宗教的な現代の芸術 美術界最近の話題から
美術界の最近の話題について、といっても、あらわれてはすぐ消えてゆくような、さまざまな現象についてお話ししても仕方がない。現代美術の本質的な問題(とぼくの思っていること)について、ここ五〇年間ほどを最近と見て、何となくお話ししていきましょう。
リバイバル・ブームと言われますが、美術界でのリバイバルは二〇世紀の初頭から起こっています。千年ほど前の中世の問題や、五千年前のエジプトやメソポタミヤの作品が、あるいは、四万年ほど前の洞窟画があらためて、現代の眼で捉えられるようになったわけです。歴史的な視野が広がったといってもいいし、同時に、地理的な視野も広がったとも言えます。
ピカソをはじめ、現代美術のフォルムは黒人芸術その他のプリミティブ芸術に刺激されて生まれた、と一般にいわれます。たぶん、継起の順序からいえば、そういうことになりましょう。が、問題なのは、継起の順序ではありません。
芸術の本質的な問題からいえば、現代美術のフォルムがプリミティブ芸術をよみがえらせたのであって、その逆ではない。少なくともプリミティブ芸術の形態の生命を、あらためて発見したのは(あるいは、再発見したのは)現代の芸術家たちであり、その形態を過去から現代へと救い出したのは、その芸術家たちのつくり出したフォルムなのだ。といった方がずっと正確です。芸術は技術の問題にかかわる以前に、生命に関わる問題だ、ということが明りょうになったのが現代芸術であり、あらゆる過去の所産が、その点を軸としてよみがえったといえるわけです。
プリミティブ芸術は、人間の手におえぬもの、どうかえようもないものに、人間以外の生命を明確に与えようとする努力の集積だったといえぬこともない。この点では、どんなプリミティブ芸術も、それぞれ一つの完全な文明の所産であって、未開ということはありえない。透視図法を基準とした文明から考えて、十九世紀中ごろのヨーロッパが、他の文明を未開と呼んだにすぎない。いまになると、先進だの後進だのという言葉自体が、すでに、芸術の世界では、おかしなものになっています。
現代美術も、事物に、そのもの自体の生命を見ようとする。人間の手におえぬ、どうかえようもない生命を見ようとする。この点、アニミズムによく似ているかのように見えます。
が、重要な相違を見おとしてはなりますまい。そうすることによって、人間と世界とを、あらためて結びつけようとする意志です。いいかえれば、人間が他の存在者を存在者たらしめることができたときはじめて人間は存在者となりうるかもしれぬ、という意識であり、それへの意志です。
この意味からすれば、現代芸術―ことに、抽象芸術といわれるものは、見かけはプリミティブ芸術に似ながら、人間衝動からいえば、ルネサンスの人々とはるかに近いかも知れません。(美術界では、だからリバイバル・ブームではなく、ルネサンスだと言った方がいいかもしれない)
だから、プリミティブ芸術のたのしさをいうとき、それはすでに許された形態であるために、(いまでは、ほとんどすべての形態が許容されている)、新しい作品を生むという行為をふくんでいないかぎり、コットウいじりとかわらなくなります。つまり、頑物喪志というおとし穴が、ここにもあいているわけです。
透視図法のシステムは、近世ヨーロッパの合理主義を支える最も重要なシステムの一つですがこのシステムによる距離感や物の輪郭がくずれると、人間は不安をおぼえる。だからといって、いままでの通念に従った輪郭は存在者としての輪郭とはいえません。
人間はこうした場合、そのまま受動的におかれた状態のままでいるわけにはいかぬものらしい。同時に、それは、他者をもそのままにはしておかぬことになります。
自他の無意識をゆさぶりおこして、不安な状態につれこむーこれは生身の人間にはいかにもつらいことだ。ひょっとしたら「天地の理法」にさからうような不可能なことかも知れない。
「残酷の天才」といわれるような激しい愛情がいるようだし、そこまでゆけば、ほとんど宗教的なものかも知れない。事実、現代美術は人間の歴史はじまって以来、もっとも宗教的だといえぬこともない。芸術は生命にかかわる問題だと、先ほどいったのは、この辺のことです。なるべく、芸術などにはたずさわらぬ方がいいのです。
(法学部教授・英語担当・美術評論家)