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ジョアン・ミロ

現代世界美術全集6

 第1次大戦後、ヨーロッパ書壇が近代藝術と總稱される動向で搖れているときに、ミロはパリに出てきたし、そうした揺れの中で仕事をしていつたが、 その大きな揺れの渦中にありながら、 彼は清潔な肌あいで、あくまでつつましく自分を守っていた。立體派の構成を學び、シュールレアリストたちと交り、それらを攝取しつつ、いつも自分のペースを亂さず、 自分の軌道をふみはずさない。あるいは、ミロはパリに出る前から、もう「繪畫の破壊」をやってしまっていたのだ、といえばいえるが、しかし、この頑強さは彼の資質のもつ一つの強さだろう。
 たとえば、オキアガリコボシかヤジロベーのようだ。 たがいに相反する兩極──怪奇と清爽、重く沈むものと輕く浮漂するもの、巨大なものと微小なもの、ふてぶてしいほど手ばなしな太い輪廓とふれれば響くような、細心な白金のような線、何ものでもはねかえすような頑固な不透明な色と人間の心の深みにまで見るものをひきいれる透明な色調──こういう兩極の間で、揺れに揺れながら、支離滅裂にならず、結局、すべての動きが重心にしばりつけられていてくずれず、いつか、もとの彼の根源にまで歸る。このヤジロベーの脚はカタロニアの風土や民族性というプリミティーフなものに根ざしているものだろう。彼が活躍するころ、パリ畫壇がすでにアンリ・ルソオを受けいれ、プリミティーフなものにして寛容になるまで視野がひろがっていたことは幸いだつた。
ミロのプリミティーフな心情には底抜けとも見える明るさがある。が、 このバカバカしいほど、明るい遊びの中に、陰微な想念や情念の影が宿っている。ミロ自身が述懐しているように、彼の幼少の感覺をやしなつたスペインのさまざまな夜の怪奇や哀愁を、白晝の日光の中にとけこませ、陽氣にする。いわば日光の光線そのものの中においてでなければ、すべての神秘や秘儀を拒絶する。こんな手ばなしな明るさの中には、神秘というものなど含みえないようにさえ思われる。が、彼にとつては、夜はもはや神秘を藏さない。白晝の中にこそ、夜よりも深い神秘がある。ミロにとつて、夜は、白晝にひそむ神秘によつてひきおこされた感情を、しずかにいこわせる時間にちがいない。
 日光にあたって、すべての事物は分解し、氣化し、上昇して空にただよう。 ごくわずかな例外をのぞいて、ミロの作品に載せられた事物はみな重さを剥奪されたような印象を與える。存在するものがその質量をゼロにされて、空中に、陽氣に浮揚する。夜、人間の心を魅惑する妖怪まで、質量を失ってしまう。原始的な、ふだんはぼくたちの中にかくされている情念──エロティックなもの、グロテスクなもの、あるときはあさましく、あるときは無気味な本能が、人魂のように浮動しながらぼくたちの體内をふと通りぬけたようなショックを與えることもある。
 事物をアトムにまで分解するといつてもいい。アトムはただ生成流轉するのみである。破壊がそのまま創造になる世界である。分解し、構成するのはミロにちがいないが、しかし、母が子を生むような血縁關係は、畫家と作品との間にはない。畫家は個人で畫を生み出したなどという血縁を求めることができなくなった。血縁關係を拒絶した、この流轉の中に、畫家はおのれの生存の確實性を求めているにちがいない。「フォルムの不在」によって、畫家が自己の存在を證明するのだ。ミロがオートマティスムといい、偶然の結合というものも、この邊の事情を示すものだろう。

 ジォアン・ミロは1893年バルセロナに生れ、その生家をいまでも持つていて、バルセロナにいるときは、いつもこの家に住む。彼は自分の故郷に執拗な愛着をもつているが、それは單に生活上だけでなく、作品においてもそうである。若いころ學び養つたものを擴げるよりも深めていつたといえる。畫面に載せられた事物にしても、また、何よりも、彼自身の意識しない肌合いにしても、これを書面に載せられた事物にしても、また、何よりも、彼自身の意識しない肌合いにしても、これを支えるものは、この愛着心であるらしい。
 彼が幼少のころ藝術作品からうけた重大な印象は、カタロニア地方の教育や博物館などに残っている9世紀から12世紀にわたるロマネスクのフレスコだつたという。彼は後年にも、時々故郷に帰り、いつまでも、これらの作品との接觸をたもつている。
 ミロがバルセロナの美術學校で勉學していたころは、丁度、1910年から14年にわたる近代繪畫運動が西歐を興奮にまきこんだ時期で、バルセロナにも、ガウディの建築をはじめ、新しい運動が起つていた。バルセロナというスペイン中での産業都市は、西洋と東洋とのいりまじったさまざまな要素を含んでいるらしいが、いちはやく近代繪畫運動をうけいれた。ガウディの異様な建築をもうけいれるほど、複雑な様相をもつているにちがいない。
 それに、スペインというヨーロッパ中での異郷は、病理學の對象になるほどの腐敗と、「スペインが動けば世界はふるえる」という權力と、新世界への發展を経験している。まるで、ここには極端というもの以外には何もないかとさえ疑われる。グレコの聖女もいれば、ベラスケスのこびともいる。ドン・ファンがいるし、ドン・キホーテとサンチョ・パンザがいる。ドストエフスキーの「大審問官」もたしかに實在したし、ゴヤの大道輕業師もいる殘酷を快樂や法悅にまでしてしまう殘酷の天才、死にものぐるいの狂騒とそれを冷酷にみつめる眼・・・・・・
こんなスペインの中で、カタロニアは数世紀にわたって、いつも支配者から彈壓されていた。むかし、カタロニア語の使用を禁止されたことすらある。 こんな極端な彈壓をうけて、恨みに徹すれば、人間は單なる見榮からだけでも、いのちにかかわることをやってのけるものだ。
 「無脊髓スペイン」とは複雑な人種的、歴史的、文化的な混合の中で行われた移入型封建制についていわれた言葉だが、ガウディの作品は、まったく無脊髓の軟體動物のようである。合理主義がグロテスクと呼んだものが、ここではいきなり生命をもつて開花している。ガウディの建築の寫眞を見ると、爆發した溶岩が流れていつてつくつた奇怪な渦文や風穴のようでもあり、無気味な小物がすくつている海底の岩石のようでもある。近代建築の逆手をいつたように、直線の支えがなく、まがりくねつた曲線だけで構成されていて、いまに崩れそうだが、まるで、なにか腐りどめをしたかのように、崩れず、高くそびえている。こんな建築が、バルセロナの街では、奇怪な印象を與えぬらしい。バルセロナではミロをガウディの「藝術上の息子」と呼ぶ人もあるという。たしかに、ミロには、こんな怪奇がひそんでいる。が、このカタロニアのパリジャンは、怪奇をそのまま爆發させずに、これをひきとめ、しずかに定着するという方向をもつている。が、たぶん、後年のシュールレアリスムの「幻覺」は、 こんなきちがいじみた現象を見て育つたミロにとつては、そう異状なものではなかつたろう。
 ミロのこのおだやかな資質は、彼が毎年、年のなかばをすごしたモントロアの農園の雰圍氣にも負つているようだ。 モントロアはバルセロナ近郊の村で、その農園は父の所有地だったが、ミロの初期に描いた一連のモントロア風景を見ると、熱っぽいバルセロナとは逆に、郷愁的なリリスムのただよう、よく整頓のゆきとどいた田園らしい。彼はこのプリミティーフな田園の個々の物象の一つ一つに親密な感情をもつて接している。 彼自身の言葉に従えば、 彼はこの風景の即物的描寫はしなかつたが、しかし、 全くレアリスティックに描いているのである。

 美術學校で、ミロはモデスト・ウルヘルとホセ・バスコに習ったが、この二人の影響の大きかった。ことをミロは述懐している。ウルヘルがよく描いた三つの要素──赤い圓、月、星──それに地平線や水平線など、くりかえしミロの畫にあらわれる。ただ、ウルヘルの場合はベックリンの影響をうけて哀愁を帯びているのに反して、ミロのかたちは、明るく陽氣である。
 少青年期に學んだ、こういうかたちは、ミロにとつて一種の固定観念とも見えるほど、くりかえし描かれている。愛着というものであろう。これらのかたちを描くたびに、ミロはそのかたちの生命を恢復する。極端にいえば、ミロは成年に達してからは、發見ということをしない、つねに、最初のかたちの恢復ということだけを實行する。いいかえれば、かたちを恢復することがミロにとつては發見であつた。むろん、かたちは少しずつ變様し、次第に象徴的な性格をもつてくる。たとえば、ミロの作品によくくりかえされるものにハシゴがある。はじめは農園に對する親密な感情から描いたが、のちには、ことに大戦中マホルカ島にいたころは、「逃走」を象徴するようになった、とミロはいう。
 いま一人の師パスコは非常に寛大な人で、ミロに藝術上あらゆる自由をゆるした。このころミロにとつて、色彩はかなり容易だつたが、三次元的形態のデッサンはむずかしかつた。パスコはミロに觸覺でデッサンすることを教えた。 つまり、對象を與えるが、それを見ることを許さず、手にもつてさぐらせたのち、デッサンさせた。ミロが彫刻に關心をもつているのはこのときの訓練のおかげだというが、しかし、ただ彫刻だけではない。彼の畫のすべてについていえるマティエールの美しさは、視覺的というよりも、むしろ觸覺的な肌ざわりの美しさだともいえる。
 のちに、シュールレアリストの理念──既成の視覺によつて築かれ、準備され、彫琢されたかたちをすべて虚偽とし、視覺が優位を占める理性によつて、 まだ歪められていない基本的な現實と接しようとする理念──をすぐさま理解しえたのも、一つにはこのためであり、同時にまた、多くのシュールレアリストとの相違を知つたのも、何かを「發見」するのでなく、傳統的な、あるいはプリミティーフなかたちを「恢復」しようとする、つつましいが、強い信念によるものだろう。
のみならず、ここには、色彩とデッサンとの關係に、後年のミロを豫想させる重要な問題がある。色彩とデッサンとが互に獨立しながら、いつもたがいに補いあうという新しい課題である。どちらが、どちらに従属してもならない。 デッサンは即物的再現のための手段でなく、描くという行爲のメドになるのだ。色彩がはじめから容易だつたということは、彼の天賦の才であるし、1924年以前にすでに色としての黒を発見している。1930年ごろから、この黑を試金石として、他のさまざまな色を発見し、色の構成の達人になるのも、こうしたデッサンに支えられているからだ。
 とにかく、ミロはバルセロナで勉強中、すでにゴッホ、フォーヴ、立體派等の近代繪畫の動きに心ひかれながら、ともすれば無際限に流れやすい夢幻── 「スペイン的夢幻」──を、こんなかたちや肌ざわりでひきとめる術を得たのである。風土や傳統的技術にしたがって、怪奇と典雅、極端と平穏とを彼なりに一應統合したのち、第1次大戦後1919年のはじめパリに出てピカソをたずねた。このとき、ルソオの影響のみえる自畫像をもつてゆき、ピカソはこれを賞讃して買った。
しかし、同年6月いつたん故郷にかえり、いままで彼の得た験の一つの決算と、次への開放とがはじまる。モントロアの農場で再び畫作をはじめ、次の冬パリに出て定住し、まず、立體派の影響をうけた一連の静物畫を描いている。もつとも、立體派は彼に一つの基本的な方向を與えたとはいえ、ミロは立體派を全面的には理解しなかつた。 理解を拒否したといつた方がいいかもしれない。彼が立體派から得たものは具象的形態と 2次元性ということだったと思われる。これらの一連の静物畫は「農園」にまで發展するが、ここで、平面化と單純化との方向を吸収しつつも、彼の事物への親密な愛着心はその方向に一定の限度を與える。細部にわたる、忍耐強い、装飾的な郷愁的な冩實性は、むしろ、カタロニアのプリミティーフな寫本挿繪の様式の「恢復」であろう。個々の物象が時間的にも空間的にも同質になっている。
 「農園」を描いたころ、彼はアンドレ・マッソンの近くに住んで、 親交を結び、マッソンを通して、若い詩人たちと知り合った。ミロは彼らの議論をきき、彼らの思想に心ひかれた。が、彼は多くの場合、傍聴者であつた。このころミロはジャリの作品をむさぼり讀んだという。
彼の「繪畫詩」が生れてくる。カンヴァスの裏に題を書きいれたり、のちには、畫面に詩句を描くにいたる。彼は東洋の象形文字や書法に傾倒しているが、しかし、文字はたとえ象形文字であったにせよ、すでに文字である以上、再現的内容や逸話的描寫からはなれている。ミロも個々の物象に誠實であるにしても、決して物象の再現的模冩はしない。文字を描いても、それは詩の意味が問題なのではなく、視覺的にそれ自體満足すべき一つの繪畫的事實である。
ミロとマッソンとを他のシュールレアリストと區別するのは通説であろう。 マッソンにはここではふれないが、ミロは二次元的な抽象的な畫を追求するために「幻覺」によって奇異なものを用いようとする。たぶん、これは他のシュールレアリストとは手順が逆であろう。
 オートマティスムと「偶然」の開拓とをミロはあらゆる方法でこころみている。材料と遊びたわむれること、意識の統制から観察を開放すること、コラージュの工夫等々・・・・・・だが、同時に、細心な職人的な訓練がある。彼の畫に、人物が石を鳥にうつものがある。おそらく、未開人たちは一つの訓練によって、力學の諸條件を肉的に感知し、石をうち、矢を射れば、正確に動く的にあてる。こんなとき未開人のからだは人間の肉體の許す、もつとも軽快な、優雅な姿態をとる。ミロのオートマティスムや偶然は、あえてたとえれば、客體が動くばかりでなく、こうして主體そのものが動くという、行動によるデッサンである。

 1925年以後シュールレアリストと共に仕事をし、また、分離していつた過程は圖版で見ていただきたい。抽象的にせよ具象的にせよ、いろいろの搖れを經驗しながら、以後のミロは本質的には變化しない。彼にとつては、すでに知っているものを、あらためて知らぬ状態において、「恢復」をくりかえす仕事だけが残っていたのである。
 ミロはある意味で折衷派にちがいないし、おそらく開拓者ではなく、大藝術家ではない。1920年ころまでを近代繪畫の英雄時代とすれば、ミロは歴史がそこを經験をしたのちの畫家である。大藝術──近代繪畫でそう呼びうるものがあるとすれば──を描くことがいよいよ困難になった谷間で、ミロは藝術家としての成熟期に達した。ここでは過去の遺産を背負って、自分の手のとどくかぎりのごとを誠實にはたしてゆく以外に手がなくなったようである。たとえ大壁畫を描いたにしてもである。
 ミロは「幻覺」から出発したにせよ、また、寫實から出発したにせよ、いつも次の段階では「職人的細心」をもつて構成してゆくが、さて、完成した作品に對して作者に責任はないといい切る。たぶん、この無責任こそ、彼に與えられた課題を責任をもつてはたしてゆく唯一の方法だったにちがいない。逆ではない。 フォルムの不在ということでしか自己を明證しえぬ無念である。彼が政治には無關係な地點に身をおいているのも、普通いわれるような、享楽主義への逃亡ということではあるまい。「繪畫の破壊」をしたのはミロだとすれば、「繪畫の破壊」をも破壊してしまつた現状において、それ以外に手のないときには、これはやはり、それなりに繪畫への愛着を示し、それによつて社會的責任をはたす態度なのだ。

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