあるまい。

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