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キッコウの美学 ─杉全直の作品─

みづゑ

《現代作家論2》
キッコウの美学 ─杉全直の作品─

 昨年秋の、サンパウロでの印象からはじめよう。ビエンナーレのコミッショナーとして1ヵ月余り滞在していたその大半を6人の出品作家の作品とつきあって、すごしたのだから・・・・・・。
 6人に共通した問題は、しかし、あまり大きすぎるから、ここではいわない。 杉全直についてだけにすれば・・・・・・。
「キッコウにつかれて」という連作をすでに発表したのちであった。すべて、六角形に関係のある形態であり、画面の力強さは日本の画家とし出色であろう。 画面の力強さ──奇妙な比喩をゆるしてもらえば、表面張力とでもいいたいようなカ──が、六角形というかたちと、どんな関係があるのか、それは分らないが・・・・・・。
 杉全のかく六角形のかたちと色調には、ある華やかさと、ある暗さがあり、それから、ふと、日本の歌舞伎の衣裳や模様を連想したこともあり、また、もっと古くからある意匠──むかし日常使われていた、あるいは、いまでもどこかで使われているかもしれぬ、漆器とか、あるいはもっと簡素な材料でつくられた道具に、むかしからあるような意匠を連想したこともあった。
 日本という風光明媚な、しかも陰湿な風土のはぐくんだ文化のあかるさと暗さとを反映しているのかもしれないし、非常に新しいものと古いものとがいりまじっているのかもしれない・・・・・・。
むろん、杉全が歌舞伎の模様や伝統的な、あるいは民俗的な意匠を意識しているわけではあるまい。おそらく、サンパウロの強い日光の中で世界の美術と一緒にならんでいて、ぼくにふと、そんな気ままな連想をおこさせたのだろう。
 六角形というものがどういう性質をもっているのか、数学的、力学的あるいは物理的なことがらは知らない。四角形、三角形、円などが、いわゆる純粋抽象によくあつかわれるとすれば、六角形は、その点、多少不純物をふくんでいるかもしれないし、それだけ、人間的なものであろうか?人間の作意あるいは動物の生理的動作、あるいは自然の不純物・・・・・・。
 雪の結晶、ハチの巣、金網の目、建物・・・・・・六角形やその連続・・・・・・。
 キッコウといえば、亀は、いまでは、中国では亀八に通じてきらわれるが、むかし、亀甲をもって占ったというところで、禁忌とする心持があるのかもしれない つまり、何となく、その形に人間の心理的なものが投影できたのかもしれないのである。
 だが、六角形にとりつかれているということは、結局、どうにもならぬことなのだ。というより、第三者からすれば、三角だって、四角だって、円だって、それはどうでもいいことなのである。要は、六角形にとりつかれて、それが作者の造型上の何ものかにつながり、必然性をもっているかどうか、であろう。いろいろな形態を遍歴しているうちに、カリグラフィックな作品をつくっているときにも、気がついたら、自分の求めているものが、六角形であることに気がついた、という意味のことを杉全は述懐していたが、六角形にとりつかれているということ、それは、杉金のうちのデーモンであって、結局のところ、ぼくには、わけのわからぬことなのである。わかっているところは、杉全直という画家は何かデーモンにとりつかれているときに、本格的な仕事をするということだけである。
 画面の力強さ──表面張力とでもいいたいような力、とさきほどいったが、実をいえば、そこがぼくの不満といえば不満なところだった。
 数年前、抽象表現派風のアクションペインティング (といっていいかどうか分らぬが)は、力が外へ外へと出ていて、その力強さは感じられるのだが、外へ出る力に拮抗して内に引きこむ力が不足しているようにぼくには思われたし、いまでも、そう思っている。いくつかの、あるいは、無数の外に出る力は、たがいに拮抗してバランスを保っているのだが、そうした画面全体を内へ引きこむ、あるいは、内から支える力不足していて、作品としての振幅が弱いように思えた。
 六角形のかたちが出てきたころから、その振幅を増してきたように思われる。が、サンパウロに出品した作品に不満をいえば、それだけ振幅を増し、力強くなっているが、柔軟性が、いま一つほしいということだった。決して、ないものねだりをしているつもりではない。出るべきはずの柔軟性がまだ出ていないという不満である。やがては実現しうる可能性だから、もどかしさよりも、期待の方が大きい不満である。力というものは、芸術作品の場合、柔軟性を通してあらわれるものだ、とぼくは思う。

 ぼくの帰国したのち、昨年の晩秋、杉全はかなり大きな個展をひらいた。
 「✔︎ と題して」とあった。「✔︎ 」とは六角形を構成する単位であろう。当然見に行くべきだったが、ぼくはついに見る機会を失った。判断を一日のばしにのばす、ぼくの性向は、可能性の実現をたしかめることに躊躇したためかもしれない。
 あらためて、年の暮に杉全直の家を訪ね、アトリエで近作を見せてもらった。
 期待は実現されていた。
 一つだけ例をとろう──
 大きな黄の上に、四つの六角形 (三つが黒、一つが白)がおかれ、きまるべきところにきまっている。
表面上の平衡感覚は、幾何学的な分析で、ある程度まで心理的にも説明できるかもしれないが、それをしたところで、結果は、迷路に入り、結論の出ないまま終るだろう。当然である。結論は絵画そのものが出しているのだから。
 見かけのさりげなさの中に、熱っぽい力がこもっているマチエールという、いわば、触覚を通してあらわれる人間の体温が、幾何学的な型を支えているといってもいいし、その逆だといってもいい。それだけに、新作に多くの時間がかかったものと推測される。
 デーモンにとりつかれて一気に描いたものではなく、デーモンの声をしずかに、忍耐強く、きいているとでもいった作品である。それを柔軟といってもいいのであろう。
 それぞれのモメントが生きていて、たがいに他を圧倒しようとして力を出し、その力の均衡の上に、全体のバランスがとれている、といえば、いままでの作品だってそうだが、そのおのおのの力が、あからさまに外に出ていないで、たがいに力を撓めている。いいかえれば、そんな全体の画面が内なる声に支えられている。造型上のバランスとはそうしたものであろう。
 内なる声などといっても、物語りめいたもの、逸話的表情はない。あるものはある緊張したシテュエーションである。動くものを定着したといってはいいちがいであろう。一瞬のものを不動のものにしたのでもない。いわば、すべてのモメントを一つの関係の中に、ぬきさしならぬ位置においたということである。

 抽象──超現実主義──表現主義 (あるいは、抽象表現主義)──それに、実存主義・・・・・・こういう一連の、極端な(実際に極端かどうかは分らぬが) 造型思考は、誰でもいうように、現代の現実についての認識と、芸術における表現との、 微妙な、そして、必然的な関係を反映しているにちがいない、杉全の場合、そうしたさまざまな造型思考を遍歴して、それが、そのときどきの、自己の様式としてあらわれてくる。(一方で、挿絵などで、描写的な線描をたくみにあつかっているが、これも杉全の場合は、矛盾にはなっていないのかもしれない。あるいは、サーヴィス精神が多いからかもしれない。)
 問題は、自己の必然の様式であることが、時代の必然の様式となりうるかどうかだが、これは、いまのところ分らぬというのが本当だろう。あるいは、誰かもいったように、現代が一種のバロックに近いとすれば、バロックにはムードまたは風潮またはモードはあっても、スティルがないという意味で、現代には、時代のスティルはないのかもしれない。とすれば、自己の必然の様式が、時代のタイミングにあっているかどうかが問題であろうか。 (この場合、タイミングがあうということは、軽薄な流行の尖端を行くこととはまったく別のことがらである。)
 むろん、そうした、さまざまな様式を次から次へと一応は消化して──より、厳密にいえば、出来上った既製の様式を消化したつもりになって──遍歴するのは、ここ数十年間の日本の風潮であって、それだけならば、めずらしくもおもしろくもないというより、ここに来ては、一つの大きなマイナス面になっているし、かといって、折衷もマイナスであろう。
杉全直の場合にも、決して、様式の継起の順序に従って変化し、発展してきたわけではない。やはり、一種の雑種にはちがいないのである。この雑種の中から何かの生れる可能性を、しかし、杉全は実現している。
ぼくの想像では・・・・・・この雑種雑婚の中で、いいかえれば、あらゆる様式との手あたり次第とも思えるほどの野合の多い中で、杉全は正式な結婚をすることによって、様式を正そうとしているようにも見える。

 ここに来て、数年前の抽象表現派風のアクションペインティングが杉全直の場合、どういう意味をもっていたか、ようやく分るような気がする。
 幾何学的な抽象とか冷たい抽象とかいわれるものでは満足できない心持──そんな心持は、たぶん、ある時期には、誰しも持つものなのだろう。ここで、はなはだ図式的に割り切ったいい方をすれば、構成主義はともかくも、ある世界的な連帯感を明確に感じ、その連帯感に支えられて生きるという状態のときに、多くおこるにちがいない。これに反して、抽象表現主義は、そうした連帯感に不信をいだいて発生する・・・・・・といって悪ければ、それまでたがいに共通の地盤に立っていると思っていた、外ならぬ、その共通の地盤に、 多少ともずれを意識したときにおきるにちがいない。つまり、再び(‘‘)孤独にたちもどって、眼が内向している状態でおこる。
 自分の立っている土地は、まだ誰も手をふれたことのない未開拓地である。「処女地を開拓するにはクワを深くうちこまねばならぬ。」激しい力で打ちこむクワのあとはまがりくねり、ふしくれ立ち・・・・・・そんな状態が、いわゆる「内攻的ナショナリズム」とどこかで関係があったか、なかったか?
 このころに、増殖というような言葉を杉全は使っているが、細胞分裂のように、無意識のうちに増殖が行われてゆく、そのえたいの知れぬものをとらえようとしたのかもしれない。
 流動するもの、生々流転・・・・・・というと、何となく純粋客観的にきこえるとすれば、たとえば、デモクリトスのヴォイドのようなものか?
(少し急いでいうと、ここでもまた、ぼくは、日本のすぐれた芸術家のもっている汎神論的なものにぶつかってしまう。多少、大げさにきこえるかもしれぬが、唯一神論的なものの育ちえなかった日本の風土とか文化というもののうちで、おそらく、いまのところ、唯一神論的なものに対立するものとして、汎神論的なものの上に立ったものを感じるのである。)
 しかし、こういう激しいアクションを支える、唯一のよりどころは、そのアクションをおこさせる作家の心情の自発的必然性であろう。そして、心情の必然性をたもたせるものは若さというものであろう。かならずしも、生理的な年齢の若さではない。いわば、ある様式の生れた、その年齢の若さである。
 もともと、ここは不毛な土地なのだ。開墾して豊かにしうるほどの土地ならば、もうとっくのむかしに誰かが開墾していたはずである。それを承知の上で、豊饒なみのりを夢みるようなもので、いわば、その夢にかける真実が作品を成立させるメドだったかもしれない。そして、それ故に、外に外に出る力の強さに、存在感をたしかめようとしたのであろう。

 「思えばいわゆるつめたい抽象の勃興期に人間性を極度に排除した時期があったが、今また或る意味の人間性を払いのけ、人間の尺度を越えた或る新しい空間に突入しなければならない羽目に来ている」(芸術新潮1961。3月号)と杉全は1年ほど前にいっている。
 ここでいう「人間性」という言葉には、使い方にいくぶんの疑問はあるが、いわんとする意図は、おのずと明瞭である。
 人間の心情ではどうにもならぬ事物とその諸関係にぶつかっているということである。事物の諸関係をとらえることによって、事物をあるべきところに設定する・・・・・・そんなところには人間の情念も心情も入りこむ余地がないかもしれないし、事物は、もはや、何の表情ももたなくなる。人間が幸福なほほえみを知るのは、こんなときかもしれない。
 だが、こんな事物の諸関係と、六角形という形とが、どんな関連をもっているのか、いぜんとして分らない。
ただ、こういうことはいえよう──
 「輪廓がぼくから逃げる」 という悲痛な認識から、現代絵画の問題がはじまったとすれば、杉全は、この系列の中に位置をもつ必然性を身につけたということ、 そして、何らかの新しい輪廓をあらためて求めようとするところに、杉全直の成年としての出発があるということ。

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