「東西美術論」新刊書評
美術手帖
「東西美術論」新刊書評
マルマルロウ著
小松清訳
ぼくたちの見ている美術作品はすべて複製だ、とぼくはつねづね考える。印刷されたものをいうばかりではない。たとえば、寺院を出て博物館におかれた飛鳥仏を見るとき、ぼく(たち)の見ているものは飛鳥仏の複製ではないか。ある建物――それが個人の家であろうと、公共の職場であろうと――の壁にかけらるべき絵が展覧会の壁にかけられているのを見たとき、それは、その絵の複製ではないか。
いや、さらにいえば法隆寺に行ってその伽藍の中におかれた飛鳥仏を見たにしても、それは、もはやぼく(たち)には複製にすぎない。そこで生活していない他人の家あるいは職場にかかっている絵は、ぼくには複製にすぎない。といって、古代の彫像がおかるべき建物をすっかり復元するのは茶番である。いわゆる歴史的事実には忠実らしくみえながら、それはぼくたちの生きた歴史を拒否し、空白に帰することにすぎぬ。作品が建物を出てしまった、それがぼくたちの現実なのだ。
むろん、ぼくはそれをなげくわけではない。(美術館という無人格的な場所が芸術作品を抽象的怪物にかえた、といって、ここ何十年か、ずいぶんなげかれたものだ。)それがぼくたちに与えられた生活空間である以上、そこからぼくたちは何らかの解決にのり出さねばなるまい。
複製にとりまかれた抽象的な場では、作品は時代的にも空間的にも距離を失い、そうなれば、尺度ではかれる寸法を失ってしまう。そうなったときにも、なおかつ失われぬカ――それが、造形芸術のスティルというものだ。いわゆる歴史的事実を拒否することで、ぼくたちは――ぼくたちは、といって悪ければ、芸術作品は――人間の歴史を救うのである。
マルロウは「東西美術論=空想の美術館」でそういう造形のカ――芸術作品のスティルを熱烈に救い出そうとする。抽象的空間たらざるをえぬぼくたちの生活空間という負い目を、むしろ、積極的に生かそうとする。そうでなければ、自分の存在があぶなくなるからだ。むろん、その背後には、ヨーロッパ文明を――自分がその中に生き、それに支えられている文明を、どうして恢復するか、という大前提がひそんでいる。芸術以外のものでこの大前提が救えれば、芸術などどうでもよかったにちがいない.・・・・・・
この書はそんな熱烈な意志からはじまる。ぼくとすれば、部分的には納得もゆかず、反対のところもあるが、そうした細かいことはこの情熱の中ではあえて気にならなくなる。それが、この書のもっとも立派なところである。(新潮社刊 A5判 本文一五八頁 原色図版十六頁単色図版二十八頁 九〇〇円)
岡本謙次郎